山吹によき句すくなし今むかし 泉鏡花松尾大社の境内を流れる一ノ井川の両の淵に山吹がいまを盛りに咲いていて、松尾大社はやまぶき祭の看板を掲げているが、かつて「山城井手(現在の綴喜郡)玉川」が山吹の名所であったといわれ、池西言水が「山吹は人のうら屋ぞ井出の里」と詠み、与謝蕪村が「山吹や井出を流るゝ鉋屑」と詠んでいる。万葉集にある「宇治川の歌、二首」の二首目には、「秋風に山吹の瀬のとよむなべ(波音がざわざわ響くと同時に)天雲翔り雁渡るかも」と宇治川を「山吹の瀬」と詠んでいる。宇治の南が井手の玉川が流れる綴喜郡である。「宇治川の歌、二首」のもう一首はこうである、「巨椋(おほぐら)の入江とよむなり射目(いめ)人の伏見ヶ田居に雁渡るらし」。「巨椋」は昭和八年(1933)から十六年(1941)の干拓で消え失せた巨椋池おぐらいけ)のことであるが、『山州名跡志』にこう記されている。「巨椋は小倉に作る。宇治の乾(北西)三十町許(ばかり)に在り、民は名居村に有り。此の所伏見より到る順路は、豊後橋の南、大和路にて、橋より五十町にあり。其の路の左に宇治川あり。右に伏見の沢あり。右此の五十町の所、秀吉公の時築きし所の堤あり、古への大和路は、巨椋より寅卯(東北東の東)の間に向つて宇治橋に出て、木幡の関に赴きし也。巨椋に於いて和歌を詠する所、入江、林、里等なり、入江と云ふは、堤無き初めは、宇治川流れ入て、西の方伏見川と一面なり。」松尾芭蕉の死(元禄七年(1694))の二年後に幾人かの芭蕉の弟子を訪ね歩いた竹内十丈がこのような山吹の句を詠んでいる、「山吹や巨椋へ出ればひるま過ぎ」。芭蕉に「山吹や宇治の焙炉の匂ふ時」の句があり、十丈はこの句が頭にあったのかもしれない。この時十丈が会った各務支考は十丈に「山吹に金ほしからぬう治もなし」と詠んでいる。山吹といえば宇治川の山吹であり、山吹の花の黄色は金を思い起こさせ、「う治」は名の通った家柄を示す氏を掛けているのかもしれない。芭蕉には「ほろほろと山吹ちるか滝の音」という句がある。この句には「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重に咲きこぼれて、あはれにみえ侍るぞ、桜にもをさをさをとるまじきや」の前書があり、これは紀貫之の歌、「吉野川岸の山吹吹く風に底の影さへうつろひにけり」を踏まえていて、吉野山が桜の名所であるが吉野川の「岸の山吹」も劣らず名所であるという。滝の音にさえ散ってしまうような花が山吹であると芭蕉は詠んでいる。泉鏡花に「山吹」という短い戯曲がある。その冒頭にこのような一文が置かれている。「山吹の花の、わけて白く咲きたる、小雨の葉の色も、ゆあみしたる美しき女の、眉あおき風情に似ずやとて、━━」修善寺温泉の裏路にある綿紙反物生椎茸などを並べたよろず屋で一人の年寄りの人形使いが酒を飲んでいて、店先の遅桜につられるように傘を差した若い女と洋画家がやって来る。女はある落ちぶれた子爵の家内で家中の者からいじめに遭い、家を飛び出し、追われる身を隠すため宿で眉を剃ったといい、結婚前から憧れていた洋画家にこの地でたまたま出会い、私を奥さんとして一緒に連れて行ってくれと頼むが洋画家に断られる。すると絶望した女は、「私はこれまで何の望みも叶えることが出来なかったが、お前さんの望みを叶えてあげよう」と年寄りの人形使い云う。それを聞いた人形使いは、「昔女に対して罪をつくった。その罪を償うため、私を打ってくれ」と裸になって背中を差し出す。手加減をしていた女は破った傘の骨と柄で、「私を憎い姑と思って」と云う人形使いの背中を打ち、その背中を血だらけにする。その様子を洋画家に見られた女は、「人間界のあるまじき、浅ましい事をお目にかけて」と恥じ入るが、人形使いは私の願掛けは、「美しいお方の苛責でのうては血にも肉にも、ちょっとも響かぬ」と云い、「お難有(ありがた)い責折檻苛責を頂いた」と喜んでいる。「婦人を虐げた罪を知って朝に晩に笞(むち)の折檻を受けたい」と人形使いが続けると、女は、「世界の女にかわって私がその怨み晴らしましょう」と応える。その言葉を聞いた洋画家は女に、「その覚悟は変わらぬか」と女に訊くと、「あなたが私の手をひいて一緒に旅館に帰ってくだされば」と応える。洋画家は、「しばらくお待ちを」と応えを濁し、女を病気であると断じ、「お前に女を連れて行く覚悟はあるか」と人形使いに訊くと人形使いは頷く。どこからともなく二人の稚児がやって来る。洋画家は、着ていた外套を脱いで女と人形使いをその上に座らせ、持っていた酒を二人の稚児に注がせ、祝言のまねをさせる。女は洋画家に、「世間へよろしく、さようなら」と云って人形使いと去ると、洋画家は、「魔界かな、夢か、いや現実だ」と呟き、幕が下りる。「山吹の花の、わけて白く咲きたる」と泉鏡花は書いたが、山吹に白い花はない。白山吹は別の花である。山吹の黄をもて春を行かしめず 後藤比奈夫。

 「湖の向うに見える小舎(こや)は氷屋(ひや)でございますよ。湖の番人がゐるのです。と女は私の質問に答へて云つた。私は湖面に一つ浮んでゐる白い箱を指差してまた尋ねた。あれは燈籠流しの残り物です。もう一週間早くいらつしゃれば御覧になれましたのにといふ。燈籠流しの夜には湖面へ五百ばかりの燈籠を浮べる。それが風の間に間に湖いつぱいに漂ひ流れて沈んでいく。」(「榛名」横光利一『筑摩現代文学大系31横光利一集』筑摩書房1976年)

 「海底トンネルの岩盤掘削終了 東電、処理水放出口周辺を掘進へ」(令和5年4月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)