その日紫野大徳寺の境内をぶらぶらしているとどこやらから笛鉦の音が聞こえて来て、耳を澄ませるとその囃しの音はだんだんこちらに近づいて来るようで、待っていると音は次第に大きくなり松の間から行列が見えて来る。先導する二三人の裃姿の年寄りの後ろを狩衣のようなものを着た者らが鉾を持って歩き、緋色の小袖の腰に太鼓を締めた赤い毛の二人の子どもが裃を着た男に手を引かれて続き、次を浴衣姿の男、縁に赤い絹の幕を垂らし上に山吹や柳や松を飾った風流傘、頭に赤と黒の長い毛を被り白袴に緋色の打掛けのようなものを着て鉦と太鼓を叩く年若い四人に藍色の素襖(すおう)とい礼服を着た子どもと大人の十人ほどがその後ろで笛を吹き、列の最後の烏帽子に袴姿の者らは刀を肩に掛け、その先に草鞋を何足もぶら下げている。行列は寺務所の前の辻で足を止めると、二人の子どもが二度三度立つ位置を入れ替えながら左右の手で太鼓を叩き、出て来た寺の者に挨拶をする。笛の囃すその傍らで浴衣姿の男の掛け声に従って四人の年若い赤と黒の毛の者らが鉦と太鼓を打ち鳴らしながら輪を作り、「踊れ」の声が掛かると四人は股を広げて跳び跳ね、百八十度身を入れ替えながら輪の形にぐるぐる廻っていく。これがやすらい祭のやすらい踊りである。行列は大徳寺を出ると警察に先導されながら道路を進み、道端に出ていた氏子の玄関先で踊り、年寄りが椅子に座る幼稚園の入口で踊る。後白河法皇の手になる『梁塵秘抄口傳集』にこの踊りの元(もとい)となるものが「ふうりやうのあそび」として出て来る。「久壽元年(1154)三月のころ、京ちかきもの男女紫野社へふうりやうのあそびをして、哥笛たいこすりがねにて神あそびと名づけてむらがりあつまり、今様にてもなく亂舞の音にてもなく、早哥の拍子どりにもにずしてうたひはやしぬ。その音せいまことしからず。傘のうへに風流の花をさし上、わらはのやうに童子にはんじりきせて、むねにかつこをつけ、數十人斗拍子に合せて亂舞のまねをし、惡氣と號して鬼のかたちにて首にあかきあかたれをつけ、魚口の貴徳の面をかけて十二月のおにあらひとも申べきいで立にておめきさけびてくるひ、神社にけいして神前をまはる事數におよぶ。京中きせん市女笠をきてきぬにつゝまれて上達部(かんだちめ)なんど内もまいりあつまり遊覧におよびぬ。夜は松のあかりをともして皆々あそびくるひぬ。そのはやせしことばをかきつけをく。今様の爲にもなるべきと書はんべるぞ。音發ノ人唱出スカクセウタキ人ス亂舞ノ音ノ様ニ唱正音ニアラズ不信用 はなやさきたる やすらいハナヤ はなやさきたるや やすらいハナヤ はなやさきたるや やすらひハナヤ 帖音に唱て急に 亂拍子になりぬ。 やとみくさのはなや やすらひ花や やとみをせばなまへ やすらひ花や やとみをせばミくらの山に やすらひ花や やアまかまでなまへ やすらひ花や やアまるまでいのちをば やすらひ花や やちよのちよそへや やすらひ花や やこのとめをなまへ やすらひ花や やこのとそをやねのせき やすらひ花や やはしめてなまへ やすらひ花や やはしめてちよふる神の やすらひ花や やミまやとのミせむや やすらひ花や やさりなへこなへ やとるまろもやすら やさけなへとなへ やひたまろもやすら 返唱 やさかこはたひに とりたふなり やたどりたつなり やよよひにきて よひにきて ねなましかわ やとりたゝまし やとりたゝまし やいまあらそはで ねなへましものを いまはもひでゝ あなにしたらこひむ 此哥をはやして唱ぬるに有勅禁止はんべり。何のさはりとも聞えず。わけあらんとつたへきゝしぞかし。唱ものをこのむというて、みだりにすべからず。ついにはたゆることもあり。」(『新訂梁塵秘抄佐佐木信綱校訂 岩波文庫1941年刊)久寿元年の三月の頃、都の近辺に住む男女が今宮神社に風流の遊びをするのだと云って、歌を唄い、笛や太鼓や摺り鉦を鳴らして神遊びと称して殺到し、今様でもなく即興のいわゆる乱舞の曲調でもなく、神楽の早歌の拍子の取り方とも似ていない歌と囃しで、その音声は正統の流れを汲むものではない。傘の上に優雅な花を挿し、おかっぱ頭の子どもに小狩衣を着せ、胸の羯鼓を叩かせると、俄かに数十人の者どもが拍子に合わせて乱舞を真似たように踊り、悪気と称して鬼の姿に扮して首から赤い布を垂らし、伎楽の魚口の面を被って十二月の鬼やらいのような恰好をしてまるで狂ったように呻き叫び、神社にやって来ると神の前でいつまでも踊り狂った。都じゅうの身分の高い者も低い者も市女笠を被り垂らした絹で身を隠して上達部(公卿)など内裏の者までも集って見物に来る有様である。夜になれば松明を点して全員で踊り狂った。この神遊びの囃し詞をここに書きおいておく。今様を知るためのものになるはずであると思って書き殘すのだ。はながさいた さきちるはなをしずめよう とみくさのはないねのはな ちるはなをなだめよう 云々。この歌詞を皆で囃したことで帝の勅により禁止となった。何の差し障りがあったのか知らない。それなりの訳があったのであろうと伝え聞いただけであった。歌謡がどんなに好きであっても無闇に騒いではだめだ。仕舞いにこのような歌謡が絶えてしまうことだってあり得るのだ。『今宮神社由緒略記』によるやすらい祭の説明はこうである。「往古三輪大神など疫神を鎮めるために営まれていた神祇官の鎮花祭と、後に疫癘(えきれい)を攘(はら)うために営まれた御霊会とが結びついた民衆の中から生まれた花まつりである。すなわち。昔疫病というのは春の花が飛び交う頃に、疫神が分散して病を与え人を悩ますものだと信じられ、これを鎮めるため奈良朝の昔から花時に鎮花の祭儀を行っていたが、一方人々は疫病除けの神として疫神を祀り、これを崇めこれに詣でて鎮疫安穏を祈願するのが習わしであった。当社には平安建都以前から素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀った疫神社であり、紫野御霊視会が修せられるようになった頃を契機として、鎮花祭の儀式に擬した形で風流をこらし歌舞することによって疫神を浮かれさせて除疫をはらい、あわせて意気消沈した人たちの心を引き立たそうとする祭として盛んに行われるようになった。」「花の精にあおられて陽気の中に飛散するという悪魔の精霊を囃子や歌舞によって追い立てて花をあざむく風流傘に宿らせ、紫野ノ社に送り込み神威を仰いで降伏させるというのがその行法である。」この行法に従い、ふた手に分かれ町内の氏子を巡ってやすらい踊りを披露していた行列は、悪疫を集めた花傘を捧げ持ち、今宮神社で最後の踊りを奉納する。この四月第二日曜日、今宮神社にはやすらい踊りを見るための幾重もの人垣が出来た。緋色の羽織のようなものを着た年若い四人が頭に被る長い毛はシャグマ(赤熊)という犛(やく)の尾を染めたものだという。この者らの役回りは鬼である。鬼が踊り、それを見た悪疫が花傘に引き寄せられる。悪を引き寄せるためには悪を引き寄せるように踊らなければならない。であれば悪を魅了するのがやすらい踊りである。「あわせて意気消沈した人の心を引き立たそうとする」のであれば、人も悪と同じものに魅了されるということである。悪なれば色悪よけれ老いの春 高濱虚子。

 「鎮花祭、花鎮めの祭りというもののあることを、毎年、住まいの正面に咲き盛る花の散る頃になると思う。その往古からの祭りを今に伝える神社があり、年々花の散る頃に賑々しくおこなわれるそうで、行って見たい心はあるものの、よほど折り良く思い立たぬかぎり、めっきり出不精になった足を遠方まで運ぶことはこれからもおそらくないだろう。」(「やすらい花」古井由吉『やすらい花』新潮社2010年)

 「処理水海洋放出、生産者の45%風評影響懸念 東日本7道府県調査」(令和5年4月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)