平清盛の長男平重盛次男平資盛(すけもり)との恋愛の歌で知られる和歌集『建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)集』の右京大夫(うきょうのだいぶ)は、高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んだ平清盛の次女平徳子建礼門院に仕えた女房である。仕えた時期は承安三年(1173)から治承二年(1178)の十七八の年からの五年ほどであり、久寿二年(1155)生まれの建礼門院とは二、三の年下である。年下の恋人であった平資盛(すけもり)は、元暦二年(1185)の壇ノ浦の戦いの果てに入水(じゅすい)し、右京大夫(うきょうのだいぶ)は「弥生(やよひ)の廿日(はつか)余りの頃、はかなかりし人の水の泡となりける日なれば、れいの心ひとつに、とかく思ひいとなむにも、我が亡からむのち、たれかこれほども思ひやらむ。かく思ひしこととて、思ひ出(い)づべき人もなきが、たへがたくかなしくて、しくしくと泣くよりほかのことぞなき。我が身の亡くならむことよりも、これがおぼゆるに、いかにせむ 我がのちの世は さてもなほ むかしの今日を とふ人もがな」(『建礼門院右京大夫集』)水の泡となった資盛(すけもり)の命日を、自分のように思い出す人がいないことが、自分が死ぬことよりも悲しい、自分が死んだ後も誰か資盛(すけもり)を弔って欲しい、と素直な己(おの)れの心境を書き残す。同じ壇ノ浦で我が子安徳天皇と入水(じゅすい)し、源氏方に引き上げられた建礼門院徳子は、京に連れ戻され、剃髪し、大原寂光院に設けた庵で隠棲する。その翌年文治二年(1186)の春、裏山に花摘みに行っていた建礼門院の元を、後白河法皇が密かに訪れ、「互ひに御涙にむせばせ給ひて、しばしは仰せ出(い)ださることもなし。ややありて、法皇御涙をおさへ、「この御ありさまとは、ゆめゆめ知りまゐらせ候はず。」」(『平家物語』灌頂巻「大原御幸(おおはらごこう))と、後白河法皇は息子高倉天皇の中宮徳子の変わり果てた有様を嘆き、建礼門院は「生きながら六道を見てさぶらふ」と、平家の滅亡、身に降りかかった生き地獄を切々と後白河法皇に語るのである。同じ年のその秋、右京大夫(うきょうのだいぶ)が建礼門院を訪ね来る。「女院、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られでは、まゐるべきやうもなかりしを、深き心をしるべにて、わりなくてたづねまゐるに、やうやう近づくままに、山道の気色よりまづ涙は先立ちていふかたなきに、御いほりのさま、御すまひ、ことがら、すべて目もあてられず。昔の御ありさま見まゐらせざらむだに、おほかたの事がら、いかがこともなのめならむ。まして、夢うつつともいふかたなし。秋深き山颪(おろし)、近き梢にひびきあひて、筧(かけひ)の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、ためしなきかなしさなり。都は春の錦をたちかさねて、さぶらひし人六十余人ありしかど、見忘るるさまにおとろへたる墨染の姿して、わづかに三四人ばかりぞさぶらはるる。その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、われも人もいひ出(い)でたりし、むせぶ涙におぼほれて、言(こと)もつづけられず。今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき。 あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山の 影ぞかなしき。」(『建礼門院右京大夫集』)大原にいると聞いていたが、簡単に会いに行くことは出来ず、建礼門院を慕う、已(や)むに已(や)まれぬ己(おの)れの気持ちに従って訪ねると、その侘しい山道に足を踏み入れただけで涙が零(こぼ)れ、住まいの生活の様子は見るに堪(た)えられるものではなく、昔を知る者には信じ難(がた)く、辺(あた)りの様子もこれほど悲しく感じられる山里もなく、かつて着飾って仕えていた者たちも、いまは墨染を着た三四人だけで、その者たちと「それにしてもまあ」と口にしただけで、涙が零(こぼ)れ落ちて仕舞う。宮中では仰ぎ見ていた、とても現実の出来事と思うことのできないいまの建礼門院の様子が、ただただ悲しいのである、と右京大夫(うきょうのだいぶ)はかつて仕えた建礼門院との再会を思うのである。建礼門院は、大原の寒さに耐えられず、あるいは人目を避けての隠棲暮しが困難になり、山を下り、洛中東山で余生を送ったともいわれている。右京大夫(うきょうのだいぶ)は、四十年(しじゅう)前の建久六年(1195)、再び宮中に入り、後鳥羽天皇に仕えている。食うため生きるための他に、出仕した理由があったのかどうかは分からない。が、栄華の絶頂を極めた建礼門院の、変わり果てたみすぼらしいその姿を見て涙を零(こぼ)した右京大夫(うきょうのだいぶ)が、またしても宮仕えをしたことを思うのである。その心の割り切りを、思うのである。慶長四年(1599)、豊臣秀頼の母親淀君によって改修された寂光院の本堂は、平成十二年(2000)の放火によって焼失したが、再び同じ場所にいまは再建されている。寂光院は、山門の内にではなく、山門に至る石段の石の中にある。狭い荒れた石段を上がりきるまでの参拝者の頭の中にこそ「本物」の寂光院はあり、建礼門院の物語りも恐らく、参拝者が踏む足元の石段にあるのである。

 「あまり問題にされないことだか、日本神話で、神は「人」を創らない──生まない。伊邪那岐伊邪那美の男女神が生み出すものは、「国」であって「神」であって、「人を創る」ということはしていない。「人」は。神によって生み出されることはなく、いつの間にかこの日本に存在している。」(橋本治小林秀雄の恵み』新潮社2007年)

 「528品目の基準値超『ゼロ』 16年度・福島県産農林水産物検査」(平成29年4月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)