大原三千院の城のような石積の門の左右に、「梶井門跡三千院」と「国宝往生極楽院」の二つの名が下がっている。天台宗三千院は、安永九年(1780)刊行の『都名所図会』では梶井宮円融院梨本房の名で載り、三千院と名乗るのは、明治四年(1871)門跡廃止により最後の門主・昌仁入道親王が還俗(げんぞく)し、御車路広小路にあった本房が大原に移ってからである。その大原の地は、保元元年(1156)より延暦寺が、叡山を下りた天台隠者の動きを取り締まる政所を置いたところであり、応仁の乱で焼けた折の、洛中にあった本房の移転先であり、門跡の主(あるじ)を失い、仏像仏具だけで再び戻った場所なのである。往生極楽院は、高松中納言実衡の妻・真如房尼(しんにょぼうに)が実衡の死を悼んで寛和元年(985)に建てた庵(いおり)であり、梶井本房の移転の後に、叡山政所の傍(そば)にあった庵は、本房に組み入れられ、遂にはその本堂となるのである。この経緯(いきさつ)のため往生極楽院は、苔生(む)した境内の片隅に、毛色の違う貰われ子のようによそよそしく建っている。その往生極楽院の、平安藤原時代の阿弥陀三尊像は国宝である。極楽から、死ぬ者を迎えに来た阿弥陀如来は足を組んで座り、立てた右手の掌(たなごころ)をこちらに向けている。左右の脇侍(きょうじ)菩薩、手を合わせる勢至(せいし)菩薩と、蓮台を捧げ持つ観音菩薩は折った両膝の間を広げ、背を前に傾けていて、このように座る菩薩の姿は珍しいのだという。観音菩薩の持つ蓮台が内側、腹の方に僅かに傾いているのは、往生者を乗せ終え、彼岸に帰る姿であるという。この両の菩薩の太腿の太さは、生きては見ることの出来ない極楽浄土からやって来た者として、信ずるに足ると思わせるような迫力、説得力を持っている。観音菩薩の表情は、薄く開けた両の目を手の蓮台の上に向けているように見える。であれば、蓮台に乗せた往生者を零(こぼ)さぬように内に傾けているという説明は、なるほどそうなのかもしれない。が、この阿弥陀三尊は拝み見る者の前に、このように常にいるのである。極楽からの来迎の姿として、常に見える所に在るのである。常に在るということは、念仏往生者をいつまでもここで待っている、ということなのではないか。往生は死であり、黄金の阿弥陀三尊は、有無を云わさぬ何人にも来る死を待つ姿であり、唯一人の死を待つことを許されている姿なのではないか。

 「はったいの粉(こ)は真夏の匂いがする。かんかん照りのひなたの匂い、むせかえるような雑草のにおい、はるかに遠い、わら屋根の村のにおい、物音が死んだような町の午後の匂い。」(「はったいの粉」平山千鶴『京のおばんざい』光村推古書院2002年)

 「浪江、川俣・山木屋、飯舘「避難指示」解除、帰還には課題山積」(平成29年3月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)