鴨川を東に渡った広い五条通の一筋南の坂道は渋谷通(しぶたにどおり)と記され、清水寺の子安塔が建つ清閑寺山と豊臣秀吉の眠る阿弥陀ヶ峰の間を山科へ抜ければ渋谷街道となるのであるが、かつては渋谷越あるいは苦集滅道(路)(くずめじ)とも呼ばれていた。元禄二年(1689)に出た『京羽二重織留(きょうはぶたえおりどめ)』には、「苦集滅道、東山観勝寺(現安井金毘羅宮)の前に有り、祇園林の南より建仁寺の竹林の東を経て六波羅の東に出る道なり。いにしへ教待和尚三井寺より木履(ぼくり)をはきて山崎の別業(別荘)に通ひ給ふとき此の所にてぼくりの歯をと苦集滅道のひゞきあり此の故(ゆへ)に此の細道をくずめじと云ふ。今あやまりてくちなわの辻子と云ふ。」とある。が、寛文五年(1665)に出た『扶桑京華志(ふそうけいかし)』には、「苦集滅道、清水寺の南清閑寺山麓に在り、相伝(そうでん、云い伝えによれば)三井の教待、城南山崎別業に住むを欲し、此の地を歴(すぐ)るに及びて、其(そ)の木履の響き苦集滅道の音を作る、因(より)て、名を焉厥((えんけつ)この)の後関左貶謫(かんさへんたく、東国に左遷)の人此の道を経るに及びて必ず四諦(したい、四つの真理)の法を観ず、故呼((ここ)ゆえに名づけて)句句免智(くくめち)と謂(い)ひ、今の滑谷(しるたに)なり。」とある。『京羽二重織留』も『扶桑京華志』も「苦集滅道」の元(もとい)を山崎の別荘に行く三井寺の教待和尚の木履の音としているのであるが、『京羽二重織留』の示すところは、大津の三井寺から京の南に下る山崎に行くのであれば、教待がいたとされる貞観(859~)以前にはまだ建仁寺も観勝寺も六波羅蜜寺もなく、そこに道があったとしても迂回のような遠回りであるので、「苦集滅道」と名づけられたはじめの道は『扶桑京華志』のいう、東の方角から山を越えて京に入る二つの筋の内の一方である渋谷越の方である。『京羽二重織留』のいう安井金毘羅宮脇の道は、恐らくは渋谷越についたあだ名である「苦集滅道」の借用である。『扶桑京華志』にあるように都落ちの者がこれを噛みしめたというのであれば、祇園が傍らにある建仁寺の修行僧もこれを噛みしめさせられたのかもしれぬ。「苦集滅道」とは「四諦(したい)」のことである、と仏教辞典は記している。「諦(たい)とは真理の意で、苦諦・集諦(じつたい)・滅諦・道諦(どうたい)という4種の真理のこと」(『岩波仏教辞典』1989年刊)とされ、「初期仏教の中心的教義の一つとされる。<苦諦>とは、迷いの生存は苦であるという真理であり、その代表として、生老病死などのいわゆる四苦八苦が挙げられる。<集諦>とは、苦の生起する原因についての真理であり、その原因は、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求める渇愛にあるとされる。<滅諦>とは、苦の止滅についての真理であり、それは、渇愛が完全に捨て去られた状態をいう。<道諦>とは、苦の止滅に到る道筋についての真理であり、正見・正思惟などのいわゆる八正道として示される。」(『岩波仏教辞典』)木履を履いての山坂の歩きにくさを教待という僧は、恐らくは半ば「おどけ調子」でその木履の立てる音に合わせ、仏に仕える者であれば誰でもが知る「苦集滅道」と口に出して云った。『古今著聞集』にその教待が出て来る。「巻第二、四十、智証大師(円珍)の帰朝を新羅明神擁護の事並びに園城寺三井寺)創建の事。智証大師の御起文に云はく、予(よ、われ)、山王(日吉山王権現)の御語に依りて、大唐国に渡り、仏法を受持し、本朝に還る。海中の予が船に老翁現じて偁(い)はく、我は新羅の国の明神なり。和尚の仏法を受持し、慈尊の出世に至るまで護持せんが為に、来向する者なり(和尚が身につけた仏法を弥勒菩薩の出世の時まで守るためにやって来た者である)。予、着岸して公家に申す。即ち官使を遣(つか)わして、所持の仏像・法門(経本)を太政官に運び納む。時に海中の老翁また来たりて云はく、此の日本国に一の勝地(すぐれた場所)在り。我れ先に彼の地に到りて、早く以て(前もって)点定せん(調べておきましょう)。公家に申して一伽藍を建立し、(仏像等を)安置して仏法を興隆せよ。我れ護法神と為りて、鎭(とこしなへ、永久に)加持せん。所謂(いはゆる)仏法は是(こ)れ王法を護持するものなり。もし仏法滅せば王法まさに滅す。予、出でて本山(延暦寺)千光院に登り、千光院より山王院に到り、山王の語(御託宣)を受く。早く法門を此の所に運(うつ)す宣すれば、明神偁(い)はく、此の地末代に必ず喧事(かまびすきこと、面倒な事)有らん。其(そ)れいかんとなれば(どうしてかと云うと)、谷北を受けて下に長し。其の内此の山盛りなるべき事今二百歳なる(二百年かかる)。我れ勝地を見るに(調べるのに)、末世の衆生依る所為るべし。仏法を興隆し、王法を護持して、彼の地に到りて、相定すべし。明神・山王・別当・西塔(の院主)予、近江の国滋賀の郡園城寺に到り、住僧等に案内す(案内を乞う)。爰(ここ)に僧等の申すに、案内を知らざれば、一人の老比丘(びく、戒律の教えを受けた修行僧)名を教待と謂(い)ひ、出で来て云はく、教(教待)が年百六十二なり。此の寺建立の後、百八十余年を経たり。建立せる壇越(仏のために金品等を施す信者)の子孫有り。去りて即ち教待、彼の氏人を呼ぶ。姓名は大友の都堵牟麿(つとまろ)といふ。出で来たりて云ふ。都堵牟麿生年百四十七なり。此の寺は先祖大友與多(よた)の天武天皇のおんために建立するところなり。此の地の先祖大友太政大臣弘文天皇)の家地なり。其の四至(所領の四方の境界)を堺し、宛て給はる。(大略)教待大徳年来(数年来)云ふ様、此の寺を領すべき人渡唐せん。遅く還り来る由(理由を)常に語る。而(しか)るに今日已に(すでに、とうとう)相ひ待つ人来たり。出会すべし。されば今此の寺を以って付属(お任せする)し奉(たてまつ)る。此の寺の領地四至の内、専(もっぱ)ら他人の領地無し。而(しか)るに時代漸(ようや)く移り、人心諂曲(てんごく、こびへつらう)、国判(国の証明印)を請(こ)ひ、私有地と称す。然而(しか)るに氏人(大友氏)弁定するに力無し。早く国に触れ糺(ただ)し返さるべし、よって、付属(任せた)の後、山王還り給ふ。(略)野に垂挙の人百千の眷属(けんぞく、大友一族)を引率して来たり向ふ。飲食を以って明神を饗(饗応)し奉る処、老比丘教待、彼の明神の在所に到りて、たがひに以て喜悦す。即ち(たちまち)比丘挙人の形(姿)隠れて見えず。時に明神に問ふて偁(い)はく、此の比丘挙人忽(たちま)ち見えず、是(こ)れ何人なり。明神これに答ふ、老比丘は是れ弥勒如来弥勒菩薩)、仏法を護持せんがために、来るなり。よって予、寺に還り到りて、教待の有様を都堵弁麿に問ふて、専ら此の老比丘の案内(についての知識)を知らず。年来(何十年も)此の比丘魚にあらざれば、飲食せず。酒にあらざれば、湯飲せず。常に寺領の海辺の江に到りて、魚亀を取りて斎食の菜となす。而(しこう)して、和尚に謁(えつ)して忽ちに隠る。悲しき哉(かな)、々々。音を惜まずして哀泣す。今大衆共に住房を見るに、年来干し置ける魚類、皆是れ蓮華の茎根葉なり(干していた魚が忽ち蓮華に変わった)。是に例ならざる(たぐいまれな)人の由を知る。今教待已(つい)に隠る。我が院早く(すぐ)興隆せらるべき、よってここに問ふに、此の寺の名を御井寺と謂(い)ふ、其の情(事情)云(いかんと)。氏人、答へて云はく、天智・天武・持統、此の三代の天皇各生て給ふ時、最初の時の御湯料の水は、この地の内井を汲みて、浴し奉るの由、俗の詞に語り来る。件(くだん)の井水三皇御用を経るに依りて、御井と号す。よって予、此の縁起を問ひ、漸くに地形を見るに、宛(あたか)も、大唐の青龍寺の如し。付属(任)を受け奉り畢(おは)りぬ。別当・西塔共に本山に還る。別当共に内裏に参り奏して由を申す。勅して急に(すみやかに)唐坊を造り、仏像・法門を此の寺に運び移す。予、御井寺を改めて、三井寺と成す。其の由いかんとなれば、件の井水三皇用ひ給ふ上、此の寺伝法灌頂(秘法伝授者に香水を注ぐ儀式)の庭となりて、井花水(夜明け前の勤行の後に使う井戸水)を汲むべき事、弥勒三会の暁を継がしむ(弥勒菩薩が成仏の暁に華林園の竜華樹の下で法会を三度開いて一切の衆生を救ったこと)。故に三井寺と成す云々。」智証大師円珍日吉山王権現の託宣を受け、唐国に渡って仏法を受持し、その帰国の途中海上新羅明神が現れ、円珍の仏法の擁護を約束し、その興隆の場所を選ぶに当たり再び現れ、比叡山ではなく大津にある天智・天武・持統天皇ゆかりの大友氏が護って来た御井寺を勧める。この寺で、その来し方を誰も知らない魚と酒だけを口にしていた百六十二歳の教待が待っていた。教待は円珍に「待ち人来たり。」と云って喜ぶが、すぐにその姿が見えなくなる。新羅明神が教待は弥勒菩薩の化身であると円珍に教える。円珍は消えてしまった教待を思い、泣いて哀しんだ。それから御井寺を三井寺に改めた。貞観三年(859)のことである。教待は円珍を見、「待ち人来たり。」と云って喜んだ。百六十二の歳まで円珍という人物が来るのを教待は待っていたのである。この「待ち人」を待つ長い日日に教待が渋谷越の坂で鳴らした木履の音が「苦集滅道」である。山間に続く渋谷越は京都女子大の裏を抜け、町中(まちなか)にある坂の様子ではなく、どこか温泉場にありそうな趣(おもむき)に近い。山を越え東の向こうからやって来た者の眼下に広がったのが京の町である。渋谷越を上り振り返って見える町が京都である。

 「神の物語に、耳を傾ける宣長の態度のうちには、眞淵のやうに、物語の「こゝろ」とか「しらべ」とかいふ言葉を喚起して、物語を解く切つ掛けを作るといふやうな考へは、入り込む餘地はなかつた、と言つていゝ。あちら側にある物語を、こちら側から解くといふ考へが、そもそも、彼を見舞つた事はなかつた。恐らく、彼にとつて、物語に耳を傾けるとは、この不思議な話に説得されて行く事を期待して、緊張するといふ事だつたに違ひない。無私と沈黙との領した註釋の仕事のうちで、傳説といふ見知らぬ生き物と出會ひ、何時の間にか、相手と親しく言葉を交はすやうな間柄になつてゐた、それだけの事だつたのである。」(『本居宣長小林秀雄 新潮社1977年)

 「東京電力「環境への影響極めて軽微」 処理水放出評価結果公表」(令和3年11月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)