2015-01-01から1年間の記事一覧

詩仙堂の庵主石川丈山は、徳川幕府の間諜隠密であったかもしれない、と歴史学者中村直勝がその著書『京の魅力』(淡交新社1959年刊)に書いている。「(詩仙堂の二階の)窓は鷹峰の方にも開いて居るが、それよりも寧ろ、京都御所の森が指呼の間に見え、…

その者らは胴長靴を履き、池の底の泥の上で火を焚いている。その者らは三人で、その時折り話し掛ける様子から、掘立て小屋の陰にもう一人いるのであれば、四人である。池は嵯峨の広沢池で、胴長靴の男らは、四月に池に放って太らせた鯉を売っている。鯉はす…

「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。」ではじまる森鷗外の短編「高瀬舟」は、神澤杜口(貞幹)の『翁草』(安永五(1776)年刊)の「流人の話」を元にしていると、「高瀬舟」に附した「高瀬舟縁起」で鷗外は述べているが、その「高瀬舟縁起」…

「此の柿は京都伏見桃山に庵(いほり)を結んでゐる愚庵といふ禪僧から贈つて來た釣鐘といふ珍しい名の柿であつた。さういへば形がどこか釣鐘に似てゐた。此禪僧といふのは維新の戰亂に母と妹とが生死不明になつてしまつた其行方を何十年かの間探したが遂に…

嵯峨鹿王院(ろくおういん)の拝観受付者が、手元の紙の枡目の中に線を一つ加え、正の字にする。枡は横一列に十枡あり、いま正の字で埋まったのは、上から三列目の半ばである。午後二時を過ぎての拝観者が百数十というのが、多いのか少ないのかは分からない…

旅案内『京内まいり』は、洛中洛外を三日で巡る旅程である。その最終三日目は、「下賀茂より二條の御城迄の名所」をしるすとし、「下賀茂へゆくには寺町通を今出川まであがり東の方河原へ出れば東北に糺(ただす)の森見ゆる三條寺町の辻より貮(に)拾丁余…

『京内(きやううち)まいり』(宝永五年(1708)刊)に、「禁中 南北百九拾八間東西百貮拾五間半凡人(ほんにん)常(つね)の時御門に入らず時により御免(ゆる)しありて拜覧する日あり。」と載っている。『京内まいり』は、守拙斎が書き表した旅案内…

遊びゐるたゞの子供や七五三 深川正一郎。たゞの子供が、作者深川正一郎の子供かそうでないかはわからない。が、突き放した云いの、たゞの子供、は、特別でなく、どこにでもいる子供として、むしろ好もしく作者の目に映っている。伝統行事の七五三の御参りで…

西本願寺裏の寺の門脇に、「ないことで苦しみ、あることで苦しむ」と書いた白い紙が貼ってある。紙の文句は日毎(ごと)、あるいは週毎、月毎に代わるのかもしれない。この文句は、「あることで喜び、ないことで喜ぶ」と変えたとしても、何も云ったことには…

ミヤコワスレはミヤマヨメナの一種であるが、詩仙堂の庭に咲くミヤコワスレは、丈山菊と呼ぶという。左京一乗寺の六六山詩仙堂丈山寺は永平寺の末寺であるが、もといは徳川家康の近侍だった石川丈山の住まいである。寛政十年(1798)刊行の『續近世畸人…

上京元誓願寺通大宮西入ルの元妙蓮寺町は、かつて卯木山妙蓮寺のあった場所であり、豊臣秀吉の命で妙蓮寺はいま、寺之内通大宮東入ルの妙蓮寺前町にある。元妙蓮寺町も妙蓮寺前町も、西陣の東の端である。妙蓮寺の境内で、芙蓉の花が咲いている。花の色は、…

嵯峨広沢池(ひろさわのいけ)は遍照寺池とも呼ばれ、月の名所である。『都名所図会』は、抒情の墨にたっぷり浸した筆でこう記す。「いにしへの人は汀に影たえて月のみ澄める廣澤のいけ 源三位頼政。中秋の月見んと、都下の貴賤、池の汀に臨んでよもすがら盃…

山科毘沙門堂の障壁の浄土絵には、蓮池の上に迦陵頻伽が漂い舞っているのであるが、浄土に車で行って、その帰り道のガソリンが足りないかもしれないことに気がつく。迂闊であると思う。四方八方から人、事が入り混じり来る日常にあって、その全てに意識を保…

九月十二日、晴。三つの紫色を見た。九月十二日に意味はない。九月十日、大雨で鬼怒川堤防が決壊し、大洪水が起きて人家が流された。不明者は、いまも流されている。一九四十年九月十二日、フランス・ドルドーニュで四人の少年がラスコーの洞窟壁画を発見す…

大文字山の盆送り火の火床は、三百四十メートルの斜面にあり、立てば、京都市中を隅々まで見渡すことが出来る。洛中のどこからでも大文字の火を見ることが出来たという云いは、どこからでも見ることが出来る場所が選ばれたとする推測を裏付ける云いであり、…

蒸気機関車、例えばD51形を一キロメートル走らせるためには、百リットルの水と石炭が約四十キログラム必要である、と梅小路蒸気機関車館の展示パネルに書いてあり、素朴な機械の原理を習った頃を思い出す。続けて、石炭を一回のショベルで掬える量は約二…

下鴨神社糺ノ森に並べ置かれた本の数は、八十万冊であるという。納涼と銘打った古本まつりである。五月の葵祭の流鏑馬で馬が駆け抜ける馬場の両側に、書棚を据えたテントが闇市のように並ぶ。頭上で蟬が鳴きしきり、日照りで散った落葉が混じる地面の砂は前…

「田島頼子は面白そうに笑った。それから話を聞いていると、何でも中学生の時に歯医者へ行って、待合室に置いてあったぼろぼろの古雑誌を手に取って見ていたら、児玉のことが出ていて、何もない町、と書いてあった、と言うのだ。話の様子ではどうやら旅の雑…

柏木如亭の墓が、永観堂にある。柏木如亭の名は、車谷長吉の小説「児玉まで」で知ったのであるが、その「児玉まで」の話者の「私」は、「柏木如亭の伝記が書きたいというのが、私の年長の私(ひそ)かな願いなのだ。」と語り、その草稿の一部として漢詩人柏…

霊亀山天龍寺の塔頭慈濟院には、門が二つある。慈濟院と書かれた木札を掲げた門と、来福門と書かれた扁額を掲げた門である。慈濟院と書かれた門は、門の内に竹竿が渡してあり、入ることを止めている。が、来福門は開いている。来福門を潜った先にあるのは、…

ヨーロッパと云う時、まずは地球上のある地域を示すことであり、縮尺した地図としてその地域を表わすことが出来る。地図で表わされたその地域には、線を引いて区切りを設けた幾つかの国の名が散らばっている。その国の名は具体的であるが、それだけでは、そ…

樹木の植わっている域のほかの、京都御苑の地面には砂利が敷かれている。その砂利の地面に、烏丸通の蛤御門から寺町通の清和院御門の間を繋ぐ筋が、一本通っている。筋は二十センチ程度の幅で砂利が払われ、時に緩やかに蛇行し、筋が途切れることはない。筋…

「私は初めて日本を訪ねる前に、次のようなことを読んだ覚えがあった。足利義政は戦闘が行なわれている間もなお自分の御殿に住み続け、そこはおそらく戦闘の現場からほんの百メートルしか離れていないところだった。義政はそこで、のどかに茶の湯を楽しみ、…

その老人は欄干に凭れ、あらぬ方に目を遣っていた。大覚寺を半廻りして流れ来る有栖川(ありすがわ)に架かる大沢橋の橋の上である。母親とその二人の子どもと思しき親子が、橋の上から螢の姿を探していた。人の背丈よりも下を流れる川の両岸は、しな垂れた…

『養生訓』で人間の健康を説いた貝原益軒(篤信)が、京都見物の手引き『京城勝覧』を書いている。その十七日間の物見の第十三日目。「鞍馬山にゆく道をしるす。京より三里あり、貴布禰(きぶね)によれば少し遠し。貴船を見てくらまにゆくも、一日にはたや…

昭和二十五年(1950)、二条城の一角がアメリカ進駐軍のテニスコートになった。太平洋戦争終了直後、アメリカ陸軍は、その第六軍司令部を烏丸四条下ルにあった大建ビルに置き、市内の建物施設を次々に接収していった。京都駅前ステーションホテル、司令…

芭蕉の桜の句の云う、さまざまの事、に対する言葉が、一つことであれば、桜で思い浮かべる一つことは、木下恵介の映画『二十四の瞳』の汽車ごっこである。映画『二十四の瞳』に、高峰秀子扮する大石先生が受け持ちの生徒らと縄で模した汽車で、丘の上の満開…

京都新聞が、京都の桜の名所を選定している。立本寺千本釈迦堂雨宝院京都御苑妙蓮寺本隆寺渉成園元離宮二条城佛光寺城南宮墨染寺醍醐寺上賀茂神社原谷苑上品蓮台寺平野神社等持院常勝寺東寺六孫王神社嵐山二尊院旧嵯峨御所大覚寺門跡天龍寺仁和寺梅宮大社妙…

ノートルダム女子大に差し掛かる下鴨本通の歩道で、四五才の男の子どもが仁王立ちに踏ん張り、七八メートル先にいる二十三四の男に向かって、「こっち来い」と叫んでいる。男は子どもの父親か、年の離れた兄弟か、あるいは面倒をみている身内筋の者のような…

旅鶴や身におぼえなき姉がいて 寺山修司。心当たりのない姉が目の前に現れることは、劇、物語の始まりとなる。姉という兄弟の存在がなかった人生が、ある日を境に姉のいる生活に変わってしまう。「身におぼえなき」は、心当たりがない、では言い収まらない戸…