柏木如亭の墓が、永観堂にある。柏木如亭の名は、車谷長吉の小説「児玉まで」で知ったのであるが、その「児玉まで」の話者の「私」は、「柏木如亭の伝記が書きたいというのが、私の年長の私(ひそ)かな願いなのだ。」と語り、その草稿の一部として漢詩人柏木如亭の生涯をこう記している。「柏木如亭。名は昶。字(あざな)は永日。通称門作。市河寛斎高足(こうそく・高弟)。宝暦十三年(一七六三)江戸神田村松町に十人扶持小普請方官匠の子として生れ、安永八年(一七七九)満十六歳にして家督を嗣いだが、寛政六年(一七九四)三十一歳で官を辞し、以後詩画を鬻(ひさ)いで、纔(わずか)に口を餬(のり)しながら、越後信濃三河京師伊勢吉備讃岐等諸国を遁竄(とんざん)、生涯孤独の裡に、文政二年(一八一九)七月京都黒谷の一廃寺にて病臥、十一月木屋町の借座敷で窮死。享年五十六歳。」「限り無き客情 今 昨(きのふ)に異なる。悲秋の心事久しく相忘る。方(まさ)に知る 漸く老いて身は石の如く。他郷と故郷とを瓣ぜざるを。」(「如亭山人遺藳巻一 吉備雑題」柏木如亭『新日本古典文学大系64』岩波書店1997年)「児玉まで」は、話者の「私」が小料理屋で知り合った婚約者のいる女と、埼玉秩父街道筋の何もない町、児玉に行く約束を果たせずに終わる話である。女が、児玉に行った後に渡そうと思っていたと云って、女と女の婚約者の男と「私」の三人で会うことになった喫茶店で、「私」が欲しがっていたという、柏木如亭の『詩本草』の初摺り本を渡す下りがある。『詩本草』は、「諸国遍歴の食物誌のようなもの」と、話者の「私」は云っている。その『詩本草』を「私」は、呼び出した女の婚約者の男を待つ間に、恐らく二度と会うことのないその女から贈られたのである。それは甘い贈り物ではなかった。「東海に大刀魚有り。即ち閩(びん・中国福建省)中の帯魚なり。春夏の交、味頗(すこぶ)る美なり。余は好みてこれを啖(くら)ふ。然れども人家賤視して客に供することを屑(いさぎよし)とせず。往年、道傍の小店に喫す。酔後、戯れに小詩を書きて店小二(てんしょうに・茶店の使用人)に与ふ。吶喊(とっかん・鬨の声) 声銷(き)えて天日麗し。波濤 海静かなり太平の初。折刀百万 沙に沈み去り。一夜東風 尽く魚と作(な)る。」(「大刀魚」柏木如亭著 揖斐高校注『詩本草岩波文庫2006年)永観堂は正しくは、聖衆来迎山無量寿禅林寺である。柏木如亭の墓は、その墓地の上がり鼻の、崖の端に建っていた。いびつな形の石に「如亭山人埋骨処」と刻まれている。「柏木如亭之墓」ではない。「如亭山人埋骨処」は、非情な碑名である。墓の後ろの藪の下で、流れる水の音がしていた。「桃の実は固(まこと)に啗(くら)ふに堪へず。硬き者は味無く、軟き者は虫を蔵(かく)す。一小店中に盤に金桃数顆を盛る。大きさ飯碗の如し。余乍(たちま)ち見て涎(よだれ)流る。即ち僕を叫(よ)びて二顆を買はしむ。行(ゆくゆ)く輿(駕籠)中に喫す。これを剖(さ)けば肉色紅紫、これを嚼(か)めば霊液吻(くち)に溢る。終日復(ま)た餐飯(食事)を思はず。その香味また忘るること能はず、噫(ああ)。知り得たり前生の事。仙桃又来り攫(つか)むは。若(も)し孫悟空に非ざれば。即ち是れ東方朔。」(「桃の実と桑の実」『詩本草』)阿弥陀堂の、左の方に顔を向けて立つ、珍奇な顧(みかえ)り阿弥陀如来の足元に盛った供えものは、桃ではなく、林檎だった。中庭の池の面の光の返しが楓の枝の下で揺れ、濡れ縁や外廊下のそちこちで腰を下ろした拝観者が、足を投げ出し、膝をくの字に折って柱に凭れていた。生きている者は、寛(くつろ)ぐことが出来る。ある者が身内の死を話している。生きている者は、死を思いながら寛ぐことが出来るのである。

 「われわれがふつういう身体とは、皮膚の中に閉ざされた身体ですが、たとえば、車を運転しているときには、車の車幅まで自分の身体が広がっている。だから狭いところを通ろうとすると、身をすぼめる。」(「臨床の知としてのデザイン」中村雄二郎『デザインする意志』青土社1993年)

 「建屋カバーの本格解体開始 福島第1原発1号機」(平成27年7月28日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)