2024-01-01から1年間の記事一覧

嵯峨に暮れて戻れば京は朧かな 日野草城。花見で一日過ごした嵯峨と、日が暮れて戻った京との間には「距離」がある。「京」ではない嵯峨から戻った市中が朧に霞んで見えるのは、その「京」と己(おの)れの間にもまた「距離」が出来ているということかもしれ…

西陣、上立売通浄福寺東入ルの雨宝院の南門を入って左傍らに植わる御衣黄を今年は見ることが出来ない、ばかりでなく来年も目にすることが出来ない。門の内の柱に「御衣黄桜は残念ながら枯れてしまいました。」と書いた白い紙が貼ってある。塀越しにも見るこ…

この日の前日と前々日に雨が降り、京都一帯肌寒い風も吹いたのであるが、八幡市の背割堤の桜は満開を過ぎた六七割ほどの花がまだ枝に残っていた。背割堤は瀬割堤とも書き、二つの川の交わるところに土を高く積み上げ互いの川筋を侵して洪水などを起こさぬよ…

「桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、この児(ちご)さめざめと泣きける」。さめざめ、とは止まらぬ涙をこぼして泣くということ。この稚児は片田舎からひとり比叡山に預けられ、修行していた。「これも今は昔、田舎の児(ちご)の比…

満開のふれてつめたき桜の木 鈴木六林男。北嵯峨広沢池の畔にある植藤造園は、十六代佐野藤右衛門の私邸でもあるが、桜の咲くこの時期、中に立ち入ることを許している。十六代の父、十五代佐野藤右衛門は円山公園の枯れた「祇園枝垂れ桜」のいままさに咲き誇…

京を下に見るや祇園のゑひもせす 西山宗因。いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす京、といろは歌の最後に京をつけて覚えていれば、この句の意味は他愛もない。折角祇園で呑んだのに少し…

生きるより死はなつかしく春彼岸 神蔵器。『今昔物語集』の巻第二十六、第二十二の「名僧、人の家に立寄りて殺さるる語(こと)」はこのような話である。「今は昔、京に生名僧(なまみやうぞう)して、人の請(しやう)を取りて行き、世を渡る僧有りけり。而…

「嵯峨お松明」は、五山の送り火、鞍馬の火祭りとをもって京都三大火祭りの一つとされている。頃は三月十五日、所は清凉寺、嵯峨釈迦堂境内である。江戸期にはその番号を振った提灯が意味を持ち籤(くじ)によって決まった並べる高さで米相場を予想したとい…

鴨川に架かる御池大橋の西詰、橋の袂の歩道の端に「春の川を隔てゝ男女哉」と刻んだ焦げ茶色のなだらかな山のような句碑がある。その前文に「木屋町の宿をとりて川向の御多佳さんに」とあり、木屋町三条上ルにあった北大嘉(きたのだいが)に宿を取ったのは…

雛の軸睫毛向けあひ妻子睡(ね)る 中村草田男。芭蕉の『奥の細道』は「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行かふ年も又旅人也。」と名調子ではじまり、この先も名調子はこのように続く。「舟の上に生涯をうかへ、馬の口とらへて老をむかふる…

上京の室町通鞍馬口下ル森之木町にある喫茶店の前に立つと「近衛家別邸御花畑屋敷跡。小松帯刀寓居跡」と記された町中(まちなか)で見慣れたそれらのものよりもよほど新しい標石が目に入る。喫茶店の壁に貼った案内を見れば2017年に建てたものである。…

うすらひは深山へかへる花の如 藤田湘子。こののち薄氷(うすらい)を目にすることなど最早なさそうな京都の暖かかった冬であるが、この薄氷の句はいわゆる「詩的」な句である。遠くより来りて張りし薄氷(うすごおり) 阿部青鞋。この句も「詩的」であるが…

葦原ノ中ツ國に降り立った天津日高日子番能邇邇藝能命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は早速に、笠沙の御前(みさき)で「麗しき美女(をとめ)」木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤビメ)と出会い、その父大山津見神(オホヤマツミノカミ)に結婚の…

立春のはたのひろものさものかな 橋閒石。「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」が「平(ことむ)け訖(を)へぬ(平定した)」「葦原ノ中ツ國」へ「高木神」を通じて「太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツワレカツカチハヤビアメノオ…

例えば河原町通を下って七条通の手前、整然と幾重にも瓦を埋め込んだ築地塀の上に群がる竹が目に入れば、そこが渉成園(しょうせいえん)である。北は上数珠屋町通、南は下数珠屋町通、西を間之町通に囲まれ、さらに西へ東洞院通、烏丸通を越えればこの渉成…

一月二十五日の朝、京都も「雪化粧」するほどの雪が降った。蕪村に「宿かせと刀投出す雪吹哉(ふぶきかな)」という印象深い句があるが、芭蕉が詠んだ「雪」の句はどうであろう。「はつゆきや幸(さいはひ)庵にまかりある」待ちに待った初雪を己(おの)れ…

『大鏡』は「さいつころ(先だって)雲林院の菩提講にまうでて侍りしかば(聴聞に参った時)、例人(普通の人)よりはこよなう(格段に)年老い、うたてげなる(薄気味悪いような)おきな二人、おうなといきあひて、同じ所に居ぬめり(座が定まった)。「あ…

自由律俳句と称する句がある。五七五の定まった型を持たず、季題としての季語を使わない。その定型を持ち、季語を必ず句に含めるのが俳句であり、その俳句は発句(ほっく)として俳諧連歌から独立したものである。江戸の頃、五七五七七の和歌を複数の者で詠…

木洩れ日の素顔にあたり秋袷 桂信子。この句の季語は秋袷で、恐らくは夏の薄地から袷(あわせ)に着るものを替えたばかりの様子であろう。「素顔」の語には、「秋袷心すなほに生きのびて 池内たけし」や「つつましや秋の袷の膝頭 前田普羅」などの句も思い起…

北嵯峨四景。 「嵯峨は王朝貴族遊覧の地である。鎌倉中期、後嵯峨上皇が小倉山の東南、南に大堰川(下流が桂川)や嵐山を望む地に、亀山殿を造営した。上皇は出家後大覚寺に入り、ついでその子の亀山法皇もここに住いする。一四世紀はじめには、亀山の子後宇…

たとえばある時、経験のない自然の大異変が起こり、口に入れる食い物の量が半分に減る。この土地に住む二つの部族はどうするか。二つの部族はもとは一つの部族から二つに分かれたのであるが、それぞれの人の数に差はなく、どちらにも子どもがいて年寄りがい…