雛の軸睫毛向けあひ妻子睡(ね)る 中村草田男芭蕉の『奥の細道』は「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行かふ年も又旅人也。」と名調子ではじまり、この先も名調子はこのように続く。「舟の上に生涯をうかへ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。いつれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊のおもひやます、海浜にさすらへて、去年の秋江上(かうしやう、川のほとり)破屋に、蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春改れは、霞の空に、「白川の関こえむ」と、そゝろかみの、物に付てこゝろをくるはせ、道岨神のまねきにあひて、取もの手につかす、もゝ引の破をつゝり、笠の緒付かへて、三里に灸すゆるより、松嶋の月、先(まづ)心もとなし。住る方は人に譲りて、杉風(さんぷう、杉山杉風)か別墅(べつしよ)に移るに、草の戸も住替る代そ雛の家 表八句(連歌の初折面の句)を書て、庵の柱に懸置。」いつからなのか思い出せないが、年が改まってからついにそぞろ神にでも憑りつかれたようにそうしないと落ち着かずこのままでは狂ってしまいそうで、手招く道祖神の姿まで見えてきて、いよいよその覚悟に住まいを人に譲って弟子の杉風の別宅に移り、「草の戸も住替る代ぞ雛の家」と詠んで柱に残したのである。この雛の句は『俳諧一葉集』に「日頃住ける庵を相しれる人に譲りて出ぬ。此人なん妻を具しむすめ孫を持(もて)る人なりければ」と前文をつけ載せている。元禄二年(1689)のこの年四十八歳だった芭蕉は、これまで妻子を持ったことはない。その芭蕉が三月二十七日にその一歩を踏み出すもの狂いの旅の前に「雛の家」を詠んだのである。芭蕉独特の洗練を極めた詠みっぷりの裏にあるのは、この旅の首途(かでど)にあってついに妻子を持ち得なかった己(おの)れの姿であろう。かつての住まいで雛人形を飾る一家を思い、この期に及んで芭蕉は己(おの)れに躓(つまづ)いたのではなかったか。雛祭る都はづれや桃の月 蕪村。

 「ある日、牧場の草を全部刈りとって、小屋に積み上げてくれたら、これでけの金を支払おうと言って相当な額を示され、大鎌を渡された。言われただけの金が入れば、一ヵ月間はなんの心配なく好きなだけ眠ることができるし、その間にひょっとすると長年の夢が正夢になるかもしれないのだ。セバスティアンは上半身裸になると、鎌を肩にかつぎ、牧草地を端から端まで歩き回った。いちじくの樹冠吹き出した風にあおられて、まるで流れるように揺れさやぎ、その藍色の木陰の下に生えている苔の上には、風に吹かれてふわりと舞い降りてきた、洗ったばかりのワイシャツのように真っ白なあひるが二羽休んでいた。」(「閉じられたドア」ホセ・ドノーソ 染田恵美子訳『ラテンアメリカ文学アンソロジーサンリオ文庫1987年)

 「原発事故後の健康調査、知見を発信 福島医大、東京で初のシンポ」(令和6年3月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 鷹峯光悦寺。