上京の室町通鞍馬口下ル森之木町にある喫茶店の前に立つと「近衛家別邸御花畑屋敷跡。小松帯刀寓居跡」と記された町中(まちなか)で見慣れたそれらのものよりもよほど新しい標石が目に入る。喫茶店の壁に貼った案内を見れば2017年に建てたものである。この薩摩藩家老小松帯刀(こまつたてわき)の家で坂本龍馬を交えて西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、桂小五郎木戸孝允)との間で薩長同盟が結ばれ、その流れに徳川幕府は押し流され木っ端の如く消え失せてしまうのであるが、その場所が二転三転した末に2016年に「ここである」として正式に認められたのだという。はじめ「その場所」は、いまの同志社大学今出川校の地にあった二本松薩摩藩邸であるとされ、あるいは一条通堀川東入ル松ノ下町に小松帯刀寓居参考地として標石が建ち、あるいは近衛家があった室町頭町(むろまちかしらちょう)であったともされ、小松帯刀が借りていた近衛家別邸の登記の賀茂川から引き入れた水路に水車を施し米を搗いていたという「新資料」により森之木町と認定されたのである。「その場所」に現在見た目に何の痕跡もないのであれば、「その場所」が歴史的な場所であったとしても通りすがりの者はただ薄ら寒い風に吹かれその標石と喫茶店の狭い駐車場を眺めるばかりであるが、鞍馬口通が「これより洛中、ここより洛外」とかつて石に記されたところであることを思えば、この場所に何事かを思わないわけではない。ここよりやや南に下がる室町頭町は、風に真向い見渡せば室町小学校がある住宅地に過ぎないが、ここも歴史的地、近衛家の前に三代将軍足利義満の室町殿、別名花の御所があった場所であり、その故(ゆえ)後に「その時代」を室町時代と名づけるのである。この室町時代に「室町小歌」と呼ばれる流行り歌があった。たとえば、「かのせうくんの黛は、みどりの色に匂ひしも、春やくるらむ絲柳の、おもひみだるゝ折ごとに、風もろともにたちよりて、木陰のちりをはらはん、木陰のちりをはらはん(かの昭君(前漢元帝の宮女、匈奴(きょうど)の君主に与えられ服毒自殺した美女)の黛(墨を引いた眉)は、翠の色に匂ひしも、春や暮る(繰る)らむ絲柳(昭君の形見)の、思ひ乱るゝ折り毎に、風もろともにたち寄りて、木陰の塵を払はん、木陰の塵を払はん)。げにやよはきにも、みだるゝ物は、青柳の、いとふく風の心ちして、いとふく風の心ちして、夕暮の空くもり、雨さへしげき軒の草、かたぶく影をみるからに、こゝろぼそさのゆふべかな、こころぼそさのゆふべかな(げに(本当に)弱きにも、乱るゝ物は、青柳の、いと(大変、絲)吹く風の心地して、絲吹く風の心地して、夕暮れの空曇り、雨さへ繁き軒の草、傾く影を見るからに、心細さの夕べかな、心細さの夕べかな)」「世間(よのなか)はちろりに過る、ちろりちろり。なにともなやなふ、なにともなやなふ、うき世は風波の一葉よ。なにともなやなふ、なにともなやなふ、人生七十古來まれなり。たゞ何事もかごとも、ゆめまぼろしや水のあわ、さゝの葉にをく露のまに、あぢきなの世や。夢幻や、南無三寶。くすむ人は見られぬ、ゆめのゆめのゆめの世を、うつゝがほして。なにせうぞ、くすんで、一期(いちご)は夢よ、たゞ狂へ(世の中はちろり(瞬く間)に過ぐる、ちろりちろり。何ともなやなう(何ともしようもなく)何ともなやなう、浮き世は風波の一葉よ。何ともなやなう何ともなやなう、人生七十古來まれなり。ただ何事もかごとも(何もかもが)、夢まぼろしや水の泡、笹の葉に置く露の間に、あぢきなの(どうすることもできない)世や。夢幻や、南無三寶(なむさんぽう、危機に際して仏・菩薩に救いを求める唱え)。くすむ人は見られぬ(真面目くさった者は見ていられない)、夢の夢の夢の世を、現(つう)つ顔して(醒めた顔つきでは)。何せうぞ(どうするつもりか)、くすんで(真面目くさって)、一期(一生)は夢よ、ただ狂へ)」「なにをおしやるぞせはせはと、うはの空とよなう、こなたも覺悟申た。思ひそめずはむらさきの、こくもうすくも物はおもはじ。おもへかし、いかにおもはれむ、おもはぬをだにおもふ世に。思ひのたねかや、人のなさけ。おもひきりしに來てみえて、きもをいらする、きもをいらする(何を仰るぞせはせはと(せっかちに)上の空とよなう、此方(こなた)も覺悟申した。思ひ初め(染め)ずは紫の、濃くも薄くも物は思はじ。思へかし(思ってみたり)、いかに思はれむ、思はぬをだに思ふ世に。思ひの種かや、人の情け。思ひ切りして來て見えて、肝を煎(い)らする、肝を煎(い)らする)」「げにや寒竈(かんさう)に煙たえて、春の日いとゞくらしがたふ、幽室に燈(ともしび)きえて、秋の夜なをながし、家貧にしては信智すくなく、身いやしうしては故人うとし、したしきだにもうとくならば、余所人はいかでとふべき、さなきだにせば世にさなきだにせば世に、かくれすむ身の山ふかみ、さらば心のありもせで、なを道せばき埋草、露いつまでの身ならまし、露いつまでの身ならまし(げに(まったく、実に)寒竈(寒々としたかまど)に煙絶えて、春の日いとど(ますます)暮らし難う幽室(薄暗い部屋)に灯し火消えて、秋の夜なほ長し、家貧にしては親知(親友)少なく、身卑しうては故人(古い友人)疎(うと)し、親しきだにも疎くならば、余所人は如何で訪ふべき(親しかった人ですら足が遠ざかっているのに、全くの他人などどうして訪れたりできるか)、さなきだに(そうでなくてさえ)狭き世に、さなきだに狭き世に、隠れ住む身の山深み、さらば(そうであれば)心のありもせで(いかげんな気持ちのままで)なほ道狭き埋もれ草(自ら道を狭くして埋もれた草のよう)、露いつまでの身ならまし(いつまで露に濡れた身でいるのか)、露いつまでの身ならまし)」「人の心はしられずや、眞実心はしられずや。人の心とかた田の網とは、よるこそひきよけれ、よるこそよけれ、ひるは人目のしげければ(人の心は知られずや、眞実心は知られずや(分からないものだ)。人の心と堅田(琵琶湖西岸)の網とは、夜こそ曳き良けれ、夜こそ曳き良けれ、昼は人目の繁ければ)」(『閑吟集』)あるいは、「御知行まさるめでたきのふつかまつるおどるが手もと、たちみまやにまきおろしの、はるのこまがはなをそろへて參りたりや、もとよりたいこはなみのをとよりくるなみを、たとへ申せは、しんによのさえづり、おんかくのこゑ、しよほうじつさうとひゞきわたれは、ちからいづみがさうじやうして、天よりたからがふりくだる、ありやきやうがり、きよくしんなり(御知行(御領地、扶持)増さる(真猿)めでたき能(めでたきことと)仕(つかまつ)る踊る手許、館御厩(たちみまや)牧(まき)下ろしの、春の駒が鼻を揃へて參りたりや、もとより太鼓は波の音寄り来る波を、譬(たと)へ申せば、真如(永久不変の真理)の囀(さえず)り、音楽の声、諸法実相と響き渡れば、地から泉が相生(そうじょう、同時にに生れ)して、天より宝が降り下る、ありや(いかにも)興がり(興味深い)、極真なり)」「ほうしがはゝがのふには、ほうしがはゝがのふには、先春はわらびおる、さて又夏は田をうへ、秋はいなばにゆきかよひ、冬になればわがやどの、せどのまどにうちむかひて、むよみぬのをおり付、をりたるぬのはなになに、すわうばかまや十とく、ぬのこのおもてかたびらをは誰がおりてくれうぞ、ほうしがはゝぞ戀しき(法師が母が能(のう、働き)には、法師が母が能には、先づ春は蕨折る、さて又夏は田を植ゑ、秋は因幡に行き通ひ、冬になれば我が宿の、背戸の窓に打ち向ひて、六身布(身幅の広い布)を織りつけ、織りたる布は何々、素襖袴や(すわうばかま、普段の上着と袴)や十徳(じつとく、脇を縫いつけた旅行着)、布子(綿入れ)の表帷子をば誰が織りてくれうぞ、法師が母ぞ戀しき)」「物にくるふもござうゆへ、さけのしわざとおぼへたり、はるのみやくは、ゆみにつるかくるがごとくくるふにぞ、ありがもにほひもなつかしや、さきみだれたる花どもの、物云事はなけれども、けひやうげきして、かげ口ひるをうごかせば、花の物いふ道理なり(物に狂ふも五臓ゆへ、酒のしわざと覚へたり、春の脈には、弓に弦掛くるが如く狂ふにぞ、在り香も匂ひも懐かしや、咲き乱れたる花どもの、物云ふ事はなけれども、軽漾(けいよう、さざ波)激して、陰口びるを動かせば、花の物云ふ道理なり)」(『狂言歌謡』)、あるいは、「朝うた三はん よしのゝ山へきさらきかまいりて はなおりもちてかゑるやま人 さくら花のつほみをめされ候へ めてたやはなこそものゝたねなれ 花おりにまいろうよしのゝ山へは おく山のこさうとめとちにはなかさいたか さいて候さいて候八ゑに花かさいて候 あいらしこすゑにはなかつほうた 花のひらきは所領かまさるとひらいた 田主殿をば一もり長者とよばれた あい花はつほうたかなにそめうとて かりうはかま染とてといてはぬうたり そめてほされたはりまのしよしやのかうかき かりうはかまをかちんにそむれはけほんな 京くしかうてたもれ京くしこそな かみもしなゑや京くしこそな くしはかふたそかみかいけつれわかいこ 女子かたきよりかみかなかふて 長かみやれあゆめばそうりにもつれて さばいがみ中をゆゑなかをゆわねばな みやこめいたや中をゆわねばな ゆわぬかみをばねみたれかみとはいわぬか なかいかみおはねみたれかけてさばいた かけておかれたたきより長ひくろかみ みやつかいわしけいものあかりせうしのかけて かみけすりけわひするあかり障子のかけて みやつかいをこのむと人やおもふか みやつかいをしやうにもいしやうあらはや われにおかしやれわろうか上のこそてを つゝみ打はくとう太郎かねのやくはかち原 太郎らも次郎らもけわひせいてはかなふまい けわひしやうにもけわひのとうくをわすれた たもれけわおうわしやうかてつほのあふらを しろかねのこかねの御ゑんにこしをかけて かみとくひまをまちたまゑ とかしけつらしおもふかもつれかいたを いわはまんせふわろうかひんのかみおは(朝歌三番 吉野の山へ如月(きさらぎ、二月)が參りて 花折り持ちて帰る山人 桜花の蕾を召され候へ めでたや花こそ物の種なれ 花折りに參らう吉野の山へは 奥山の小早乙女どちに(仲間のみんな)花が咲いたか 咲いて候咲いて候八重に花が咲いて候 愛らし木末に花が蕾だ 花の開きは所領が増さると開いた 田主殿をば一盛り長者と呼ばれた 藍花は窄(つほ)うたが(絞ったが)何染めうとて 狩裃染めうとて解いては縫うたり 染めて乾(ほ)された播磨の書写の紺掻き 狩裃を搗(かちん)に(搗いて)染むれば下品(けほん、上等でない)な 京櫛買うて賜(たも)れ京櫛こそな 髪も撓(しな)へや京櫛こそな 櫛は買うたぞ髪掻い梳(けづ)れ若い子 女子が丈より髪が長うて 長い髪やれ歩めば草履に縺(もつ)れて 捌(さば)い髪(くしけづったままの髪)中を結へ中を結はねばな 都めいた中を結はねばな 結はぬ髪をば寝乱れ髪とは云わぬか 長い髪をば寝乱れかけて(そのままに)捌(さば)いた(くしけづった) かけて置かれた丈より長い黒髪 宮仕ひをしやうにも衣裳有らばや 我れにお貸しやれ我郎(わろう、男の子)が上の小袖を 鼓打ちは工藤太郎鉦の役は梶原 太郎らも次郎らも化粧為(せ)いでは叶ふまい 化粧為(せ)やうにも化粧の道具を忘れた 賜(たも)れ化粧和尚が手壺の油を 銀の金の御縁に腰を掛けて 髪解く暇を待ちたまへ 解かし梳(けづ)らじ思ふが縺れかいたを(縺れさせたのを) 結はばまんせう(結びましょう)我郎が鬢の髪をば)」(『田植草紙』)これらの歌は、平安の香りとも江戸の匂いとも違う「室町」の蓋を開けて漂う語感が鼻をくすぐるようである。室町小路の名を変えた室町通はこのまま下がれば東本願寺で一旦断ち切られ、その先の十条通を越えて果てるが、二条通から五条通の間はいわゆる「室町筋」と呼ばれる呉服織物和装の卸業が軒を並べ、役行者町烏帽子屋町鯉山町山伏山町菊水鉾町鶏鉾町、白楽天町の両側町に七月の祇園祭には通りを塞いで駒形提灯を掲げた山鉾が建つのである。関守の火鉢小さき余寒かな 蕪村。余寒なほ指になじまぬ琴の爪 山本登茂子。

 「彼女はさっきから小さな骨のナイフで、頬についた鯨の脂をこすり落とし、それを毛皮の袖になすりつけながら、北極光が空から燃えるような光を投げているのをぼんやり眺めていた。その射光は孤独な雪原と神殿のような氷山を美しい虹の色に染め、ほとんど筆紙に尽くせないほど輝きわたる壮観を展開していた。しかしいま彼女はもの思いをふり払い、私の求めに応じてつつましやかな身の上話をする気持になっていた。」(「エスキモー娘のロマンス」マーク・トウェイン 古沢安二郎訳『マーク・トウェイン短編集』新潮文庫1961年)

 「処理水、4回目海洋放出始まる 福島第1原発、17日完了見込み」(令和6年2月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東本願寺前。