うすらひは深山へかへる花の如 藤田湘子。こののち薄氷(うすらい)を目にすることなど最早なさそうな京都の暖かかった冬であるが、この薄氷の句はいわゆる「詩的」な句である。遠くより来りて張りし薄氷(うすごおり) 阿部青鞋。この句も「詩的」であるが、寒さが遠くからやって来るという「感じ」がよく出ている。「うすらひ」が「深山へかへる」とは、いわばやって来るその逆の様子なのであろうが、「花の如」とはどういう意味か。俳句で詠む「花」とは「桜」のことであるから、「花の如」は「桜の如」である。儚(はかな)い薄氷が消え失せた、まるで桜の花びらが風に飛ばされ空の彼方に見えなくなるように深い山懐に帰っていったのかもしれない。落日や薄氷の番して居れば 永田耕衣。「薄氷の番」というおよそ無意味なことをして一日が過ぎた。その間に薄氷は融けてしまったのか、そのまま消えずにまだ残っているのか。「薄氷の番」ぐらいしかすることがない、という上っ面をなぞるように読んでもそれはそれで読み違いではないのであろうが、現実に一日中薄氷を見続けることに要するある種の「力」あるいは「哲学的認識」を思い知るべきであろう。それは傍(はた)から見れば甚だ滑稽な光景かもしれぬが。薄氷の裏を舐めては金魚沈む 西東三鬼。掌をすべる法然院の薄氷 飯塚ゑヰ子。谷崎潤一郎の墓が左京鹿ヶ谷の法然院にある。先ごろ谷崎潤一郎の『細雪』を読み返し、ただの一言も「細雪」が出て来ないことを改めて思い返したのであるが、冬の時期がやってきても他の「雪」も『細雪』には降らない。が、但し「雪」は頻繁に出て来る。大阪船場の旧商家の四人姉妹の三女の雪子の「雪」と、「こいさん」と呼ばれる四女妙子が舞う舞台の出し物の「雪」である。「御寮人さん」と呼ばれる次女の幸子は、四女妙子の舞姿を撮った写真の「傘を開いたままうしろに置き、中腰に両膝を衝いて、上体を斜め左の方に浮かせ、両袖を合わせ小首をかしげて、遠く雪空に消えてゆく鐘の音に聴き入っているところ」が一番好きであったと思う場面がある。この写真を撮った板倉というカメラマンと妙子は関係が出来るのであるが、幸子は板倉の身分が低いと云って先行きの関係に反対する。この妙子がある男と駈け落ちしたり、洪水に見舞われたり、またその男とヨリを戻したり、赤痢に罹ったり、バーテンの子を死産したりする一方、雪子は三十を過ぎても舞い込む見合い話に難癖をつけ悉く断るような女である。「はにかみやで、人前では満足に口が利けない」雪子ではあるが、その断りにはそれなりの断る理由が雪子にはあり、それは高い気位と些(いささ)かの男に対する「反発」「抵抗」のようなものである。話の最後にさる子爵家の御曹司との結婚が決まり、その披露宴のための上京の汽車の中でも雪子の下痢が止まらないのは、雪子の肉体の最後の「抵抗」である。『細雪』は「古き良き上方の女」である「雪子」を「細雪」のように降らしちりばめた話であるかもしれぬ。谷崎潤一郎は敗戦後まもなくから昭和三十一年(1956)まで京都で過ごしている。その三箇所目に移り住んだ下鴨神社の東にある住まいが電機会社に買われ、いまも残っている。訪ねても公開はされておらず、端に回る四ツ目垣の間からその平屋の家屋まで伺い知ることは出来ないが、隣る糺(ただす)の森の塀に沿ってくねるように入り込むその奥まった、冬でもじめじめしていて風が吹けばいつまでも木々のざわめきが止まぬようなその場所は、傍(はた)で感じる以上に陰鬱であったかもしれない。この住まいから熱海に移り住んだ谷崎潤一郎はのちにこのような言葉を残している。「あのまゝあの糺(ただす)の森にゐればよかったと、今でもときどき思ふ。さうしたら京都のあの気候にも馴れ、毎日々々京都でなければ口に出来ないおいしい物を食べて暮らして行けたのにと、よくさう思ふ。それほど好きな京都を見捨てた理由、いや唯一の理由は、あの堪らない夏の暑さと冬の底冷えである。殊に糺(ただす)の森の家は鴨川と高野川とに挟まれ、池や滝があったりしたので湿気が多く、江戸育ちの老人の健康のためには最も不健康であった。」(「京都を想ふ」谷崎潤一郎『毎日新聞』1962年12月)法然院の谷崎潤一郎の墓は、「これが」と思わず思うほど質素である。この寒空に参拝の者の姿もほどんどない茅葺門の石段を掃いていた年配の小柄な婦人に谷崎の墓のありかを訊けば、深く日除けを被っていた婦人は少しそのツバを上げ、箒を地面に置き、「その少し戻った左手の石段を」と云いながら先にたって歩き出し、石段の手前で足を止め、「ここを上って真っ直ぐ突き当りの手前を右に折れ、ほら、あの枝垂れ桜のところです」と山裾で花も葉もない枝を垂らした木を指さした。礼を云ってその通りの道順で墓の間を迷わず辿り着けば、そのひとところだけコンクリートも砂利も敷かれていないニ三石を踏み上った剥き出しの湿った土に大きな握り飯のような石が二つ離れて置かれているだけである。向かって右に「空」と左に「寂」とともに小さく「潤一郎」と彫ってあり、「寂」の方に谷崎と松子夫人が眠っているという。花の供えはなく、小さな壜に千両の小枝が挿してあるばかりで、これが京都の暑さ寒さから逃げ出した「大谷崎」の墓であるか、と膝を折りひとり厳(おごそ)かに思ったのである。薄氷や初めて切りし嬰(えい、みどりご)の爪 高川明子。
「明くる日の朝は、まず廣沢の池のほとりへ行って、水に枝をさしかけた一本の桜の樹の下に、幸子、悦子、雪子、妙子という順に列(なら)んだ姿を、遍照寺山を背景に入れて貞之助がライカに収めた。」(『細雪』谷崎潤一郎 中公文庫1983年)
「処理水放出半年、東電「計画通り」 廃炉作業で人為ミス相次ぐ」(令和6年2月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)