谷崎潤一郎は小説『細雪(ささめゆき)』で、一家の四人姉妹の次女の幸子を「鯛でも明石鯛でなければ旨(うま)がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。」と書き、毎年姉妹で見る平安神宮の「神苑の花が洛中における最も美しい、最も見事な花である」と書いている。「その年の春」も、嫁いだ長女鶴子を除く幸子、雪子、妙子と幸子の夫貞之助と長女の悦子とで京都に出掛ける。「幸子たちは、去年は大悲閣で、一昨年は橋の袂の三軒家で、弁当の折詰を開いたが、今年は十三詣りで有名な虚空蔵菩薩のある法輪寺の山を選んだ。そして再び渡月橋を渡り、天竜寺の北の竹藪の中の径(こみち)を、「悦ちゃん、雀のお宿よ」と云いながら、野の宮の方へ歩いたが、午後になってから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵(えんりあん)の庵室を訪れた時分には、あの入口のところにある桜が姉妹たちの袂におびただしく散った。それからもう一度清凉寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三たび渡月橋の北詰に来て一と休みした後、タキシーを拾って平安神宮に向かった。」ここに出て来る厭離庵(えんりあん)は、一年の内の秋の紅葉の時期にしか門の内を公開していない。厭離庵(えんりあん)は、大堰川(おおいがわ)を挟んだ嵐山の向かいの小倉山の麓にあり、かつては『小倉百人一首』を編(あ)んだ藤原定家(ふじわらのさだいえ)の山荘のあった場所であるといわれている。受付で貰った厭離庵(えんりあん)の栞には、「その后(ご)、久しく荒廃せしを冷泉家(れいぜいけ)が修復、霊元法皇より、「厭離庵(えんりあん)」の寺号を賜り、安永(一七七二年~)より、臨済宗天竜寺派となり、男僧四代続いたが、明治維新后(ご)、再び荒れ、明治四十三年、貴族院議員白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裡を建立、山岡鉄舟の娘素心尼が住職に就き、それ以后(いご)尼寺となる。」とあるが、これより旧い栞には、最後に「平成十八年九月、男僧、玄果入山。」の一行が印刷されている。清凉寺二尊院を結ぶ通りから、狭い住宅の間を入り、藪を切って角石を並べた露地を十メートル余辿って行くと、垣を立てた古びた山門に突き当たる。頭上は竹と木の枝で覆われ、漏れ日が薄ら明るく射していて、山門を潜ると、左手に並べた石伝いに短い石段があり、上れば両脇が丈の低い生垣の、触れば倒れそうな茅門(かやもん)が待っている。これは寺の境内に足を踏み入れたのではなく、茶庭の作りの様(さま)であり、その通り茅門(かやもん)の右手の飛び石の先に、斜面に迫り出すように広縁を設(しつら)えた時雨亭(しぐれのちん)と名づけられた茶室が建っている。茅門(かやもん)の正面は、楓と紅葉(もみじ)で囲った石灯籠の立つ苔庭である。庭に面しているのは、時雨亭(しぐれのちん)の西に隣る八畳と六畳間の書院で、書院の角を巡った裏にやや奥まって庫裡(くり)があり、庫裡(くり)の出入りの前の緩い石段を上がれば、小ぶりの仏堂である。大人の足で十歩も歩けば一巡り出来る庭の木々が、いまはその葉を落とす前に紅や黄に燃え染まっている。鳥の声もする。このような藪の中の絵姿は、ここから歩いて数分の祇王寺(ぎおうじ)と同じであるが、祇王寺(ぎおうじ)は洗練に力を注いだ息の詰まるような手入れを怠らず、厭離庵(えんりあん)は洗練の心掛けを途中で止めたと思しき様子で、書院の縁側に腰を下ろして見渡せば、その景色の綻(ほころ)びの気易さが分かる。後ろの八畳間にも六畳間の畳にも、開けたガラス戸から吹き込んだ萎(しお)れたもみじ葉が幾つも散らかっているのである。「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ 我がころも手は露にぬれつつ。春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山。あしひきの山どりの尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかもねむ。田子の浦にうちいでて見れば白妙の 富士の高嶺に雪はふりつつ。おく山に紅葉ふみわけなく鹿の 声きく時ぞ秋はかなしき。かささぎのわたせる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞふけにける。天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも。我が庵は都のたつみしかぞすむ 世を宇治山と人はいふなり。花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに。これやこの往くもかへるも別れては 知るも知らぬも逢坂の関。わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人にはつげよあまのつり舟。天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ。つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる。陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに。君がため春の野に出でて若菜つむ 我が衣手に雪はふりつつ。立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとしきかば今かへり来む。千早(ちはや)ぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは。住(すみ)の江の岸による波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ。難波潟みじかき芦のふしの間も あはでこの世を過ぐしてよとや。わびぬれば今はた同じ難波なる 身をつくしても逢はむとぞ思ふ。今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな。吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ。月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど。このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向山 紅葉のにしき神のまにまに。名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな。小倉山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ。みかの原わきて流るる泉川 いつみきとてか恋しかるらむ。山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば。心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花。有明のつれなく見えし別れより 暁ばかりうきものはなし。朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里にふれる白雪。山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり。久かたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ。誰をかも知る人にせむ高砂の 松もむかしの友ならなくに。人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞむかしの香ににほひける。夏の夜はまだよひながら明けぬるを 雲のいづこに月やどるらむ。白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける。忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな。浅茅生(あさぢう)のをののしの原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき。しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで。恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか。契りなきかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは。逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり。逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし。あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな。由良のとをわたる舟人かぢをたえ 行く方も知らぬ恋の道かな。八重むぐらしげれる宿のさびしさに 人こそ見えね秋はきにけり。風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころかな。御垣守(みかきもり)衛士(ゑじ)のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ。君がため惜しからざりし命さへ ながくもがなと思ひけるかな。かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを。明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしきあさぼらけかな。嘆きつつひとりぬる夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る。忘れじの行末までは難(かた)ければ 今日をかぎりの命ともがな。滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ。あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな。巡りあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな。有馬山猪名(いな)のささ原風吹けば いでそよ人を忘れやはする。やすらはで寝なましものを小夜更けて 傾くまでの月を見しかな。大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立。いにしへの奈良の都の八重桜 今日九重に匂ひぬるかな。夜をこめて鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ。今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな。朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木。恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ。もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし。春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ。心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな。あらし吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川のにしきなりけり。寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづこもむなし秋の夕暮。夕されば門田の稲葉おとづれて 芦のまろやに秋風ぞ吹く。音にきく髙師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ。高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山の霞たたずもあらなむ。うかりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを。契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋も去(い)ぬめり。わだの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖の白波。瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ。淡路島通ふ千鳥の鳴く声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守。秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ。ながからむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝はものをこそ思へ。ほととぎす鳴きつる方を眺むれば ただ有明の月ぞのこれる。思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へぬは涙なりけり。世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる。ながらへばまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき。夜もすがらもの思ふ頃は明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり。なげけとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな。むらさめの露もまだひぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮。難波江の芦のかりねの一夜ゆゑ 身をつくしてや恋ひわたるべき。玉の緒よ絶えなば絶えぬながらへば 忍ぶることのよわりもぞする。見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れれにぞ濡れし色は変らず。きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む。わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし。世の中は常にもかもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも。みよし野の山の秋風小夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり。おほけなくうき世の民におほふかな わが立つ杣(そま)に墨染の袖。花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものは我が身なりけり。来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ。風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける。人も惜し人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は。百敷(ももしき)や古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり。」和歌の理論者藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、権中納言の職を罷免された後、「嵯峨を以て本所とす」(『明月記』)とここに隠居所を定め、人の世に耐える百人一首を撰んだ。撰ぶまでどれほどの和歌を、口の端にのぼらせたかは分からない。ある一首を撰ぶことは、その一首の理解者であるということである。理解者となることには、喜びがある。その喜びは、地に足がついた、己(おの)れの拠り所を得たような喜びである。百首を撰んだということは、定家は百の地に立つ喜びを得たということである。山門を出ると、受付の者のいる傍らの垣根に置いた自転車の向きが逆になっていた。露地を入って来た時の恰好ではなく、出るのに都合のいい向きである。受付にいる者は、ナイロンの上着を羽織った四十ほどの坊主頭の男である。男の足元で、同じ四十ほどのセーターを着た女と三つほどの子どもがしゃがんでいる。子どもは冷たそうな手で、地面の小石をいじっている。さっきまで書院の襖の奥で、何事か唄っていた子どもかもしれない。この三人が親子であれば、この坊主頭の男が、貰った栞では消されている玄果という僧侶なのか。行き止まりの狭い露地で、狭い場所であるからこそ自転車の向きを変えてくれたのはこの男であろう。サドルに跨ると、女が立ち上がり、黙って頭を下げた。が、男は飄々(ひょうひょう)とした顔で前を見ていた。

 「忠男は小柄で体の寸法がどこも短かった。台風で小川が溢れると水浸しになる庭には村では珍しい一本のスモモの木が植えられていて、スモモが赤くなる夏には忠男は急に仲間の人気者になった。すでに、四人兄姉の長兄は、町場に来た「大衆演劇」を追いかけて出奔して何年も消息が無かった。私が村を出た頃には、末っ子の忠男も名古屋の工場に就職して、スモモのある家には両親だけが暮らしていた。」(「箱メガネとスモモの家」鬼海弘雄『誰をも少し好きになる日』文藝春秋2015年)

 「「町に戻りたい」横ばい 復興庁調査、富岡8.3%・双葉10.8%」(令和2年11月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)