雲林院界隈駐車嚴禁のひるや荒鹽の香の西行塚本邦雄が昭和五十年(1975)に出した歌集『されど遊星』三百首の内の一首である。北大路通を挟んだ大徳寺の南東に、雲林院という名の小寺があるが、雲林院は幻の寺である。平安の末から源頼朝の鎌倉が始まる世にあった、平清盛の傍らで武士であって剃髪し放浪に身を置いた西行は、雲林院をこう詠んでいる。これやきく雲の林の寺ならん花をたづぬるこころやすめむ。字面(じづら)をなぞれば、これが噂で聞いていた雲林院なのか、では中に入って桜の花を見たいと思ってやって来た気持ちを休め慰めよう、というひとり言のような歌である。西行はこの歌で、雲林院という寺を聞き知っていると云っている。たとえば雲林院は、紫式部の『源氏物語』の第十帖「賢木(さかき)」にこのように出て来る。「大将の君(「光る君」の源氏)は、宮を、いと恋しう思ひ聞え給へど、「あさましき御心の程を、時々は、思ひ知るさまにも、見せたてまつらん」と念じつゝ、過ぐし給ふに、人わろく、つれづれに思(おぼ)さるれば、秋の野も見たまひがてら、雲林院に、まうで給へり。「故母御息所(こはゝみやすどころ)の御兄(せうと)の律師(りし)の、こもり給へる坊にて、法文など読み、行ひせむ」と、おぼして、二三日、おはするに、あはれなる事、多かり。紅葉、やうやう色づきわたりて、秋の野の、いと、なまめきたるなど、見給ひて、故郷も忘られぬべく、思(おぼ)さる。法師ばらの、才(さえ)あるかぎり召し出て、論議せさせて、聞(きこ)し召させ給ふ。所がらに、いとゞ、世の中の常なさを、思(おぼ)しあかしても、猶、「憂き人しもぞ」と、思(おぼ)し出でらるゝ。」(父桐壺帝の死があり、その皇子である源氏との間に、そのことを伏し、桐壺帝の子として東宮(後の冷泉帝)を生んだ中宮藤壺は、東宮の立場を守るため、源氏との逢瀬を拒み、後には出家することになるのであるが)「光る君」と呼ばれる源氏は、心底恋しく思う一方、自分を避けようとする不快な態度を取る藤壺に思い知らせようと思って内に籠っていたのであるが、人目にみっともなく、いつまでも藤壺への思いが消えてくれないので、気晴らしのつもりで途中の秋の花野を楽しみながら雲林院に参ったのである。「(三歳の時に)亡くなった母桐壺の兄が高僧として参籠しているこの寺の坊で、自分も経を読み、勤めもしよう」と思い起こして二三日過ごしてみれば、しみじみ思い考えることがいくつもあった。辺りの木々が紅葉しはじめ、野が鮮やかに色づくのを目にすると、洛中の住まいに戻ることも忘れてもかまわないような気持ちになって来る。ある日、秀でた学僧を集め議論するのを聴いたりしたのであるが、このように寺に身を置くと、ますます世にあることの無常を思って夜を明かしてしまったりもしたのであるが、一方で「藤壺を恨めしく思いながら忘れることが出来ない」という思いも沸き上がって来るのである。光源氏雲林院で過ごすうちに世の無常を思った、というのである。ここで光源氏が目にしたのは桜の紅葉であるが、西行は花を見ようと雲林院にやって来たのである。雲林院は、その元は、水辺に集う鳥を狩ったという広大な、第五十代桓武天皇の第七皇子、第五十三代淳和天皇離宮、別荘である。「雲林院は紫野にあり。淳和帝の離宮なり。(第五十四代仁明天皇の御子常康親王(つねやすしんのう)これを伝へ領し給ふ。その後天暦帝(第六十二代村上天皇)の御時、僧正遍昭別当に補せられ、堂塔厳重に建てられたり。今は雲林院(うぢゐ)と唱へてこのほとりの郷名となり。旧跡纔(わず)かに残る。むかしは桜の名所なれば、和歌には雲の林の寺と詠める。」(『都名所図会』)この『都名所図会』の「天暦帝の御時、僧正遍昭別当に補せられ」は誤りで、遍昭は常康親王に仕えていた僧である。常康親王の母紀種子は、雲ケ畑で耕雲入道となった惟喬親王(これたかしんのう)の母紀静子の姉である。天皇になれなかった従兄の常康親王は親から別荘紫野院を貰い、同じくなれなかった惟喬親王は大原に逃れるのである。平安の終わりは天皇の権力の衰えであり、息のかかった寺も衰え、雲林院も衰える。西行が見たのは恐らく、衰えた様の雲林院である。であれば西行の、この歌の思いは違って来る。人に道を教えられ、やって来た西行は、荒れ果てた古い寺を目の前にして思わす足を止める。これやきく雲の林の寺ならん花をたづぬるこころやすめむ。これがあの噂で聞いていた雲林院なのであろうか、中に入って落胆しないように、いまのいままで桜を見たいと思っていた気のはやりをここは一旦落ち着かせよう。衰えた雲林院は後に大徳寺の敷地となって、世から消え、江戸期に観音堂として復活する。塚本邦雄が見たのはこの観音堂であるが、西行の目を通してうらぶれた雲林院の姿も見たのであり、恐らくは西行が思い描いた満開の桜に彩られた雲林院も見たのである。いまの雲林院は車を止めるところすらないと、塚本邦雄即物的に、西行を思って嘆いてみせる。その西行については、荒鹽の匂いがしていると塚本邦雄はいう。が、鹽は匂わない。西行には、このような歌がある。五月雨に干すひまなくて藻鹽草煙も立てぬ浦のあま人。海藻から採った鹽は、磯の匂いがする。藻鹽の匂う西行は、海のある方からやって来て、放浪の途中にあるのである。昭和三十六年(1961)に朝日新聞京都支局が出した『跡・続カメラ京ある記』に、雲林院の記事が載っている。「この寺に町の宗教家?が目をつけた。「私にまかせてもらえば必ず栄えさせますよ」というのだ。「そんな新興宗教の食いものにされてはかなわん」と地元の人たちは大憤慨。━━地元の人々のこの寺への執着は根強い。いまは子供の遊び場となった寺で、チョウチンに描かれた桜の絵を示しながら、昔は桜の名所だったと誇りつづけようとするのだ。」写真は、雲林院の門の前の道端で四人の子どもがボールを突いて遊んでいる。頬に髪の先がはねたオカッパの女の子は短いジャンパースカートを履き、もう一人は吊りスカートで、男の子はどちらも坊ちゃん刈りである。御堂の屋根瓦が覗く築地の前に束ねた薪が山積になっていて、御堂の裏の住宅の二階に洗濯物が干してある。つい先日の雲林院は、裏の住宅は別の建物に変わっていたが、写真と同じように洗濯物が寒風にひらひら揺れていた。「うぢゐ」「うりいん」が、この寺の地元の者の呼び方である。ウヂヰカイワイチユウシヤゲンキンノヒルヤ アラジオノカノサイギヤウ。

 「未開民族はまた、自由に風を吹かせたり鎮めたりすることができると信じている。ヤクート族は暑い日に遠くへ旅行しなければならない時、動物か魚の腹の中から偶然に発見した石を馬の毛で数回巻き、それを棒の先に結びつける。そして呪文を唱えながら、その棒をふりまわすのである。するとたちまち涼風が吹きはじめる。」(『金枝篇フレイザー 永橋卓介訳 岩波文庫1951年)

 「福島県、新たに「14人」感染確認、新型コロナ、県累計1483人」(令和3年1月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)