2021-01-01から1年間の記事一覧

その日のちょうど正午近く西陣の外れにいると、西から東から消防車のサイレンが上がり、自転車の足を止めて聞けばそれはどちらもこちらに近づいて来る響きである。ほどなく南の方角からも聞こえて来る。五辻通(いつつじどおり)に何人か人が出ていて、通り…

九条東寺の講堂と食堂(じきどう)の間の空き地に、夜叉神堂という紅殻格子の二つの小堂が建っている。二つ建っているのは、夜叉に男と女があるからである。この日は弘法市の二十一日で、十二月は終(しま)弘法と呼ばれ境内中に露店が立ち、夜叉神堂の回り…

鹿ヶ谷(ししがだに)法然院の茅葺門の左手に、飛び石をその前に並べた茶庭の中門の様な小さな門があり、普段は閉ざされていて通りすがりの者がその門を潜ることは出来ないが、この門の内にあるのは金毛院という名の寺である。あでやかな紅葉もいまは落葉と…

枯芝にうしろ手ついて何も見ず 角川春樹。京都府立植物園には広い芝地があり、いまはすっかり枯れていて、踏んで歩めば靴底からその独特の感触と匂いが伝わって来る。枯芝のあまり広くてかなしけれ 波多野爽波。このような感慨は、たとえば観客席から見てい…

北野天満宮の二十五日は、菅原道真の月命日で天神市が立ち、普段はタクシーが屯(たむろ)している一の鳥居から楼門前の駐車場、東の御前通を築地に沿って上七軒を過ぎた本殿の裏まで野菜、漬物、七味、餅、菓子、海産物、植木、骨董、陶器、古着、古道具、…

鴨川を東に渡った広い五条通の一筋南の坂道は渋谷通(しぶたにどおり)と記され、清水寺の子安塔が建つ清閑寺山と豊臣秀吉の眠る阿弥陀ヶ峰の間を山科へ抜ければ渋谷街道となるのであるが、かつては渋谷越あるいは苦集滅道(路)(くずめじ)とも呼ばれてい…

「上がれますよ。」と、白髪頭で普段着に突っ掛けを履いている年の入った女が云った。女はリュックサックを背負ったマスク姿の中年の女と立ち話をしていた。いまどの辺りにいるのか見当はついているものの、通った覚えのない道に入って角を曲がると、向こう…

いちめんの黄色は背髙泡立草 今井杏太郎。御室仁和寺の門前はいま、このような様子である。あるいは、忘れゐし空地黄となす泡立草 山口波津女。三千九百平方メートルの空地に出来るはずだったガソリンスタンドとコンビニエンスストアは幻に終わり、三階建て…

北嵯峨広沢池(ひろさわのいけ)の北の縁の底の尖った茶碗を伏せたような朝原山は、その麓にかつて遍照寺があったため遍照寺山とも呼ばれているが、池の西の稲刈りが終わって曼殊沙華が萎(しお)れている田圃道で十月二日の晴れた真昼に耳にした、町中(ま…

JR嵯峨野線丹波口駅は、平成三十一年(2019)に梅小路京都西駅が間に出来るまで京都駅から一つ目の駅で、改札を通って北の口から出れば目の前が広い五条通で、駅の高架線路を挟んだ西と東の両側は青果水産物を扱う京都市中央卸売市場である。丹波口駅に…

その奥に下鴨神社が控えている糺(ただす)の森の一角にある河合神社の塀の内に、復元した鴨長明の方丈の庵がある。広さが約四畳半一間の小屋である。鴨長明は下鴨神社正禰宜惣官(ねぎそうかん)だった鴨長継の次男で、七歳で従五位下の身分になったのであ…

落柿舎の建つところは、嵯峨小倉山緋明神町であるが、三度泊まったことのある松尾芭蕉が「落柿舎の記」という一文で「洛の何某去来が別墅(べっしょ)は下嵯峨の藪の中にして、嵐山のふもと大堰川の流に近し。此地閑寂の便りありて、心すむべき處なり。彼去…

蟬の鳴き声が聞こえなくなると、芙蓉の花が目につくようになる。法輪寺の山門を入ってすぐの庭先で芙蓉が七つ八つ咲きはじめていた。この法輪寺は嵐山の法輪寺ではなく、下立売通御前西入ルのだるま寺である。だるま寺という名の謂(いわ)れは、境内に八千…

夢窓疎石は、京都に二つの名庭を作っている。一つは天龍寺方丈の庭で、もう一つは西芳寺の庭である。建武元年(1334)、鎌倉にいた夢窓疎石は、前年に鎌倉幕府が滅び朝廷に政治を取り戻した第九十六代後醍醐天皇に請われ、南禅寺の住持に再任されると、…

六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)を写した古い写真には、その朱塗りの門前に「あの世への入口」と記した提灯が掲げられていた。八月七日から十日は六道まいりの期間で、珍皇寺は市中からの参拝者でごったがいするのであるが、昨年と今年は新盆の者のほかの…

東山南禅寺の塔頭金地院(こんちいん)の書院に、長谷川等伯が描いた「猿猴捉月図」という襖絵がある。長く伸ばした片方の腕で樹の枝に摑まり、もう一方の腕を伸ばして一匹の猿が池に映った月を掬おうとしている。この「猿猴捉月図」は、仏典『大蔵経』の「…

嵯峨小倉山の山裾に細長い姿の小倉池がある。東側の縁(ふち)を辿って南へ上がれば大河内山荘で、北に歩を進めれば常寂光寺の門前に出る。朝日が昇れば西の縁の小倉山を目指して光が射し込み、その日が中天を過ぎれば忽ちに陰って静まり返り、辺りの竹林が…

また『宇治拾遺物語』に「渡天の僧、穴に入る事」という話がある。「今は昔、唐(もろこし)にありける僧の、天竺に渡りて、他事にあらず、ただもののゆかしければ、物見にしありきければ、所々見行きけり。ある片山に、大きなる穴あり。牛のありけるが、こ…

信心のある親が幼な子を仏壇の前に座らせ、「まんまんちゃん、して」と云う。神社の鳥居を潜って、「まんまんちゃん、あん」と我が子を促す。道端でも手を合わせ、「あん、して」と拝むものを教えられる。幼な子が自分からそうし始めれば、「まんまんちゃん…

西ノ京御輿ヶ岡町の北野神社御旅所にテントが張られ、網で覆った内のテーブルの上に梅が整然と干されていた。これは一度塩漬けされた梅で、今月、七月の下旬に再び北野天満宮の本殿前で天日干しされ、年末に近づく頃御守りと一緒に授与品として巫女の前に並…

東山建仁寺の塔頭両足院の主な建物は、方丈とその北奥に並ぶ書院と二つの茶室である。白木屋の寄進によるという方丈の苔の生えた長方の前庭には二本の松と大振りの石が立ち、回った東には土盛りに幾つかの石が寄せられ、方丈の北東角にある簡素な門を抜けれ…

山梔子(くちなし)と知ることになる白い花 久乃代糸。たとえば、山梔子の花とは知らず白き花、と詠む時、「知らず」と云いながら「白き花」が山梔子であることを知っている。ある日、辺りに匂いを漂わせている白い花を目にしたが、その時はその花が山梔子で…

紫野大徳寺に天正寺と書いた額がある。この字を書いたのは、第百六代正親町天皇(おおぎまちてんのう)である。天皇が書いたものであるから、正式には勅額である。これを正親町天皇に書かせたのは、豊臣秀吉である。が、この天正寺という寺は、この世に存在…

天正十八年(1590)天下統一を果たした豊臣秀吉は、翌十九年京都市中の東西南北を後に御土居と呼ばれる高さ四メートル前後の竹を植えた大堤で囲い、賀茂川から鴨川に沿ったその東の御土居の内、六条通から鞍馬口通の間に、市中にあった百十七の寺院をか…

下京の梅雨の紅殻格子かな 室積徂春(むろづみそしゅん)。「上京」でも「中京」でも「右京」でも「左京」でもない、明治十九年(1886)生まれの室積徂春の口から出る「下京」は、恐らく「中京」も「右京」も「左京」も行政区としてまだ存在しない「上京…

雨やどりやがて立ちゆく遍路かな 清原枴童(きよはらかいどう)。この俳句の季語は遍路で、季節は春である。車谷長吉に『四国八十八ヶ所感情巡礼』と題する紀行文がある。「私はいま六十二歳である。六十歳の時、うちの嫁はん(高橋順子)の発案で船で世界一…

毎年の冬の京都の駅伝は、西京極陸上競技場と国立京都国際会館前を往復する。この国立京都国際会館は、松ヶ崎の二つの山を回り込んだ所にあり、この二つの山は、五山の送り火の「法」と「妙」が灯される山である。この松ヶ崎東山と松ヶ崎西山の裏の窪みにあ…

二條城から東へ、堀川通と堀川を渡り夷川通(えびすがわどおり)を入って暫く行くと左手、北側に滑り台シーソー鉄棒ブランコ砂場の揃った夷川児童公園があり、中に「陽成院跡(ようぜいいんあと)」と書いた案内板が立っている。「この夷川公園一帯には、南…

桂川に架かる松尾橋の東詰の空に、「罧原堤四条」という道路標識が立っている。「ふしはらつつみしじょう」と読み、四条通と交わる土手道が罧原堤である。元禄三年(1690)に出た『名所都鳥』の「堤之部」に「伏原堤、嵐山の麓頼業(よりなり)の社(清…

「対岸の桜」という小説があり、「私」という不動産業を営んでいる人物が、長年東京で教師をしていたという片足の不自由な者に鴨川の向こうの物件を紹介し、その者は古本屋を始めたのであるが、五年足らずで火を出して亡くなるというのがその話のこれまでの…