毎年の冬の京都の駅伝は、西京極陸上競技場国立京都国際会館前を往復する。この国立京都国際会館は、松ヶ崎の二つの山を回り込んだ所にあり、この二つの山は、五山の送り火の「法」と「妙」が灯される山である。この松ヶ崎東山と松ヶ崎西山の裏の窪みにあるのが宝ヶ池で、国立京都国際会館はこの水辺に建っている。宝ヶ池は、江戸期に水溜りだったものを農業溜池に大きく造り成したものであるという。が、いまはその役割りを終え、水面にボートを浮かべ、傍らを流れる岩倉川を子どもの足でも入れる遊び場にした宝ヶ池公園になっている。いびつな手裏剣のような形をした宝ヶ池の周囲はおよそ千五百メートルである。国立京都国際会館が建つ一方を除いた三方は、樹に覆われた山の斜面が迫っている。黄金週間のこの日、空いた駐車場を見れば、池を巡り平らな草の上で弁当を開いているのは近くに住んでいる者らであり、虫取り網を振り回す一家も犬を連れる者もボール遊びをしている若い者らも、日なたで本を読む者も木蔭でハーモニカを吹いている者も泣き止まない子どもも、緊急事態のさ中に「近所の池」にやって来た者らである。通っていた小学校の北西の方角に、かつて銀の採れた山があった。その山中にこの宝ヶ池とおなじような沼があった。その沼も灌漑溜池で、田植えが始まれば湛えた水の減る沼である。ある年、この沼に遠足に行った。小学校から沼まで地図を辿れば直線で五キロほどであるが、道なりに行けば恐らくはその倍近い距離がある。この遠足で四つの光景が頭に残っている。一つは田圃道から人家の建つ裏山の斜面の山道に入って行った、一つは沼の畔の浮き出た木の根を避け湿った斜めの地べたで昼飯を喰った、一つは帰り道の途中雑木道に迷い込んだ三四人の「われわれ」がほかの者からはぐれてしまった、一つは「われわれ」がほかの者らより早く学校に戻り着いてしまった、ことである。が、山の登り道を含めた片道七八キロを子どもの足で歩くことを思えば、この記憶は心許ない。沼の近くまではバスに乗って行き、道ではぐれたのは山の頂上に登る前後ではなかったか、あるいは学校に先に戻ったのはたとえば写生に行った帰りの出来事だったのではないか。調べればカタのつく話である。が、学校からその沼までの往復が徒歩であったのであれば、記憶の辻褄は合うのである。いま再びその時の記憶を思い返しても、バスに乗っている光景は浮かんで来ない。山道をぞろぞろ列になって歩いている。ある者が何かの都合で足を止め、その前後にいた二三人も足を止めている間に前を行く列を見失い、慌てて入った小径を行けども行けども列の姿はなく、来た道を戻る時はじめに足を止めた者の顔が青くなった。が、声を上げることは誰も思いつかなかった。戻ってもどこまで戻ってよいのか分からなくなった、が、帰りの道は影が出来る方角と反対であることは分かっていた。それから誰かが選んだ斜面を下って行くと、来た道に出た。が、その山道を下っても前に列の姿は見当たらない。最早「われわれ」は相当に遅れてしまったのである、と思ったのである。「われわれ」は車の通らない田舎道をとにかく急いだはずである、が、その記憶はない。その途中で後ろを振り返ればあるいは彼方に同級の列の姿を見たのかもしれないが、「われわれ」は誰もそうしないまま学校に着いた。が、校庭には誰の姿もない。「われわれ」のひとりが教室を見に行ったが、空であると云う。そこで「われわれ」ははじめて、図らずも早く戻ってしまったことを知るのである。が、これより先の記憶はない。担任の教師は前を行く「われわれ」を見ていたのかもしれない。そうであればその目に映っていたのは、ただ近道をした馬鹿者どもの姿である。が、この馬鹿者どもは覚えている。あの門を入った時に目にした、誰もいない校庭が夢のように怖ろしかったことを。宝ヶ池は穏やかである。公園の外れの、競輪場跡に造った「子どもの楽園」はいまは閉ざされ、静かである。

 「短夜の空も、やうやう明(あく)れば、又旅立ぬ。猶よるの名残、心すゝます(ず)。馬かりて桑折の駅に出(いづ)る。はるかなる行末をかゝえて、かゝる病、覚束なしといへと(ど)、「羇旅、辺土の行脚(あんぎゃ)、捨身、無常の観念、道路にしなん、これ天の命なり」と、気力聊(いささか)とり直し、路縦横に踏て、伊達の大木戸をこす。」(『奥の細道松尾芭蕉自筆 岩波文庫2017年)

 「【検証・廃炉】定義、あいまいなまま 宙に浮く「最終形」議論」(令和3年5月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)