嵯峨に暮れて戻れば京は朧かな 日野草城。花見で一日過ごした嵯峨と、日が暮れて戻った京との間には「距離」がある。「京」ではない嵯峨から戻った市中が朧に霞んで見えるのは、その「京」と己(おの)れの間にもまた「距離」が出来ているということかもしれない。朧が素直にそのまま春の天気の現象であると読むのは平凡に過ぎ、ほろ酔い気分で戻ったのかもしれぬというのは不粋な読みで、むしろ酔っていないからこそ朧に見えるのを不可思議に感じているのではないか。その花見のあとの心が「揺れている」のが朧なのであろう。たとえば夢の中で住み馴れた町を見るような。六條はいとど朧やよるの雨 立花北枝碓井小三郎が明治二十九年(1896)から大正四年(1915)にかけて出版した『京都坊目誌』の首巻五の「横通」に三條通以南として「三條通、六角通、蛸藥師通、古門前通、新門前通、新橋通、錦小路通、四條通、綾小路通佛光寺通、高辻通松原通、萬壽寺通、柿町通、五條通、楊梅通鍵屋町通、的場通、馬場通、藥罐町通、魚棚通、萬年寺通、花屋町通、上枳殻馬場通、正面通、御前通北小路通、七條通、下魚棚通木津屋橋通三哲通、東鹽小路通、梅小路通、大佛南門通、八條通、針ヶ小路通、九條坊門通、信濃小路、九條通」と東西の通りが並ぶが、六条通の名はない。芭蕉の弟子であった立花北枝が見た京に六条通はなかったのである。が、魚棚通(うおのたなどおり)の項を見ればこう記されている。「東は下寺町に起り。西は醒ヶ井通に至る。凡(およ)そ古(いにしへ)の六條大路にして。延暦中の開通とす。文明以來全く荒廢し。天正中再開する所なり。街名起原、近世下魚棚より移り、魚鳥類の市場を設け毎朝盛に賣買せしより此名を呼ぶ。明治に至り市場振はず、既に名ありて實無きが如し。」あるいは松原通の項にはこう記されている。「東は清水寺門前に起り。西は松原西入に至り郡界に接す。寺町以西は凡そ古の五條大路にして。延暦中の開通とす。賀茂川以東は六波羅を經て清水に達する故道なり。文明以來荒廢し。天正中再開して繁昌の街と爲る。街名起原、古の五條通なり。應仁亂後街路凋落し。人家希少なり。獨り玉津島神社の並木の松樹のみ繁茂す。當時世人の口稱を以て松原と呼びしに起ると。」この「五條大路」が松原通となった経緯はこうである。「現在の松原通は、その昔は五条通だった。五条通から松原通に変わったのは、豊臣秀吉が東山大仏殿を造営したとき、六条坊門小路(現五条通)の鴨川に橋がなかったため、参詣人のため、五条大橋を六条坊門に移してしまった。天正十八年(1590)のことだ。当初は大仏橋と呼ばれたが、正保二年(1645)石橋に改修して旧名の五条橋としたため、六条坊門小路が五条通と呼ばれた。以来、本家の五条通の名は橋とともに失われ松原通となった。近世まで五条松原通と呼ばれたから、ますますややこしい。」(『京都の大路小路』小学館1994年刊)六條が「いとど(ひとしお)朧」なのは、六條大路が魚棚通と名を変え、六條坊門小路が五条通と名を変えてしまっていたからなのである。折鶴をひらけばいちまいの朧 澁谷道。この朧は、目の前にあるものがあってなきが如くのものであるということを改めて思い出させる。仮縫の身におよびたる朧かな 杉本雷造。仮縫というまだ定まっていないあやうさが、自分自身という存在がそもそも何の確信もないあやふやで不完全なものにすぎないのではないかと己(おの)れに迫って来る。仮縫が朧であれば、すなわち私自身も朧であると。

 「桜の咲く季節になると、僕はいつも一人の少年を思い出すのである。小学校一年の入学式の時、トンボを捕まえるアミを片手に、僕らのクラスに入ってきた少年がいた。誰もが父母につきそわれ、桜が満開の校庭で校長先生が挨拶をしている時に、背の高い、頭がぼうずのその少年は、一人クラスから離れ、「チョウがチョウが」と歌うような声をだし、強い風にあおられた桜の花びらをアミですくっていた。」(「桜の木の下で」沢野ひとし『太田トクヤ傳』本の雑誌社1985年)

 「処理水放出を一時停止 福島第1原発で停電、掘削でケーブル損傷か」(令和6年4月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 松尾大社の山吹。