JR嵯峨野線丹波口駅は、平成三十一年(2019)に梅小路京都西駅が間に出来るまで京都駅から一つ目の駅で、改札を通って北の口から出れば目の前が広い五条通で、駅の高架線路を挟んだ西と東の両側は青果水産物を扱う京都市中央卸売市場である。丹波口駅には広場も駅前商店街もない。駅の名の丹波口は、ここから都の西の丹波に通じる丹波街道の関所があったからである。駅の東側にある青果1号棟の南側一帯に遊里島原があった。その名残りを留めているのが置屋として今も営業をしている輪違屋(わちがいや)と揚屋だった角屋(すみや)の細い格子が目に残る古色蒼然の二階建の木造の建物である。取り沙汰される歴史の記憶では、桂小五郎伊藤博文輪違屋の桜木太夫に入れ揚げ、新選組芹澤鴨は角屋で派手な宴会を開いた日の夜に、戻った壬生(みぶ)の屯所(とんじょ)で土方歳三などの身内に殺されている。この二つの建物のためにそうしたような石畳風の舗装を施した通りには、目立たぬ様子でホテル旅館や飲食の店がぽつぽつとあっても、昭和三十三年(1958)の売春防止法の施行まではそうであった色街から差し代わるように慌ただしく建て替わった住宅で埋まっていれば、この石畳風の舗装は昼の明かりの下(もと)では一帯を落ち着きなく白々とさせるばかりに見える。寛永十八年(1641)、それまで六条新町上ル辺りにあって六条三筋と呼ばれた幕府公認の唯一の遊里が、洛西朱雀野の畑地に移転をさせられ島原と呼び名が変わるが、市中から遠くなり、新たな遊里があちこちに出来出すと客足は遠のき、昼に開け夜になると門を閉ざして大尽客だけを相手にしていた商売を、享保十年(1725)にひと月の半分の夜を職人や手代などの客に開放するようになり、以後島原の敷居は低くなる。新選組が京の治安維持部隊として姿を現すまでそう遠くない、徳川の終わりが近づいていたその日の深夜、ひとりの遊女が囲われていた置屋から秘かに抜け出し、出入り口の大門脇に祀ってある石の地蔵を風呂敷に包んで背負い、思わずも走り出した。この先一里半の道をのんびり歩く余裕はない。もしことがばれて見つかって連れ戻されたりしたら、どんな恐ろしいことが待っているか分からない。遊女は店を抜け出して連れ戻された者が受けた仕打ちを知っているのである。それにしてもなぜ逃げる自信があると云っていたのに、あの者は見つかってしまったのか。噂によると、大門脇の地蔵に女将さんが願掛けをしたのだという。あの地蔵は足止地蔵と云って、たとえ逃げ出す者がいても、願を掛ければ必ず三日の内に見つかって連れ戻されるというのである。まことに恐ろしい地蔵である。それを聞いて遊女は考えた、「私はしくじるわけにはゆかない。そうだ、地蔵と一緒に逃げてやる。」と。遊女の向かう先は西陣である。その町のどこかに、云い交わした年の若い機織職人がいるのである。が、店を抜け出すことを遊女はその男に明かしていない。驚かせてやろうと思ったのである。どれほど走ったのだろう、遊女は後ろを振り返る。誰かが追って来る様子はない。遊女は足を緩め、もう大丈夫だと思う。が、いま自分がどの辺りにいるのか、門の外に出たことのない遊女には分からない。足を緩めてから、背負っている地蔵が急に重くなったような気がして来た。あの人は、こんなことを仕出かした自分のことをどう思うだろうと遊女は思い、不安になる。が、最早後戻りは出来ないのである。地蔵がますます重くなる。足が縺(もつ)れる。辺りが白みはじめたというのに、目の前が霞んで来た。遊女は己(おの)れの意識が遠のくのを感じながらうつ伏せに倒れた。このようにして遊女に負ぶわれ島原からやって来た地蔵が、西陣妙蓮寺前の灰屋図子(はいやのずし)に祀られている。寺之内通からクランクのように折れ曲がり、猪熊通に抜ける灰屋図子は、どちらかが体の向きを変えなければすれ違うことの出来ない径で、時間を溜め込んだような古びた平屋の長屋が両側に並び、その丁度半ほどに足抜地蔵と書いた提灯を下げた小堂があり、格子戸の中に目鼻の削げた四体の地蔵に囲まれるように座った姿の足抜地蔵が納まっている。地蔵を負ぶったまま気を失った遊女は、目出度く機織職人と夫婦になった。島原の足止地蔵は、ひとりの遊女によって西陣の足抜地蔵に名が改まったのである。松原通烏丸東入上ルの因幡薬師に祀る薬師如来には、次のような経緯(いきさつ)がある。「(第六十二代)村上の天皇御宇、天暦五年(951)三月、橘行平夢想によりて、因幡国加留の津にして、金色の浪の中より、等身の薬師の像をとりあげたてまつる。行平在京の時、長保五年(1003)四月、虚空をとびて王城に来給へり。」(『一遍上人絵伝』巻四・因幡堂)従四位上中納言橘行平が因幡国一宮での神事の任務を終えて京へ帰るばかりの時に急な病の床に臥し、夢に現れた僧から海中に沈んでいる浮き木を引き揚げれば病が治ると告げられ、加留津の海を探ればその通りに薬師如来が見つかって堂に祀ると忽(たちま)ちに行平の病は治った。京に戻って暫くするとまた行平の夢の中に僧が現れ、宿縁により西より来たり、と云う。行平が目を覚ました丁度その時屋敷に来客があり、門の外に薬師如来が立っていた。行平は己(おの)れの屋敷に改めて堂を建て、台座に薬師如来を載せ祀ったのである。町堂因幡薬師はがん封じに効くという。話に軍配をあげれば遊女の方である。遊女は夢を見ることなしに、一途な思いだけで己(おの)れの現実を変えたのであるから。

 「窓が穿(うが)たれた建物と建物のあいだから、ひろがった山なみが見えた。それももう動かなかった。考えてみると、自分が山でないこともおかしかった。ゆっくり通りすぎる雲の下で、崖や茂みに覆われたざらついた大きな背をのばし、街を取り巻くこともできたろう。家だって、よく考えれば、一つの生きかたでありえたろう。」(『大洪水』J・M・G・ル・クレジオ 望月芳郎訳 河出書房新社1977年)

 「双葉、戻った稲刈りの風景 原発事故後初、25年営農再開目指す」(令和3年9月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)