北嵯峨広沢池(ひろさわのいけ)の北の縁の底の尖った茶碗を伏せたような朝原山は、その麓にかつて遍照寺があったため遍照寺山とも呼ばれているが、池の西の稲刈りが終わって曼殊沙華が萎(しお)れている田圃道で十月二日の晴れた真昼に耳にした、町中(まちなか)ではとうに聞こえなくなったミンミンゼミの鳴き声は、この朝原山の山の中からしている声で、時期の外れた蟬の声と云えばそれまでであるが、些(いささ)不思議な気分にもさせられたのである。ひと月以上耳にしなくなっていたその鳴き声は妙な懐かしさで耳に響き、それはたとえば目に見えている景色は何も変わらぬまま何かの力でひと月前に引き戻されてしまったようでもあり、十一カ月経ったいまと同じ場所に来てしまっていてもその間の記憶がまったくないといったような不思議な気分である。あるいは、と別の思いが頭に浮かぶ。いま聞こえている声はひと月前に鳴いた蟬の声で、その声がこの世のどこかを巡り巡って聞こえているのではないか。遍照寺山に辿りつくまでひと月の時間が経った声であると。もしそうであれば成虫になってからの蟬の寿命を考えれば、すでにその寿命は尽きていて、いま聞こえているのはひと月前に死んだ蟬の声であるかもしれぬと。池の畔(ほとり)にある児社(ちごのやしろ)の裏のコスモスが咲く田圃を潰した空地で、親に連れられ集った子どもらがサッカーの球を蹴っている。児社にはひとりの侍児が祀られている。遍照寺を開いた第五十九代宇多天皇の孫の寛朝僧正が長徳四年(998)に亡くなると、「小児寛朝ノ登天ヲ歎キ、釣殿橋ヨリ、此ノ池(広沢池)ニ投シテ死ストナン━━」(「嵯峨行程」黒川道祐)と、寛朝僧正の死を悲しんだ侍児が後追いの入水をしたという。名の伝わらぬこの侍児が水に没した時の音は、耳を澄まさねば聞こえぬほであったかもしれぬが、それから一千年の後のいまもその音は、この池を満たす水のさざ波に混じり聞こえるはずである。

 「下らない、下らない。こういうふうにしてぼくは自分の前に幽霊を迷い出させるのだ。ぼくは、たとえ表面的にではあれ、ただ<そのあと…なければならぬ>とか、とりわけ<振りかけ…>の個所にのみかかずらっていた。風景描写のなかに、ぼくは一瞬、何か本物を見たような気がした。」(「<日記>一九一二年・三月十日」フランツ・カフカ 谷口茂訳『カフカ全集7』新潮社1981年)

 「広島と長崎の知見、知る人ほど少なく、原発事故の遺伝的影響不安」(令和3年10月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)