停滞し続けた梅雨前線により、数十年ニ一度ノ大災害ガ起キルゾと皆に迫った、コレマデニ経験シタコトノナイヨウナ大雨が京都にも降った。桂川に架かる渡月橋の橋脚が濁流に飲み込まれ、橋の北詰から小倉山に沿う参道にも泥水が溢れ出て、境の印だった街灯がその泥水の上に突っ立っている、見たことのない光景に変わり果て、南詰の嵐山の裾道も水を被(かぶ)って見えなくなった。一週間前、嵐山の裾道には茶屋が掛かっていた。伏見月桂冠の紅白の幕で河原に立てた足元と頭上を覆い、茣蓙(ござ)を敷いた床に安テーブルと座布団を幾つか並べ、二人連れの客ばかりが座に着いて呑み食いをしていた。深くはない水の面は波も立たず、小倉山のこちら側は梅雨の晴れ間の日が当たり、向こうの茶屋は山陰(やまかげ)で、幕を揺らす風が見える。聞こえる水の音は川音ではなく、茶屋の側(そば)で上から山肌を削って落ちて来る水の音である。茶屋の客の声は聞こえて来ない。座布団を枕にして横になる客を眺めながら桜の木蔭に暫(しばら)く居ると、保津川下りの川舟がゆらゆらやって来る。川の名は桂川であるが、渡月橋の辺りは大堰川(おおいがわ)と呼ばれ、橋を潜(くぐ)れば淀川に行きつくまでは桂川であり、保津川と呼ばれるのは、亀岡から嵐山の手間までであり、保津川の上流はまた大堰川と呼ばれている。保津川の川下りは、その渓谷の急流を水を被りながら揺られ下るのであるが、終点は何事もない穏やかさであり、乗り客の水の上に浮かぶ胸騒ぎも、ここに来れば鎮まり、その心鎮まりは、水の上でなければ味わうことが出来ない様(さま)であると思えば、浅瀬から川原に下りる時の舟のひと揺れは、陸地の安堵と些(いささ)かの胸騒ぎを呼び起こす。乗り客を下ろした川舟は、先の川面に無人のまま停め置かれ、二つの山の峡(かい)を流れる川は、元の静けさに戻る。向こう岸の茶屋にいた一組が、団扇(うちわ)を置いて腰を上げる。その中年の二人が日陰の裾道を歩いて行くのを目で追っていると、カチャンと器の立てる音が響いて来る。それは使った器を店の者が下げに来て出した音なのであるが、その下げる手つきが雑なのではなく、それほど響く場所で下げものをしているということなのであるが、時折り鳴く鳥の声よりも胸に響く音だったのである。それは落とせば割れる器の音である。学校給食や社員食堂や病院食の器は、このような音は立てない。割れる器でも、町中(まちなか)の料理屋でも家の台所でも、このようには響かない。濁流はいづれ治まり、茶屋はまた同じ場所に店を掛ける。泥を被った器は泥を落とされ、同じ音を響かせる。が、その音は対岸にいなければ、対岸にいる者の耳にしか響かない。

 「薄暗い車室の奥から、テレーズは自分の生涯のこの清浄な時代をながめる───清浄ではあるが、もろい、さだかならぬ幸福の光のさしている時代。そして、あの歓喜のどんよりした光、あれがこの世における自分の唯一のわけまえであろうとは、そのころは夢にも知らなかった。彼女の当りくじのすべてが、たえがたい夏のさなかの暗い客間の中に、───あの赤いレプス織の長椅子の上の、そろえたひざで写真のアルバムを押さえているアヌのそばに、───つきていたとは、何ものも予告してくれなてはいなかったではないか。あの幸福はどこからわいてきたのか?」(フランソワ・モーリヤック 杉捷夫訳 『テレーズ・デスケイルゥ』新潮文庫1952年)

 「第1原発「処理水」…先送りせず解決を 自民第7次復興提言案」(平成30年7月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)