嵯峨鳥居本に愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)がある。まだ茅葺屋根がぽつぽつ残り、観光客目当ての土産物屋が軒を並べる鳥居本の地の名の鳥居は、先を登りつめて至る愛宕山の頂上にある愛宕神社の一の鳥居であり、小説家水上勉は時に鳥居本を、京都脱出のとば口と書いている。水上勉は昭和六年(1931)十二歳の時、十歳で預けられた寺の修行に堪えかね、嵐山電車を終点で降り、ここから山陰線の線路に沿って故郷若狭へ帰ろうとしたのだという。が、その夢は果たせず、少年水上勉はその日の夕には亀岡署員に見つかり、寺に連れ戻される。「その時、あり金はたいて嵯峨にきて、線路を歩きはじめたが、保津川の崖上で道はトンネルに吸われたので、思案した末、念仏寺の下から鳥居本まで歩き、いまの平野屋の横から、谷を入って落合に出、そこから、水尾、原をすぎて、亀岡に降りた。」(「樒(しきみ)の里、柚の里」水上勉『京都遍歴』立風書房1994年刊)ここに出て来る念仏寺、愛宕念仏寺は、この脱走の九年前まではこの場所になかった。「念仏寺、松原通建仁寺町東北側、等覺山と號し、一に愛宕寺といふ。昔は此の邊を愛宕里といふ、今の此の名は當寺にのみ止まりて、世人愛宕寺と稱す。開基は弘法大師、中興は千觀内供(せんかんないぐ)なり。内供は不退念仏者にして、口に佛號を絶つことなし、世人稱して念佛上人と云ひ、終に寺を念佛寺と稱せしとぞ。古上梁文に文保年間重修すとあり。相傳ふ、本堂は當初創建のまゝにて、最も古代の經營なり、卽ち檜木細組天井等の如き、今の世に多くあるべからざるものにして、亦東山の一古刹なり。宗旨は初め眞言宗なりしが、後天台となり延暦寺に属す。仁王門、南向、元二條觀音寺にありしを、應仁元年の兵火後こゝに移す、左右に安する堅力金剛、密迹金剛各立像七尺許は運慶湛慶の作なりしといふ。本堂、特別保護建造物、南向、千手觀音立像三尺許を本尊とし、左右に毘沙門、地藏、二十八部衆を安す。叉堂内に千觀内供の像を安せり、自作なりといふ、また佛像中湛慶作の不動明王國寶あり、尤も名作と稱せらる。」(『新撰京都名勝誌』京都市役所 大正四年(1915)刊)東山松原通弓矢町にあったこの愛宕念仏寺は、大正十一年(1922)「松原警察署の設置に土地を割いて寺域の不足をきたし、現在右京区嵯峨鳥居本に移転した。」(『日本歴史地名大系27 京都の地名』平凡社1979年刊)警察署の強制に土地を譲って移転した愛宕念仏寺は、それから坂を下り落ちるように太平洋戦争中には無住寺となり、戦後に台風の被害を受け、ついには廃寺と果ててしまう。仁王門の堅力金剛、密迹金剛の二体が映画の小道具を扱う業者の手に渡り、千手観音の四十二本の腕の内の三十八本のばら売りがこの寺の末路であった。喰うに困った坊主は、千手観音の腕を一本折っては金に換えたのである。もしかすると、枕元の夢に現れた千手観音が、自分の腕を金にせよと坊主に云ったのかもしれない。昭和三十年(1955)、仏像彫刻師西村公朝が仏徒となって廃寺愛宕念仏寺に入った。西村公朝は日中戦争のさ中、行軍中に疲労でうとうとしながら行進する兵隊の列が、あちこちが壊れ傷んでいる仏像の姿に見えて来たという。生きて帰った西村公朝は、この夢の啓示で仏像修理を生業とすることにしたというのである。昭和五十六年(1981)、NHKの番組『新日本紀行』が愛宕念仏寺を取り上げる。佐川一政がパリで人肉事件を起こし、深川で通り魔事件が起こった年である。その前の年にはモスクワ・オリンピックのボイコットがあり、イエスの方舟事件があり、新宿のバス放火事件があり、川崎で金属バットを使った両親殺害事件があり、ジョン・レノンの射殺事件があった。『新日本紀行』は、慣れない手つきで大谷石を彫る参拝者を映し出す。その後ろから手ほどきをしているのが西村公朝である。参拝者が五万円を払って、己(おの)れの彫った羅漢像を寺に寄進し、羅漢五百体で境内を埋めるというのである。番組の後半、五百羅漢の開眼供養に合わせ、修復した仁王門に、人手に渡り後に京都国立博物館に保管されていた二体の仁王が、サラシでぐるぐる巻きにされた姿で帰って来る。寄贈という形にして、西村公朝が五百羅漢の金で買い戻したのである。境内に並ぶ羅漢像は十年で千二百体となり、いまはそのどれもが苔むし、風化し、四十年の雨風にあたったくすみを纏っている。真新しい大谷石に鑿を揮(ふる)っていた者がインタビューに、若くして死んた母親の顔だと応えて笑う。他の者も皆楽しそうに己(おの)れの羅漢を彫っている。参拝者は手を合わせ、ただ五万円の布施をするのではく、鑿を持たされ、恐らくは初めての経験に苦痛を強いられる。五万円の意地があるかもしれぬが、素人にはいささか無謀のようにも思える。途中で鑿を放り出してしまえば、石はいつまでも羅漢像にならない。が、誰も投げ出さないであろうと西村公朝は確信していたに違いない。頭の中の信心は、身体を使って鍛え上げることが出来るからである。素人の彫った千二百の羅漢像が「本物」に見えるのはこのためである。
「イサカはすばらしいところにあった。ぐるりはどこも森や谷で、渓流がざあざあと鳴りながら湖に注いでいる。病院はファーンストックという教授が所長をしていて、公園のような敷地の一角にあった。今日あったことのように思いだせるよ、とフィーニ伯母は語った。透きとおった空気の小春日和、アーデルヴァルト叔父さんとふたり、叔父さんの部屋の窓辺に立っていたこと、外の空気が流れこんできて、わたしたちはそよりとも動かない木立を透かして、アルタッハの湿原を彷彿とさせる野原を眺めていた。そこへ柄の先に白い網をつけた中年の男の人があらわれて、ときどき、ぴょんぴょんとおかしなジャンプをしているの。アーデルヴァルト叔父さんはじっと眼を据えたままだったけれど、わたしがいぶかしい顔をしたことには気がついて言った、蝶男だよ、ちょくちょく現れるんだ。」(「アンブロース・アーデルヴァルト」W・Gゼーバルト 鈴木仁子訳『移民たち』白水社2005年)
「「セシウム濃度」…一時上昇 福島大分析、台風19号で土砂流出」(令和2年9月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)