清水寺の「清水の舞台」の真下に、「北天の雄 阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ)之碑」と東北六県を縁取りして刻んだ石碑が建っている。この碑の裏の説明はこうである。「八世紀末まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服従しない東北の民を蝦夷と呼び蔑視し、その経略のため、数次にわたり巨万の征服軍を動員した。胆沢(岩手県水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為(タモノキミアテルイ)は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏の戦いでは勇猛果敢に奮闘し政府軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将・磐具母礼を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母礼は八〇二年八月十三日に河内国で処刑された。平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺に建立す。両雄をもつて冥さるべし。一九九四年十一月吉祥日 関西胆沢同郷会 アテルイを顕彰する会 関西岩手県人会 京都岩手県人会」「田村麻呂開基の同寺」と記された清水寺と坂上田村麻呂の関わりはこうである。「當寺の初りは寶龜九年(778)四月に大和の小島寺の延鎭ゆめのつげ有て流れをのぼりければ金色のひかりさすあやしみて其源を尋ゆけば瀧のもとに至り一つの草庵あり其内には八十計の老人延鎭に逢て其方を待事二百年に餘る此木にて千手觀音の像を刻めとて東の方へ飛去そのゝち延鎭草庵にて觀音を刻居る所へ田村丸鹿を狩て此所に來り初冬を聞て大きに感じ清水の本堂を建立す大同二年(807)に諸堂成就せり其後東國の逆賊おこりて田村丸勅を請て討手に向ひ戰ひしが官軍打まけ將軍もあやうき折から年の頃二十四五なるうつくしき法師と共に三十四五のあらくましき男兩人出て田村丸の味方となりつひに敵をほろぼしける時に將軍あやしみ誰なるぞとあれば我々は清水から觀音の仰によつて勝軍地藏敵びしやもん加勢せりといひて失給ふ將軍大きにおどろき凱陣の後清水寺へ参詣し堂に入見給へば觀音の脇立地藏びしやもんの二體矢疵刀疵あり夫(それ)よりいよいようやまひ給へり」(『都名所車』)坂上田村麻呂のこの「逆賊」阿弖流為の助命嘆願に公卿はこう返したという。「野性の獸、反覆の定まることなし。たまたま朝威に縁(よ)りてこの梟帥(きょうすい、賊軍の大将)を獲たり。もし申請に依りて奥地に放還せば、所謂(いはゆる)虎を養ひて患を還すなり。」『新漢語林 第二版』(大修館書店2011年刊)の「蝦夷」の項にはこう書かれている。「昔、北関東・奥羽・北海道にかけて住み言語や風俗を異にして、朝廷の支配に服従しなかった人々。」坂上田村麻呂に降伏した阿弖流為と母禮は京に連れて来られた。二人にその覚悟があったとしても、この時にはまだ処刑されることは決まっていなかった。この先どうなるか分からぬ目で阿弖流為と母禮は京に入り、京の町を見た、京に住み言語や風俗を異にして朝廷の支配に服従している人々を。琉球も蝦夷もはれたりけふの月 正岡子規。
「声が震えてきたのを感じて口を閉じた。助けを求めるように窓の方に目をやった。そして求めるものを見つけた。まだそこにいた。先史時代の、永遠の美しさをたたえて、動物の世界と植物の世界の中間で、輝ける朝の光のなかに晴ればれしくじっとしていた。」(『世界終末戦争』マリオ・バルガス=リョサ 旦敬介訳 新潮社1988年)
「基準値超スズキ出荷停止 県漁連、いわき沖で水揚げの個体」(令和5年2月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)