嵐山の南の松尾大社の二の鳥居から道を左、南に沿って行くと、道は緩やかに上り楽器が奏でる音が聞こえて来る。それはシンバルやタンバリンや太鼓やピアニカが交じり重なり合い歌謡でも雅楽でもないフレーズを一斉に奏でていて、その僅かな起伏の韻律のフレーズは少しずつ変化ししかも次第に高まっていくようでもある。その音の出どころは明るいベージュ色の建物からで、松尾幼稚園とある。平日の昼に中から園児の声が聞こえて来ないのは園児全員で演奏をしているのかもしれない。が、音色は耳に拙く響いてはいない。この道をそのまま進むと月讀神社の鳥居の前に出る。この月讀神社は『続日本紀』にこのように出て来る。「大宝元年(701)夏四月甲辰(きのえたつ)の朔、日蝕(ひは)ゆること有り。丙午(三日)、勅(みことのり)して、山背國葛野郡の月神(つくよみのかみ)・樺井神(かにはゐのかみ)・木嶋神(このしまのかみ)・波都賀志神(はつかしのかみ)等の神稲、今より以後、中臣氏(なかとみのうぢ、中臣朝臣)に給ふ。」平安遷都の百年前にすでに月讀神社はあり、その場所はここより東の桂にあったと『山城國風土記』には記されている。「桂里、山城國風土記に云はく、月讀尊、天照大神の勅を受けて、豐葦原の中國(なかつくに)に降りて、保食(うけもち、食物神)の許に至りましき。時に、一つの湯津(ゆつ、神聖な)桂の樹あり、月讀尊、乃(すなは)ち其の樹に倚りて立ちしましき。その樹の有る所、今桂の里と號(なづ)く。」が、この桂里、現在の桂上野は桂川がS字に曲がるところに当たり、斉衡三年(856)三月三日、「社近河、爲水囓所、故移之」(『文徳実録』)たびたび水害を被るため現在の場所に移したという。朱塗りの鳥居の傍らに楠の古木が一本あり、鳥居の真下は自販機と幾本かの木の生えた叢の広がりがあり、鳥居の前からの段を加えれば三十段に足りない石段を上がると石垣の上にその誇りを保つような半築地の玉垣が立ち、本殿の裏は雑木の茂る剥き出しの崖が迫っている。その山肌からちょろちょろ水が傍らに滲み出していて、他に舞殿と二つの末社社務所があるだけの狭い境内にいま花を咲かせる木は植わっていない。鳥居の手前の看板にはこのように書かれていた。「子授け・安産の神徳「月延の石」、縁結び・恋愛成就「むすびの木」、学問の神・聖徳太子を祀る「聖徳太子社」、海上交通安全・水難除「御船社」、自己の罪・穢れを除く「解穢の水」」祈願石という出産予定日とびっしり願い事を書いた白く丸い石が幾つも日当たりの悪い囲いの中に放り込まれている。石段に戻れば住宅の向こうに桂川が流れているはずであるが、流れは見えない。鳥居の前に月読児童公園があり、ブランコにも滑り台にも人影はない。町はずれのような辺りの景色であるが、ここから道は二手に分かれ、一方の小径の口に鈴虫寺近道と札が立っている。月読神は『新訂増補大日本神名辭典』(編著梅田義彦 堀書店1972年刊)にこう書かれている。「ツキヨミノミコト 月讀尊古事記月夜見尊日本書紀)。御名義は古事記傳に、讀は夜見にて、見は綿津見(ワタツミ)、山津見(ヤマツミ)等の見に同じく持(モチ)の約にて、月讀は月夜持の義なりと説かれたり。一説に、月は亞(ツギ)にて、書紀にその光彩日に亞(ツ)げりとあるによれる御名、讀は數(ヨ)みにてかの御體の始めを月立(ツキタチ)と申し、終りを月籠(ツキコモリ)と申せり。譬(タト)へば望月・不知宵(イサヨイ)等とその形によりて夜を數(ヨ)む故に負わせ奉りし御名なりといい、また一説、神名考には、ヨミは月の形を數(ヨ)むにはあらで、日に亞(ツ)ぎて數(ヨ)む意にて、某日某夜(イクカイクヨ)と日に亞(ツ)ぎて數(ヨ)むと説かん方穏當なるべしといい、また試みに説かばとて、月夜見は次黄泉(ツキヨミ)にて、この國土の地、心にある黄泉(ヨミ)に次ぐ第二の黄泉ならんか、しか思わるるは黄泉(ヨミ)は闇(ヤミ)にて暗き所をいう言なるに、月球は日光を借りてこそ光れ、固(モト)暗體なれば、この國土の、黄泉(ヨミ)に亞(ツ)げる黄泉(ヨミ)の意ならんかと記せり。伊邪那岐神(イザナギノカミ)橘の小門の阿波岐原に御禊し給い、右の御目を洗い給う時、生(ア)れ給へる神なり(古事記日本書紀)。一説伊弉諾伊弉册(イザナギイザナミ)二神の大八洲を生み給いて後の御子なり(日本書紀)。この神光彩麗しき事日の神に亞(ツ)げり。すなわち命じて夜食國(ヨルノヲスクニ)を治めしめ給うと(古事記日本書紀)。また曰く、日神に配して天を司り給いしが、後日神の命によりて、往いて葦原中國に保食神(ウケモチノカミ)を訪い給う時に、保食神(ウケモチノカミ)その口より穀類・魚類・獣類を出して月夜見命に饗す。月夜命怒りてこれを斬りて還り、具(ツブサ)に狀を日神に奏し給えば、日神憤りて今より以後汝と相見じとて、ついに日と夜と隔てて住み給うという(日本書紀一書)。」どこか掴みどころのない記述なのは、そもそも月読神に掴みどころがないからなのであろう。いやそもそも人の手で掴まえることなど出来ないのであると云い換えてもよいのかもしれないが。風に乗って松尾幼稚園の演奏が微かに聞こえて来る。それは日差しのもとでは冬を去らしめ、春を呼び寄せるための厳(おごそ)かな楽のようにも思える。

 「火の見へあがると、この界隈を覆っているのは暗い甍であった。そんな間から所どころ、電燈をつけた座敷が簾越しに見えていた。レストランの高い建物が、思わぬところから頭を出していた。四条通はあすこかと思った。八坂神社の赤門。電燈の反射をうけて仄(ほの)かに姿を見せている森。そんなものが甍越しに見えた。夜の靄が遠くはぼかしていた。円山、それから東山。天の川がそのあたりから流れていた。」(「ある心の風景梶井基次郎梶井基次郎全集』ちくま文庫1986年)

 「放射性廃棄物30万立方メートルか 東電試算、デブリ取り出し準備で」(令和5年2月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)