「南禅寺参拝の栞」に、南禅寺の正称は「五山之上瑞龍山太平興国南禅寺」であると書いてある。南禅寺を「五山之上」としたのは足利義満で、至徳三年(1386)自ら発願した相国寺を五山の二としたためであり、五山の一となったのは足利尊氏創建の天龍寺である。この「五山之上」南禅寺の方丈は、明治八年(1875)七月から十五年(1882)十月まで京都府に京都癲狂院(きょうとてんきょういん)として徴用されている。この京都癲狂院は、国初の公立精神病院であるという。南禅寺は明治二十一年(1888)に琵琶湖疏水の水路を境内に通させられてもいる。「大方丈の庭は、小堀遠州の作、「虎の子渡し」の庭と伝えられる。南面に東西約十五間ある「旧清凉殿」の大方丈の南庭は、南側十八間、西側十間あまりの築地内にある。前庭の白砂上に大小六個の石を並列し、これに多少の樹木(アカマツ、カエデ、ネズミモチ、ツバキ、ツツジ、サツキなど)を配した平穏簡明な、気品の高い平庭である。━━庭石は南側の築地に沿って東より西に流れる勢を持つ左勝手の庭で、とくに東南隅の巨大な第一石は、金地院庭園に使われている庭石と同質の、古生層の角岩で、立派だが立(たて)方に今一つ力が足りない。今少し沈めるか、前にうつむけざまに起こすと強くなる。この立石法と、歯切れの悪い、気の利かないところのある配石とを考慮に入れると、小堀賢庭のコンビとは思われないところがある。この巨石は、「天下南禪寺記」に法堂の後階「三級岩」の下に老竜屈蟠する一大石があったと記されている。その「蟠龍石」ではないかと秘かに考えている。また、河原者を指揮した人として村瀬左介の姿も消すことができない。「本光國師日記」に見られる通り、遠州は直接手を下さず、おそらく、左介と賢庭(小堀遠州弟子)に方丈の庭の構築を命じたのであろう。鑑賞上の注意としては左勝手の構えであり、現在、拝観の順序は竜安寺と同様、庫裡から庭の東側を通り、庭園の正面に達する。これは庭を見る位置に進む正式の経路ではない。この大方丈の場合は、もちろん西側の法堂より「三級岩」の石階を上り、伝左甚五郎作の「竹に虎と牡丹」を両面彫りにした欄間を潜って「龍淵室」にはいる。この場合、東南隅の巨石は客の方より最も遠い奥にある。水流の源泉であり、滝口であり、力の根元である。巨石も「三級岩」を上ったところ、方丈広縁西側の四盤廊から見た姿が最もよい。」(「南禅寺本坊大方丈の庭」久恒秀治『京都名園記 上巻』誠文堂新光社1967年刊)三月の初めのその日の天気が晴れであっても、南禅寺方丈を廻る廊下は冷たく、広縁に射す光に足の指を並べて晒せば日向ぼっこの姿勢になる。うとうとと生死の外や日向ぼこ 村上鬼城。日向ぼこあの世さみしきかもしれぬ 岡本眸。ひとり抱けばひとり背にくる日向ぼこ 毛塚静枝。大方丈の庭も大日山を望む広縁も慶長の再建の時からその姿が変わらなければ、癲狂院の患者たちも冬のひと時この広縁で日向ぼっこをしたのかもしれない。

 「そのときなぜか、いま通り過ぎたばかりの朽ちかけた家が意識にちらついた。彼は朱と青のビニールの紐がみな、灰いろの格子と柱、板戸と板戸を強くそして優美に結んで、水引のやうに端をピンとはねてゐたことを記憶のなかで確めた。それはほかのどの国でも見たことのない生活と造型の組合せだつたやうな気がする。そして廃屋のビニールの紐のイメージは彼が歩きつづけるにつれて次第に形を改め、女の帯や掛軸の緒や京都の細工昆布の結びのやうな、もつとややこしくて花やかな、それでゐて水引と同じやうに凛としたものに変つてゆく。」(『裏声で歌へ君が代丸谷才一 新潮社1982年)

 「【処理水の波紋・理解の深度】海洋放出、隣県漁業者の懸念消えず」(令和5年3月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)