また『宇治拾遺物語』に「渡天の僧、穴に入る事」という話がある。「今は昔、唐(もろこし)にありける僧の、天竺に渡りて、他事にあらず、ただもののゆかしければ、物見にしありきければ、所々見行きけり。ある片山に、大きなる穴あり。牛のありけるが、この穴に入りけるを見て、ゆかしく覚えければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。はるかに行きて、明き所へ出でぬ。見まはせば、あらぬ世界と覚えて、見も知らぬ花の色いみじきが、咲き乱れたり。牛、この花を喰ひけり。試みにこの花を一房取りて喰ひたりければ、うまきこと、天の甘露もかくやあらんと覚えて、めでたかりけるままに、多く喰ひたりければ、ただ肥えに肥え太りけり。心得ず、恐ろしく思ひて、ありつる穴の方へ帰り行くに、はじめはやすく通りつる穴、身の太くなりて、狭く覚えて、やうやうとして、穴の口までは出でたれども、え出でずして、堪へがたきこと限りなし。前を通る人に、「これ助けよ」と、呼ばはりけれど、耳に聞き入るる人もなし。助くる人もなかりけり。人の目にも、何と見えけるやらん。不思議なり。日ごろ重なりて死にぬ。のちは、石になりて、穴の口に頭をさし出したるやうにてなんありける。玄奘三蔵(げんじやうさんざう)、天竺に渡り給ひたりける日記に、このよし記されたり。」その昔、唐という国のひとりの僧侶が、天竺に渡り、仏修行のようなことではなく、天竺というところがどんなところであるのか知りたいと思って、とにかくあちこち歩き回っていろいろなものを見物したのだという。この僧侶、山の一方に大きな穴があいているのを目にして足を止めた。なんとその穴に牛が一頭入って行くではないか。これを見た僧侶は居ても立っても居られず、牛の後に従って穴の中に入って行った。どれくらい歩いたのか見当もつかぬほど歩いて行くと、急に視界が開け、明るいところに出たのである。思わす見渡すと、そこはこの世と思えぬ別世界のようで、見たこともない美しい色をした花が咲き乱れていて、さっきの牛がその花を喰っているではないか。その様子を見て思わずそそられた僧侶は、試しに花を一房ちぎって口に入れると、それはとびきりの味で、あの不老長寿の甘露というものを思い出させるようないままで口にしたこともない味だったので、僧侶は喰うのが止まらなくなり、ふと我に返ると、身体がぶよぶよに肥ってしまっていた。僧侶はそんな風になってしまった自分の姿が訳が分からず恐ろしくなって、さっきの穴のところに戻ると、来た時は問題なく通り抜けることが出来た穴が、肥ったせいでぎゅうぎゅうになってうまく進まず、それでもどうにか穴の出口まで頭を出すことが出来たのであるが、それから身体はにっちもさっちもいかなくなり、息が苦しくて青ざめ、油汗が滴り、やって来た人に向かって「助けてくれ」と叫んでも、誰もこちらを振り返ってくれない。わたしの姿が見えないのであろうか、理解が出来ない。僧侶はそれから何日かして、遂に死んでしまう。後には穴から頭を出したままの姿で石になってしまったということである。玄奘三蔵が天竺にお渡りになられた時の日記に、この話が記されております。仏教を教える「十牛図」というものがある。その第一は「尋牛」、牛を尋ねるである。第二は牛の足跡に気づき、第三で牛を見つけ、第四で牛を手に入れ、第五で牛を牧に放ち、第六で牛に乗って家に帰り、第七で牛を掴まえたことを忘れ、第八で牛を掴まえようとしたことも、その牛そのものも忘れ、第九で「返本還源」、何もなくなったまっさらなところからはじめてありのままの世が見え、第十で第九の悟りから世に戻って悟りを導く存在となる。これが「十牛図」の教えである。牛は、「一切衆生悉有仏性」の「仏性」を表しているという。物見遊山で天竺に行った僧侶が見た牛が「仏性」であるとするならば、僧侶は僧侶として求めるべき「仏性」から美しい花に目先が移り、その花を喰ったことで石にされてしまったのである。井伏鱒二の小説「山椒魚」は、岩屋の穴に入って二年過ごすうちに、成長した己(おの)れの身体がその穴の口につかえ、外に出ることが出来なくなってしまう話である。ある日岩屋の上の小さな窓から入り込んだ蛙を、山椒魚は閉じ込める。絶望と孤独にあった山椒魚は、そのような心が働いたのである。小説の後半は閉じ込めた者と閉じ込められた者が交わす話になり、結末の近くにこのような一文が置かれている。「更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。けれど彼等は、今年の夏はお互い黙り込んで、そしてお互いに自分の嘆息が相手に聞こえないように注意してゐたのである。」井伏鱒二は生前に出した自選全集の「山椒魚」では、この一文を以て小説を終了させ、この先にあった結末までの文章を削除している。それまで親しんだ、削除された結末の文章はこうである。「ところが山椒魚よりも先に岩の窪みの相手は、不注意にも深い嘆息をもらしてしまつた。それは「あゝあゝ」という最も小さな風の音であつた。去年と同じくしきりに杉苔の花粉の散る光景が、彼の嘆息を教唆(きょうさ)したのである。山椒魚がこれを聞きのがす道理はなかつた。彼は上の方を見上げ、且つ友情を瞳にこめてたづねた。「お前は、さつき大きな息をしたらう?」相手は自分を鞭撻て答へた。「それがどうした?」「そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい。」「空腹で動けない。」「それでは、もう駄目なやうか?」相手は答へた。「もう駄目なやうだ。」よほど暫くしてから山椒魚はたづねた。「お前は今どういふことを考へてゐるやうなのだらうか?」相手は極めて遠慮がちに答へた。「今でもべつにお前のことをおこつてはゐないんだ。」」晩年の井伏鱒二は、若い時に書いた「山椒魚」のこのやり取りを「甘い」と思ったのである。この「山椒魚」に比べ、「渡天の僧、穴に入る事」の僧侶はただただ非情である。「仏性」である牛は、僧侶を救うというようなことをしない。仏は同じ口から慈悲浄土と破戒地獄を教えるからである。七月下旬に入った京都は、二年振りに建った祇園会前祭の山鉾が解体され、後祭の山鉾が建った。が、町を曳き歩く巡行はない。宵山で聞こえて来る占出山(うらでやま)の「安産のお守りはこれより出ます。常は出ません、今晩限り。ご信心のおん方は、受けてお帰りなされませ。お蝋燭一丁、献じられましょう。」と唄う子どもらの声は、今年もない。
「こわし屋が来て、建物がなくなった地面に、白い、つるつるした陶製の便器がむきだしになったまま長いあいだ投げだされていた。高木タマは、この便器に跨ったまま、いのちを落としたらしい。脳溢血であった。そのあたりにペンペン草が生えて、風に揺れ動いていたころ、どこからともなく、主人は町工場の経営者で、若い女とできたためにタマと別れたのだという噂が流れて来たりした。」(「接木の台」和田芳恵『昭和文学全集 14』小学館1988年)