うへわらは大童子にも劣りたり祇園の御会を待つばかりなり。上童(貴人に仕える少年)の態度は大童子(寺に仕える男)より劣っているまるで祇園会の行列を心待ちにしている心境だ、とこの歌だけを抜き書きしても歌の「意味するところ」は伝わらず不明のままである。「これも今は昔、青蓮院の座主のもとへ、七宮(鳥羽天皇第七皇子覚快法親王)わたらせ給ひたりければ、御つれづれ慰め参らせんとて、若き僧綱(そうがう、高位の僧)、有職(いうそく、已講・内供・阿闍梨)など、庚申(かうしん、その夜に眠ると体から虫が出てその者の罪を天帝に訴え命が縮まる)して遊びけるに、上童のいと憎さげなるが、瓶子(へいし、酒をつぐ道具)取りなどしてありきけるを、ある僧忍びやかに、うへわらは大童子にも劣りたり、と連歌にしたりけるを、人々しばし案ずるほどに、仲胤僧都、その座にありけるが、「やや、胤、早う付きたり」と言ひければ、若き僧たち、「いかに」と、顔をまもりあひ侍りけるに、仲胤、祇園の御会を待つばかりなり、と付きたりけり。これを、おのおの「この連歌はいかに付きたるぞ」と、忍びやかに言ひあひけるを、仲胤聞きて、「やや、わたう、連歌だに付かぬと付きたるぞかし」と言ひたりければ、これを聞き伝へたる者ども、一度に、はつと、とよみ笑ひけりとか。」(『宇治拾遺物語』巻第十四の八「仲胤僧都連歌の事」)昔、青蓮院の座主のところに弟子の七宮様がおいでになられた時退屈なさらぬようお慰めしてさしあげようと若い僧綱や有職たちが庚申待ちをして一晩中遊び事に興じていたのであるが、七宮様に従って仕えていた上童が憎たらし態度で酌をして回るのを見て、ひとりの僧が「うへわらは大童子にも(器量が)劣りたり」と連歌の上句のように詠み、ほかの者らがその付句をなかなか詠めないでいると、その座にいた仲胤僧都が、「ほら、わたくしはもう付けました」と云ったので若い僧たちが、「ほんとうか」と思って顔を見合わせ見守っていると、仲胤は、「祇園の御会を待つばかりなり」と詠んだのである。これを聞いた者らは何のことかさっぱり分からず、「この歌の上句と下句はどういう意味でつながっているのか」とひそひそ話しているのを仲胤が耳にすると、「いやいや、みなのもの、わたしはこんな上句ではいつまでたっても付け句など出来っこないと思いまるでいつまで待っても来ない祇園会の行列を待っているみたいだと口に出しただけで付け句でもなんでもない」と云うと、これを聞いた者が隣りに伝え、話がまたその隣りに伝わり皆の耳に伝わると一度にどっと笑いが起ったということだ。この平安の終りの時期の僧都がたとえに使うほどすでに祇園会の行列は「待つほどに」やって来ないものであったのである。

 「又二軒の茶屋が、コカ・コーラの赤い梵字や土産物を滿載して、賣場の棚をせり出してゐる外れに、顔のところだけ穴をあけた記念撮影用の繪看板が立つてゐた。色褪せた泥繪具が風情を添へたその繪柄は、松を背にして立つてゐる清水の次郎長とお蝶である。」(「天人五衰三島由紀夫豊饒の海』新潮社1971年)

 「【震災、原発事故13年】所有者不明の墓石423点順次処分 福島県双葉町中野共同墓地 関係者ら供養」(令和6年7月17日 福島民報

 前祭山鉾巡行、新町御池。