押入の奥にさす日や冬隣 草間時彦。映画監督小津安二郎は、普段の日常を芸術にしたといわれている。最早一日の日は短く、低く空を巡っている日の光がたまたま開けた押入の中に射し、その不意打ちのような光に思わず戸を持つ手が止まり、寸前まで押入を開けてしようとしていたこと、ではない、頭に浮かんだ取り留めのないことに思いが摑まるという、よくあることがよくあることとして懐かしく、その懐かしさはもしかすると己(おの)れの父母もあるいはそのまた父母も感じた懐かしさかも知れず、見知らぬ誰でもが思う懐かしさかも知れず、冬隣という言葉は、その一瞬の懐かしさを永遠の一瞬として云い止めている。僧の夢僧を離るる冬隣 廣瀬直人。この句は頭の中で作っている。僧であっても夢を見る。その夢は煩悩のことかも知れず、煩悩が無くなれば悟るということであり理に落ちた、理の勝った句である。冬隣夜に入りて雨谷を埋め 角川源義。冬隣は押入の奥にだけあるのではく、山にもある。葉を落とした冬山に射していた日は西に去って、夜に冷たい雨が降り出せば最早冬の寒さから逃れることは出来ず、山に住む者はその覚悟をしなければならない。金閣寺の参道からそのまま西大路通を東に渡れば、目の前が鞍馬口通で、この通りに沿って賀茂川まで来ると、出雲路橋に出る。この橋の名は、橋の西詰の出雲路の地名から来ていて、出雲路松ノ木町、出雲路立テ本町、出雲路俵町、出雲路神楽町の四町が川沿いの賀茂街道に並んでいる。この地名を目にした者は、あの山陰の出雲地方と関係があり、恐らくはその出雲の国からやって来た者らが移り住んでいたのだろうと思いを巡らす。情緒的に思いを巡らせば、その者らは故郷を捨てる理由があってやって来たのだろうと。『続日本紀』の大宝二年(701)にこういう記述がある。「八月丙申(一日)、薩摩、多褹(たね)、化(おもふけ、天皇の徳)を隔てて命(おほせ)に逆ふ、是(ここ)に兵(いくさ)を発(おこ)して征討し、遂に戸を校(しら)べ吏を置く。出雲狛に従五位下を授く。」「九月乙酉(二十一日)、従五位下出雲狛に臣の姓を賜ふ。」この出雲狛は、壬申の乱で大海人皇子(第四十代天武天皇)側にあって功名を成した武将であったという。弘仁六年(815)、嵯峨天皇の命で編纂した京と畿内に住む者の名鑑『新撰姓氏録』に、次の五名の出雲臣の名が載っている。「左京、出雲宿禰、神別(神武天皇より以前)、天穂日命(あめのほひのみこと)子、天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)の後。左京、出雲、神別、天穂日命五世孫、久志和都命(くしわつのみこと)の後。右京、出雲臣、神別、天穂日命十二世孫、鵜濡渟命(うかつくぬのみこと)の後。山城国、出雲臣、神別、天穂日命神子、天日名鳥命(あめのひなどりのみこと)の後。山城国、出雲臣、神別、天穂日命の後。河内国、出雲臣、神別、天穂日命十二世孫、宇賀都久野命(うかつくぬのみこと)の後。」この内の山城国の出雲臣は、直接に従五位下の出雲臣と繋がりがあると思われている。奈良正倉院に神亀三年(720)の「山背国(山城国)愛宕(おたぎ)郡出雲郷計帳」という郷民に課した税の台帳が残っている。「正六位下出雲臣大嶋、従八位下勲十二等出雲臣真足、出雲臣麻呂、出雲臣山村、出雲臣安麻呂、出雲臣忍人、出雲臣嶋麻呂、出雲臣沙美麻呂、出雲臣深嶋、出雲臣古麻呂、出雲臣冠、出雲臣阿多、出雲臣千依、出雲臣吉事━━。」この者らが『新撰姓氏録』に載る、都が平安京に遷(うつ)る前に山背国に住んでいた出雲一族であり、その一部は官職に就いていて、高麗人を表わす狛の名を持っていた従五位下出雲臣と同じように、軍役で功のあった者らであるといわれている。愛宕郡出雲郷には、雲上里と雲下里の二つの里があり、雲上里に出雲寺という大寺があった。が、平安の後期にはその荒廃していた様子が『宇治拾遺物語』に記されている。「今は昔、王城の北、上つ出雲寺といふ寺、たててより後、年久しくなりて、御堂も傾きて、はかばかしう修理する人もなし。この近う、別當侍(はべり)き。その名をば、上覺となんいひける。これぞ前(さき)の別當の子に侍(はべり)ける。あひつぎつゝ、妻子もたる法師ぞしり侍(はべり)ける。いよいよ寺はこぼれて、荒れ侍(はべり)ける。さるは、傳教大師のもろこしにて、天(台)宗たてん所をえらび給(たまひ)けるに、此寺の所をば、繪にかきてつかはしける。「高雄、比叡山、かむつ寺(上津出雲寺)と、三の中にいづれかよかるべき」とあれば、「此寺の地は、人にすぐれてめでたけれど、僧なんらうがはし(乱りがわしい)かるべき」とありければ、それによりて、とゞめたる所なり。いとやんごとなき所(重要な場所)なれど、いかなるにか、さなり果て、わろく侍(はべる)なり。それに、上覺が夢にみるやう、我父の前別當、いみじう老て、杖つきて、いできて云やう、「あさて未時(ひつじのとき)に、大風吹て、この寺倒れなんとす。しかるに、我、この寺のかはらの下に、三尺の鯰にてなん、行方なく、水もすくなく、せばく暗き所に有て、淺ましう苦しき目をなんみる。寺倒れば、こぼれて庭にはひありかば、童部打殺してんとす。其時、汝が前にゆかんとす。童部に打せずして、賀茂川に放ちてよ。さらばひろきめもみん。大水に行て頼もしくなんあるべき」といふ。夢さめて、「かゝる夢をこそみつれ」と語れば、「いかなることにか」といひて、日暮ぬ。その日になりて、午(うま)のときの末より、俄(にわか)に空かきくもりて、木を折り、家を破風いできぬ。人々あはてゝ、家共つくろひさはげども、風いよいよ吹增りて、村里の家どもみな吹倒し、野山の竹木倒れ折れぬ。此寺、誠に未時(ひつじのとき)斗(ばかり)に、吹倒されぬ。柱折れ、棟くづれ、ずちなし(どうすることもできない)。さる程に、うら板の中に、とし比(ごろ)の雨水たまりけるに、大なる魚共おほかり。其わたりの者ども、桶をさげて、みなかき入れさはぐほどに、三尺ばかりなる鯰の、ふたふたとして庭にはひ出たり。夢のごとく、上覺がまへに來ぬるを、上覺思ひもあへず、魚の大にたのしげなるにふけりて(肥えて旨そうな様子に夢中になって)、かな杖の大なるをもちて、頭につきたてて、我(わが)太郎童部をよびて、「これ」といひければ、魚大にてうちとられねば、草苅鎌といふものをもちて、あぎとをかききりて、物につゝませて、家にもて入ぬ。さて、こと魚などしたゝめて、桶に入て、女どもにいたゞかせて、我(われ)坊にかへりたれば、妻の女、「この鯰は夢にみえける魚にこそあめれ。なにしに殺し給へるぞ」と、心うがれど、「こと童部の殺さましもおなじこと。あへなん、我は」などといひて、「こと人まぜず、太郎、次郎童など食たらんをぞ、故御房はうれしとおぼさん」とて、つぶつぶときり入て、煮て食て、「あやしう、いかなるにか。こと鯰よりもあぢはひのよきは、故御房の肉(ししむら)なれば、よきなめり。これが汁すゝれ」など、あひして(美味しがって)食ける程に、大なる骨喉にたてゝ、えうえう(げぇげぇ)といひける程に、とみに出ざりければ、苦痛して、遂に死侍(はべ)り。妻はゆゝしがりて(気味悪く思い)、鯰をば食はずなりにけりとなん。」(巻十三ノ八「出雲寺の別當、父の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事」)昔、宮城の北に上出雲寺という寺があり、年数が経ち、御堂なども修理されないまま傾いていたが、父親から別当を引き継いだ上覺という妻子持ちの代になって、寺はますます荒れ果てていた。この寺は伝教大師最澄が、唐から帰った後布教の場を定めようとした場所の一つでもあったが、僧の規律を乱すに違いないとして止めた貴重な寺であった。上覺は昼寝をしていて父親の夢を見た。あさっての午後二時大風が吹いて寺が倒れ、閉じ込められていた瓦の下から鯰となった私が出て来るので、子どもに殺される前に賀茂川に放してくれ。その日が来て、夢の通りに大風が吹き荒れ、辺りの家も野山の木も倒され、手の打ちようもなく御堂が倒れ、屋根裏の板に溜まっていた水の中から大魚が何匹も出て来て、その中に紛れて夢で父親が云った通りに三尺の大鯰が現れた。上覚は鉄の杖を鯰に突き立て、長男に草刈り鎌を持って来させて鰓を切って包んで家に持ち帰り、妻に、その鯰はお父様の生まれ変わりではないか、なせ殺したのですか、と咎められたが、どこかの子どもに殺されても私が殺しても同じことだ、息子二人にだけ食わせれば父親も喜ぶのではないか、と応え、煮て口に入れると、父親の肉だからこんなにも旨いにちがいないと云っているうちに骨が喉に刺さり、苦しそうにのたうち回って死んでしまった。それから、上覺の妻は鯰を気味悪がって二度と口にしなかったということである。出雲寺は、鯰となった父親を食うような坊主がいたから荒廃したのではない。「山背国愛宕郡出雲郷計帳」に載っている出雲臣真足は、四十一名の大家族である。が、その内の十一名が筑紫に、一名が近江に、一名が行方不明の逃亡をし、九名の奴婢の内の七名が行方不明の逃亡と記されている。大勢力となった出雲一族は、外部の異姓の者との婚姻関係がほとんどなかったといわれている。が、二方を、平安京との結びつきを強める賀茂一族と秦一族に囲まれていた。承和十一年(844)、上賀茂と下賀茂の大神宮を結ぶ賀茂川沿いを禁護する徭丁(労役人)の差発を命じられた愛宕郡司は太政官に、「郡中の徭丁数少なく、差宛つる人無し」と応えている。この時出雲郷の出雲一族は、最早そのどの一家にも労役に出せる者がいなかったのである。それぞれの家族が縮小してゆき、田の耕し手の埋め合わせをしていた奴婢までもが天平十五年(743)の墾田永年私財法の発布からますます流動化し、官職という地位も一族を増やすことにはならず、信仰の手を合わせ続けた出雲寺までもが傾くほど、遥か山陰出雲からやって来た出雲一族はその勢力を失っていくのである。出雲路橋にあったガソリンスタンドが潰れていた。敷地を金網のフェンスで囲まれ、セメントの地面の隙間のところどころに枯れ草か立っている。シャッターを下ろした店とは違う、殺伐とした独特の無慚な光景である。一年前には、事務所の前に突き出た屋根があるだけのがらんとしたこの隅に、ボロ布を持った従業員が前の賀茂川を見ながら立っていた。名も知らぬここにいた者らは皆、どこかに散り散りになってしまったのである。冬隣は、潰れたガソリンスタンドに当たる日射しにもあった。衰えをとどめることが出来なかった出雲一族の住む出入りの戸口に射す日にも、冬隣はあった。出雲郷から逃亡した奴婢の頬に当たる日射しにも、冬隣はあった。
「幾月かして、私は山鳩が二羽で飛んでいるのを見た。山鳩も遂にいい対手を見つけ、再婚したのだと思い、これはいい事だったと喜んだ。ところが、そうではなく、二羽のが他所から来て、住みつき、前からの一羽は相変わらず一羽で飛んでいた。この状態は今も続いている。」(「山鳩」志賀直哉『志賀直哉短篇集』岩波書店1989年)
「県外避難者2万9307人 前回調査比52人減、福島県が発表」(令和2年12月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)