嵯峨小倉山の山裾に細長い姿の小倉池がある。東側の縁(ふち)を辿って南へ上がれば大河内山荘で、北に歩を進めれば常寂光寺の門前に出る。朝日が昇れば西の縁の小倉山を目指して光が射し込み、その日が中天を過ぎれば忽ちに陰って静まり返り、辺りの竹林が風に戦(そよ)いだりすれば不気味さを漂わせる池である。池の水の上一面をゆらゆら揺れる葉で覆った蓮が、いま白や桃色の花を咲かせている。蜻蛉をしづかにどけて蓮ひらく 金尾梅の門。朝日に照らされた蕾が開こうと微かに動いた瞬間、止まっていた蜻蛉がサッと飛んで行った。「どけて」という云いからは、蓮の花の大きさと高貴さのようなものが伝わって来る。が、極楽浄土の阿弥陀仏が池の縁から腕を伸ばし、開き始めた花弁(はなびら)に止まっていた蜻蛉を払ったのかもしれない。黄金の蓮(はちす)へ帰る野球かな 攝津幸彦攝津幸彦の句はどれも縄一筋で捉えることは出来ない。「黄金の蓮」は仏像の前に供えられた造花の蓮であろうか。その造花の蓮が活けてあるところへ「野球」が帰るとはどういうことか。確かに野球は、打者が球を打って本塁に還って来ることを目標にしている。が、本塁への生還は黄金の蓮が咲く極楽浄土にでも着いたような気分であるなどと生真面目に解釈をする必要はない。攝津幸彦の詠む句は、言葉のおかし気で馬鹿々々しい気分そのものの面白さであるのであるからである。小倉池の山裾の畔に御髪神社(みかみじんじゃ)という小さな社が建っている。昭和三十六年(1961)に理髪学校の教員だった児玉林三郎という者が建てたものであるという。ソ連ガガーリンボストーク1号に乗り込んで初めて地球を一周した年である。御髪神社が祀っているのは藤原采女亮政之(ふじわらのうねめのすけまさゆき)という髪結いである。第九十代亀山天皇の警護をしていた政之の父藤原基晴が宝刀「九王丸」を盗まれ、恐らくはそのことで失職し、基晴政之父子はその盗まれた刀探しの旅に出る。蒙古襲来に備えるために人が集まっていたという下関に父子は目星をつけ、政之は生活を助けるため新羅人から髪の結い方を習って下関で商売を始める。これが髪結いという職業の始まりであるという。後に政之は髪結い職人として鎌倉幕府に仕え、没後に従五位が贈られる。それで、基晴政之父子は肝心の「九王丸」を見つけることが出来たのか。これは見つかったとも見つからなかったともされている。が、後々世間に知れ渡ったことは、刀を見つけた父子の美談ではなく政之の髪結いの腕前である。政之は刀が見つからなくとも、己(おの)れの腕で飯が喰えるようになった。目的地、生きる場所は同じでも目的、生き方が変わったのである。平凡な蓮へ帰る野球かな。

 「眠れぬままに、私はここへ来て最初に腰を降ろしたときの眺望の印象を思ひ起さうとつとめてみた。しかし、もうそれは、それから後に移動した様々な地点の押し重なつて来る眺望の底に沈み込んで、搔き分けても搔き分けても、ふと掴んだと思ふ間に早や逸脱してしまつて停止をしない。私はもうここへ来てから長年暮しつづけて来たのと同様である。しかし、この忘却を払ひのけようとする努力は、私にとつてはこの山上の最初の貴重な印象に対する感謝であつた。」(「榛名」横光利一『筑摩現代文学大系 31 横光利一集』筑摩書房1976年)

 「心の不調リスク高く 県民健康調査、旧避難区域は全国上回る」(令和3年7月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 また『宇治拾遺物語』に「渡天の僧、穴に入る事」という話がある。「今は昔、唐(もろこし)にありける僧の、天竺に渡りて、他事にあらず、ただもののゆかしければ、物見にしありきければ、所々見行きけり。ある片山に、大きなる穴あり。牛のありけるが、この穴に入りけるを見て、ゆかしく覚えければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。はるかに行きて、明き所へ出でぬ。見まはせば、あらぬ世界と覚えて、見も知らぬ花の色いみじきが、咲き乱れたり。牛、この花を喰ひけり。試みにこの花を一房取りて喰ひたりければ、うまきこと、天の甘露もかくやあらんと覚えて、めでたかりけるままに、多く喰ひたりければ、ただ肥えに肥え太りけり。心得ず、恐ろしく思ひて、ありつる穴の方へ帰り行くに、はじめはやすく通りつる穴、身の太くなりて、狭く覚えて、やうやうとして、穴の口までは出でたれども、え出でずして、堪へがたきこと限りなし。前を通る人に、「これ助けよ」と、呼ばはりけれど、耳に聞き入るる人もなし。助くる人もなかりけり。人の目にも、何と見えけるやらん。不思議なり。日ごろ重なりて死にぬ。のちは、石になりて、穴の口に頭をさし出したるやうにてなんありける。玄奘三蔵(げんじやうさんざう)、天竺に渡り給ひたりける日記に、このよし記されたり。」その昔、唐という国のひとりの僧侶が、天竺に渡り、仏修行のようなことではなく、天竺というところがどんなところであるのか知りたいと思って、とにかくあちこち歩き回っていろいろなものを見物したのだという。この僧侶、山の一方に大きな穴があいているのを目にして足を止めた。なんとその穴に牛が一頭入って行くではないか。これを見た僧侶は居ても立っても居られず、牛の後に従って穴の中に入って行った。どれくらい歩いたのか見当もつかぬほど歩いて行くと、急に視界が開け、明るいところに出たのである。思わす見渡すと、そこはこの世と思えぬ別世界のようで、見たこともない美しい色をした花が咲き乱れていて、さっきの牛がその花を喰っているではないか。その様子を見て思わずそそられた僧侶は、試しに花を一房ちぎって口に入れると、それはとびきりの味で、あの不老長寿の甘露というものを思い出させるようないままで口にしたこともない味だったので、僧侶は喰うのが止まらなくなり、ふと我に返ると、身体がぶよぶよに肥ってしまっていた。僧侶はそんな風になってしまった自分の姿が訳が分からず恐ろしくなって、さっきの穴のところに戻ると、来た時は問題なく通り抜けることが出来た穴が、肥ったせいでぎゅうぎゅうになってうまく進まず、それでもどうにか穴の出口まで頭を出すことが出来たのであるが、それから身体はにっちもさっちもいかなくなり、息が苦しくて青ざめ、油汗が滴り、やって来た人に向かって「助けてくれ」と叫んでも、誰もこちらを振り返ってくれない。わたしの姿が見えないのであろうか、理解が出来ない。僧侶はそれから何日かして、遂に死んでしまう。後には穴から頭を出したままの姿で石になってしまったということである。玄奘三蔵が天竺にお渡りになられた時の日記に、この話が記されております。仏教を教える「十牛図」というものがある。その第一は「尋牛」、牛を尋ねるである。第二は牛の足跡に気づき、第三で牛を見つけ、第四で牛を手に入れ、第五で牛を牧に放ち、第六で牛に乗って家に帰り、第七で牛を掴まえたことを忘れ、第八で牛を掴まえようとしたことも、その牛そのものも忘れ、第九で「返本還源」、何もなくなったまっさらなところからはじめてありのままの世が見え、第十で第九の悟りから世に戻って悟りを導く存在となる。これが「十牛図」の教えである。牛は、「一切衆生悉有仏性」の「仏性」を表しているという。物見遊山で天竺に行った僧侶が見た牛が「仏性」であるとするならば、僧侶は僧侶として求めるべき「仏性」から美しい花に目先が移り、その花を喰ったことで石にされてしまったのである。井伏鱒二の小説「山椒魚」は、岩屋の穴に入って二年過ごすうちに、成長した己(おの)れの身体がその穴の口につかえ、外に出ることが出来なくなってしまう話である。ある日岩屋の上の小さな窓から入り込んだ蛙を、山椒魚は閉じ込める。絶望と孤独にあった山椒魚は、そのような心が働いたのである。小説の後半は閉じ込めた者と閉じ込められた者が交わす話になり、結末の近くにこのような一文が置かれている。「更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。けれど彼等は、今年の夏はお互い黙り込んで、そしてお互いに自分の嘆息が相手に聞こえないように注意してゐたのである。」井伏鱒二は生前に出した自選全集の「山椒魚」では、この一文を以て小説を終了させ、この先にあった結末までの文章を削除している。それまで親しんだ、削除された結末の文章はこうである。「ところが山椒魚よりも先に岩の窪みの相手は、不注意にも深い嘆息をもらしてしまつた。それは「あゝあゝ」という最も小さな風の音であつた。去年と同じくしきりに杉苔の花粉の散る光景が、彼の嘆息を教唆(きょうさ)したのである。山椒魚がこれを聞きのがす道理はなかつた。彼は上の方を見上げ、且つ友情を瞳にこめてたづねた。「お前は、さつき大きな息をしたらう?」相手は自分を鞭撻て答へた。「それがどうした?」「そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい。」「空腹で動けない。」「それでは、もう駄目なやうか?」相手は答へた。「もう駄目なやうだ。」よほど暫くしてから山椒魚はたづねた。「お前は今どういふことを考へてゐるやうなのだらうか?」相手は極めて遠慮がちに答へた。「今でもべつにお前のことをおこつてはゐないんだ。」」晩年の井伏鱒二は、若い時に書いた「山椒魚」のこのやり取りを「甘い」と思ったのである。この「山椒魚」に比べ、「渡天の僧、穴に入る事」の僧侶はただただ非情である。「仏性」である牛は、僧侶を救うというようなことをしない。仏は同じ口から慈悲浄土と破戒地獄を教えるからである。七月下旬に入った京都は、二年振りに建った祇園会前祭の山鉾が解体され、後祭の山鉾が建った。が、町を曳き歩く巡行はない。宵山で聞こえて来る占出山(うらでやま)の「安産のお守りはこれより出ます。常は出ません、今晩限り。ご信心のおん方は、受けてお帰りなされませ。お蝋燭一丁、献じられましょう。」と唄う子どもらの声は、今年もない。

 「こわし屋が来て、建物がなくなった地面に、白い、つるつるした陶製の便器がむきだしになったまま長いあいだ投げだされていた。高木タマは、この便器に跨ったまま、いのちを落としたらしい。脳溢血であった。そのあたりにペンペン草が生えて、風に揺れ動いていたころ、どこからともなく、主人は町工場の経営者で、若い女とできたためにタマと別れたのだという噂が流れて来たりした。」(「接木の台」和田芳恵『昭和文学全集 14』小学館1988年)

 「福島県産品「安全です」 東京五輪契機に風評崩す」(令和3年7月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 信心のある親が幼な子を仏壇の前に座らせ、「まんまんちゃん、して」と云う。神社の鳥居を潜って、「まんまんちゃん、あん」と我が子を促す。道端でも手を合わせ、「あん、して」と拝むものを教えられる。幼な子が自分からそうし始めれば、「まんまんちゃん、あん」の出番はなくなる。その時を境に、「まんまんちゃ、あん」は親の口からも幼な子の耳からも消えてなくなる言葉である。『宇治拾遺物語』に「日蔵上人、吉野山にて鬼に逢ふ事」という話がある。「昔、吉野山の日蔵の君、吉野の奥に、行ひありき給ひけるに、長(たけ)七尺ばかりの鬼、身の色は紺青の色にて、髪は火のごとくに赤く、首細く、胸骨はことにさし出でて、いらめき、腹ふくれて、脛はほそくありけるが、この行ひ人にあひて、手をつかねて、泣くこと限りなし。「これは何事する鬼ぞ」と問へば、この鬼、涙にむせびながら申すやう、「われは、この四五百年を過ぎての昔人にて候ひしが、人のために恨みを残して、今はかかる鬼の身となりて候ふ。さて、その敵(かたき)をば、思ひのごとくに、取り殺してき。それが子・孫・曾孫・玄孫にいたるまで、残りなく殺し果てて、今は殺すべき者なくなりぬ。されば、なほかれらが生れ変りまかるのちまでも知りて、取り殺さんと思ひ候ふに、つぎつぎの生れ所、つゆも知らねば、取り殺すべきやうなし。瞋恚(しんい)の炎は、同じやうに燃ゆれども、敵の子孫は絶え果てたり。ただわれ一人、尽きせぬ瞋恚の炎に燃えこがれて、せん方なき苦をのみ受け侍り。かかる心をおこさざらましかば、極楽天上にも生れなまし。ことに恨みをとどめて、かかる身となりて、無量億劫の苦を受けんとすることの、せん方なく悲しく候ふ。人のために恨みを残すは、しかしながら、わが身のためにてこそありけれ。敵の子孫は尽き果てぬ。わが命はきはまりもなし。かねて、このやうを知らましかば、かかる恨みをば、残さざらまし」と言ひ続けて、涙を流して、泣くこと限りなし。そのあひだに、頭(かうべ)より、炎やうやう燃え出でけり。さて、山の奥ざまへ歩み入りけり。さて、日蔵の君、あはれと思ひて、それがために、さまざまの罪滅ぶべきことどもをし給ひけるとぞ。」その昔、幼い時から奈良の吉野山で幾つもの修行を積んで回っていらっしゃった日蔵上人が、ある日山奥で、身の丈が二メートル以上もある紺青(あお)鬼に出喰わしました。鬼は火のような真っ赤な髪で、首はひょろ長く、胸骨が飛び出るように硬く浮き出し、両の脛も細っているのに腹だけは膨らんでいて、この上人に逢った途端に、両手を擦り合わせながらわあわあと泣き出したのです。「鬼のくせに何でそのように涙を流して泣くのだ。」と上人が問い質すと、鬼は泣き止まずしゃくり上げながらこのように申したのです。「わたしは生まれた時は人の姿をしておりましたが、あることで人を恨んで四百年五百年その者を恨み続け、御覧の通りの鬼の姿になってしまいました。ことのはじまりはこうです。わたしはその相手を、恨みにまかせ、自分の手で殺してしまったのです。それからその者の子も孫も曾孫も玄孫までも血の繋がった者は全員殺し、ついに殺すべき者はいなくなりました。一旦はそう思いました。が、わたしの恨みはやつらの生まれ変わりの先のその果てまでも見つけ出し、一人残らず殺さなければ収まらなかったのです。そう思っていたのですが、その先の先の転生を突き止めることが出来なければそもそも殺すことなど出来るわけがありません。いまも消えないあの者に対する憎悪の炎で、わたしはこの世で生きていたあの者の子孫までをも絶え果てさせてしまったのです。そうしてわたし一人が生き残り、尽きない憎悪の炎を消すすべもなく燃え上がらせては、どうすることも出来ない苦しみだけを味わっております。あのような気持ちを起こさなかったなら、天の浄土に生まれ変わることも出来たでしょうに。人一倍恨みを溜めてこのような鬼の姿になり果て、気の遠くなるような苦しみを受け続けなければならないことが、どうしよもなく悲しくてなりません。人交わりがもとである者を恨み続ければ続けるほど、自分の身に跳ね返って来るということだったんです。恨んだ敵の子孫はわたしのせいで尽き果ててしまいましたが、わたしの苦しむだけの命は果てしないのです。はじめからこうなることを知っていたならば、あんなに恨み続けることはしなかったのに。」鬼はこう云って涙を流しながらいつまでも泣き続け、やがて頭から火が燃え出し、炎に包まれながら山の奥に帰って行った。日蔵上人は非常に心打たれ、鬼が負った罪を滅ぼす様々な祈禱を施されたということである。「かねて、このやうを知らましかば、かかる恨みをば、残さざらまし。」無知のせいでこのような苦しみを味わうことになってしまった、と鬼は思っている。これは誠実な改心の情ではない。が、永遠に続くであろうその鬼の苦しみを、日蔵上人は憐れんだ。それ故(ゆえ)に、日蔵上人は呪法を使って鬼の身体を燃やしたのである。ひとりの幼な子の前に、日蔵上人の絵と青鬼の絵がある。どこからか、「まんまんちゃん、あん、するんやで」という声が聞こえて来る。幼な子は夢中で手を合わせる。上人様に「まんまんちゃん、あん」、青鬼にも「まんまんちゃん、あん」。

 「ある日、おれは森へ行った。迷ってやろうと固く決意して行ったんだ。木々のあいだで道に迷ってしまったと感じる楽しみがある。おれは歩いていった。木の枝の音、鳥たちの歌だけを耳にする幸福に浸りながら。日が落ちると道に迷ったが、本当に、決定的に迷ってしまった。」(『不在者の祈り』タハール・ベン・ジェルーン 石川清子訳 国書刊行会1988年)

 「「突然奪われた日常」展示 富岡に震災アーカイブ施設開館」(令和3年7月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 西ノ京御輿ヶ岡町の北野神社御旅所にテントが張られ、網で覆った内のテーブルの上に梅が整然と干されていた。これは一度塩漬けされた梅で、今月、七月の下旬に再び北野天満宮の本殿前で天日干しされ、年末に近づく頃御守りと一緒に授与品として巫女の前に並べられる。小遣銭の可愛さ梅干すにほひあり 中村草田男。この小遣銭を握っているのは、銭の意味を知ったばかりのような幼い子どもで、その姿を可愛いと思っているのは父親の草田男である。いま二人がいるのは家の庭先で、日向に干した梅が辺りに匂っている。これは草田男が目にした実景、日常の一コマであろう。この実景であるという以上に、小遣銭と干した梅の匂いとの間に意味は恐らくない。が、「梅干すにほひあり」に意味があるものとして、いまはまだその匂いは漂っているだけで、いずれ幼な子は世間の「酸(す)い」を知ることになる、とするのは下手な解釈である。が、子どもを甘やかす父親に梅を干す母親が目を光らせている、とでもすれば下手な解釈にも別の色がつく。梅干しを己(おの)れで漬ける者もいれば、そうしない者もいる。そうしない者の内でもかつてはそうしていた者もいれば、一度もそうしたことのない者もいる。そうしたことを一度もしたことがなくても、それを見たことがある者もいる。草田男の句の幼な子は、梅を干すのを傍らで見ていた者である。ある日、家にひとりで留守番役でいる。庭先に新聞を敷いた笊に梅が干してあった。留守番役は、外の空模様を絶えず気に掛けていなければならなかった。そこに緩い坂を上って子どもを連れた乞食と思しき男がやって来る。乞食は開いていた玄関先で迎え出た留守番役に、誰かいないですかと通る声で云った。留守番役は誰もいないと応えるしかなかった。乞食はじろりと家の奥に目を遣ってから、黙って後ろを向くと子どもの手を取って来た道を戻って行った。それから間もなく空が陰って嫌な風が吹き始め、大粒の雨がぽつぽつ降って来た。留守番役は急いで干してあった笊の梅を家の中に取り込んだ。その時乞食の父子のことを思ったのは自然な心の動きである。取り込んだ梅は廊下で匂い、仏間にも匂いが漂っていた。それから留守番役は考えた、乞食が来たことを親に云うべきかどうか。云われれば親は留守番役に、何かを応えなければならない。居たら米を遣ったのに、あるいは、何も施すことはない、と親の考えは食い違うかもしれない。黙っていればそもそもそのような食い違いが目の前で起こることはない。留守番役は親が帰って来ると、俄雨が降ったことだけを伝えたのである。

 「さらにくだると、オオカミたちがヒツジを追いかけたあたりに、地を這うようにはえるビャクシンの茂みがあり、私はゴツゴツとした木々のあいだをぬって枯枝を集める。手に入る薪はビャクシンだけだ。発育の止まったカンバもあるが、渓谷の深いところにはえていて、人は寄りつけない。リュックサックに入れてきた紐で薪を大きな束にして背中にかつぐと、私は山をくだり、川を渡り、シェイにつづく断崖をのぼる。僧院は活気づいており、さっきの道であった男も十一頭のヤクを探すためサルダンからやってきた連中の一人だったようだ。夏のあいだここで放牧されたヤクはこの場所になじんでしまい、ごく自然にここに戻ってくる。丘の静面の数頭、もっと草の多い川のなかの島におりたものもいる。」(『雪豹』ピーター・マシーセン 芹沢髙志訳 めるくまーる社1988年)

 「2地区(小出谷、小伝屋)一体の除染要望へ 葛尾と浪江の復興拠点外、家屋解体も」(令和3年6月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東山建仁寺塔頭両足院の主な建物は、方丈とその北奥に並ぶ書院と二つの茶室である。白木屋の寄進によるという方丈の苔の生えた長方の前庭には二本の松と大振りの石が立ち、回った東には土盛りに幾つかの石が寄せられ、方丈の北東角にある簡素な門を抜ければ、書院に沿って地面に飛び石が並び、飛び石は池の縁にも沿っていて、池は翼を広げて飛ぶ鶴の姿をしているといい、その水の翼の端に架かる石橋を渡ればそのままやや高みに建つ茶室に続く石段で、門の潜りより内の歩みは露地を行く歩みである。庭には鶴のほかにもう一匹縁起のいい動物の見立てがある。石を寄せた土盛りが亀の胴体で、石橋から向こうの池の縁に突き出ている石が亀の頭である。いま、飛ぶ鶴を模(かたど)った池の縁の石組を覆うように半夏生(はんげしょう)草が花をつけている。半夏生とは、夏至から十一日を過ぎた日から七夕の頃までをいうといい、半夏生草はその頃に花をつける故の名であり、古い名の別名片白草は、亜麻色の小花の穂を上に伸ばし出すと穂の下の葉の一二枚が白色に変じるからである。半夏生草の、目立たない亜麻色の穂と葉の白以外に何色もなく単純であることは、物足りなくも目に清々しい。この白と緑の清々しさにケチをつけるような紫陽花などは両足院の庭には咲いていない。池の奥の築山一面と所々に植わっている丸い刈り込みは、花の終わった躑躅である。禅寺の庭にある計算高い技の凝らしはここにはなく、書院から眺める穏やかな風情は野原の水辺の景色に近い。半夏生草は茶事に用いる花であるという。両足院の庭の半身を露地にしたのは、茶道藪内流五代竹心紹智である。平凡な雨の一日半夏生 宇多喜代子。「平凡」は、半夏生草に対する云いでもある。半夏生叔母の離れはその奥に 星野椿。この「叔母」は、未婚のままかあるいは出戻りのひとり身で年をとった者かもしれぬ。半夏生灯(ひとも)す頃に足袋を穿き 鈴木真砂女。夕べに台所に立った時の思いであろう。蒸し暑い梅雨時の床の思いの外の冷たさは、半夏生の冷たさである。

 「地球は夜を魔法使いの帽子のように被っている。この魔法使いの帽子は長く細く、太陽を起点として遠くの空間を指す。その帽子の縁の直径は八〇〇〇マイルである。帽子の縁は地球の眉の上にぴったりフィットしている。それは地球から八六万マイル先の向点まで延びている。影のつくる魔法使いの帽子は、縁の直径より一〇〇倍もの高さを持っている。それは地球から月の軌道までの三倍の距離にまで達する。そして月が、その軌道運動において、たまたまこの闇の帽の中を通過するようなことがあれば、月蝕が起こる。」(『夜の魂』チェット・レイモ 山下知夫訳 工作舎1988年)

 「第2原発廃炉作業6月23日着手 東京電力、7月上旬から除染」(令和3年6月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 山梔子(くちなし)と知ることになる白い花 久乃代糸。たとえば、山梔子の花とは知らず白き花、と詠む時、「知らず」と云いながら「白き花」が山梔子であることを知っている。ある日、辺りに匂いを漂わせている白い花を目にしたが、その時はその花が山梔子であるとは知らなかった。あるいは、山梔子という花の名は知っていたが、目の前の花が山梔子であるとその時は分からなかった。が、その時側にいた者が山梔子の花であると教えたのかもしれない。あるいは、花を目にしてから何年も後に同じ花を目にし、あの時の白い花が山梔子であったと知ったということかもしれない。「知らず」と詠みつつこの句は、「知る」という時間の流れを詠んでいる。が、「山梔子と知ることになる」という句の「知ることになる」という云い表わしには、やや異なる時間の流れを含んでいる。その時間の流れは、白い花を見たという過去があり、花の名を知ることになるのは、はじめて見た時からみれば未来のことであり、山梔子という名を知った現在では、知ることになるという未来は思い返している過去である。「知ることになる」というこの者の山梔子への私的(わたくしてき)思いのこもった云い回しは、運命の指摘のように大袈裟であり、思わせ振りでもある。が、大袈裟なもの云いは俳句の云うところの滑稽振りでもあるのである。花園妙心寺の、放生池を囲む生垣の山梔子が花を咲かせていた。濃い葉の緑に六弁の白い花の点々はいかにも鮮やかである。放生池は、総門を入ってすぐに掘られ、禅宗の並びでは伽藍が三門、佛殿、法堂と奥に続いてゆく。伽藍を除いて見える景色は、砂利と石畳と幾本かの松と塔頭の薄ら白い築地である。この花は、このような禅寺の鼻先で暫く芳香を漂わせるのである。口なしの花さくかたや日にうとき 蕪村。匂いのする山梔子の咲いている方に目をやれば、いかにも無口な花が咲いていそうな日当たりの悪いところである。あるいは、庭で山梔子を咲かせるあの人とは、日に日に疎遠になっている、と蕪村は詠んだが、芭蕉は山梔子の句を詠んでいない。

 「浮世の中の淋しき時、人の心のつらき時、我が手にすがれ、我が膝にのぼれ、共に携へて野山に遊ばゝや、悲しき涙を人には包むとも我れにはよしや瀧つ瀬も拭ふ袂は此處にあり、我れは汝が心の愚なるも卑しからず、汝が心の邪(よこしま)なるも憎からず、過にし方に犯したる罪の身をくるしめて今更の悔みに人知らぬ胸を抱かば、我れに語りて清しき風を心に呼ぶべし。」(「やみ夜」樋口一葉樋口一葉集』河出書房1953年)

 「処理水の海洋放出「社会の合意形成が課題」 原子力学会長が見解」(令和3年6月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 紫野大徳寺天正寺と書いた額がある。この字を書いたのは、第百六代正親町天皇(おおぎまちてんのう)である。天皇が書いたものであるから、正式には勅額である。これを正親町天皇に書かせたのは、豊臣秀吉である。が、この天正寺という寺は、この世に存在しない。豊臣秀吉天正十年(1582)十月、この六月に本能寺で自害した織田信長の葬儀を大徳寺で行った。その翌々年の天正十二年(1584)、秀吉は信長を祀る寺の造営を計画する。この寺の名が天正寺である。大徳寺の南西に隣る船岡山と辺り東西百間、南北百二十間をその予定地に、信長の菩提所となった大徳寺総見院の古渓宗陳が銭四千貫文でこの計画を任される。が、寺は建たなかった。天正十年十月の清洲会議の後、秀吉は山城国の京都に足場固めを始めるのであるが、天正十二年十月の天正寺発願の翌十一月、一戦を構えつつあった織田信長の子信雄(のぶかつ)との和解が成り、この翌年の七月に秀吉は関白になる。明智光秀によって堰き止められていた信長の流れが大きく秀吉に傾くのである。この流れを己(おの)れに引き寄せるために、信長を祀る寺の発願の口約束があったのではないかとする者がいる。そうであったから、信長の後継者となった秀吉は最早金のかかる天正寺を造る必要がなくなった。この翌年、秀吉は再び金のかかる方広寺大仏殿の造営に取り掛かるのである。そうであれば大徳寺に残る、無駄となった正親町天皇の勅額は勅額であるが故に、豊臣秀吉を語る何物かではある。船岡山の南西、西陣に櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)がある。『都名所図会』には「七の社」として載っている。「七の社は舟岡の南にあり。当社は染殿の后(第五十五代文徳天皇皇后藤原明子)の祈願により、三笠山の春日明神を勧請ましますなり。その後伊勢、石清水、稲荷、加茂、松尾、平野を併せ奉り、七の社と号す。また一説に洛の北に七野あり。内野、北野、柏野、蓮台野、上野、平野等の中に祭れる神なれば、しかいふとぞ。請願あるものは社前に砂を積みて三笠山の状をうつすなり。春日影向の椋の木もこの地にあり。」この「七の社」の前史では、この地に紫野斎院があった。斎院は加茂社に奉仕する斎王、未婚の王女皇女が住まう場所であり、『源氏物語』にその見物の場所取りで争う場面が描かれている加茂祭の斎王の行列はここから出たのである。櫟谷七野神社の由緒と称する文の後半にこのようなことが書かれている。「応仁・文明の戦乱時代、この七野あたりは細川勝元山名宗全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正九年(1512)二月、七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。織田信長が遊宴のため社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞こえ、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石は大名の家紋などが刻まれている。」応仁・文明の乱の後も足利、細川の跡目争いは続いていて、永正八年(1511)八月に起きた船岡山での戦いで大内義興のついた足利第十代将軍義稙(よしたね)軍が勝ち、義稙は再び京都室町におさまる。実力者大内義興の命で「七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。」とするのは、一時期船岡山の高台に再建し、「織田信長が遊宴のため社を麓に引き下ろした」ところが、恐らくは元々あったいまの場所であり、「その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞こえ、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。」とする由緒であるが、『寺院神社大事典・京都山城』(平凡社1997年刊)には出典は記されていないが、「織田信長が化野ヶ原(あだしがはら)に再建したが、明智光秀に討たれたため、神罰を恐れた豊臣秀吉が当地に戻したと伝える。」と記している。真贋の霞を払う術は持ち合わせていないが、信長は神罰を恐れず、秀吉は神罰を恐れたということである。が、『寺院神社大事典』も同じように記している「秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石は大名の家紋などが刻まれている。」という云いには、些かの疑問が残る。櫟谷七野神社はいまは人家に取り囲まれ狭まっているが、『都名所図会』に載る図の石垣の様はまったく同じである。二メートルほどの高さの石垣の上に、辺りの民家よりも小さな拝殿と本殿が建っている。この様を目にすれば、秀吉が神罰を恐れたとしても、「各大名に石垣の寄進を命じた」とするのは俄かには信じ難い。天正十四年(1586)、秀吉はこの櫟谷七野神社から南へ二キロ足らずの場所に、己(おの)れの住まう聚楽第を造り、後に子の秀次に住まわせ、秀次が謀反を責められ自害すると、秀吉は文禄四年(1595)に聚楽第を自ら解体してしまう。この時、聚楽第の建物や材の一部は各地に散って使われた。櫟谷七野神社の石垣は、聚楽第の資材の余りかこの解体の時のおこぼれであっても不思議ではない。竹村俊則が昭和五十九年(1984)に出した『昭和都名所圖會』に、このような記載がある。「江戸時代には庶民の崇敬を得ていたが、天明の大火に類焼し、社運は次第に衰微した。今は本殿と末社二宇があるのみで、すこぶる荒廃を極めている。」当時を知る者の話では、事の事情は詳(つまび)らかではないが暫くの間、至る所に落書きされ、ペンキが塗られ、罵詈雑言の紙が貼られていたという。であるが、この神社を知る者は忘れ難い思いに駆られるというのである。北の鞍馬口通からも、南の蘆山寺通からも、東の大宮通からも、西の智恵光院通からも奥に入り組んだ民家の並ぶ内にあって、トタン張りの社務所が建つ他の平地は綱で仕切った駐車場になり、水の出ない手水の石場は傾き、壊れた石灯籠はそのままで、神木と拙い字で書いた板をぶら下げたクロガネモチが、地面に寂しげな影を落としている。ある年代の者の子ども時代の遊び場が大人に穢され、それを洗い流したなれの果ての姿は、積み重なっていたであろう時代の垢までもついでの如くに落としてしまっているのであるが、「自ら」はこの地から流れ去ってはいない。人が去ってもこの地自身は去りようがない。この地に畏敬の念を持った豊臣秀吉には理由があるのである。

 「時間はこっちがいくら必死に走っても夢のように過ぎてゆき、耳をそばだてると、そのあいだずっと世間からはいろいろなことが聞こえてきたけれど、でも、やっぱり私たちがその話を信じたということにはならない。どんなたぐいのことかわかるでしょ。誰かさんのいとこがキング・マクレインを見たっていうの。綿と材木の元締めをしているコーマス・スタークさん、彼、ちょっと遠くまで出かけていくんだけれど、キングのうしろ姿を三、四度見たっていうの。一度はテキサスで散髪してもらってたって。森にいって、二、三発銃をぶっぱなす人があったりすると、これから先もずっと、そういったことをいつも耳にするでしょうよ。たいして意味があるかどうかはわからないけれどね。」(『黄金の林檎』ユードラ・ウェルティ 杉山直人訳 晶文社1990年)

 「宮城県の団体、処理水海洋放出に反対 「理解得られていない」」(令和3年6月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)