地を擦つて竹編まれゆく秋日和 西牧トキ子。「地を擦つて」という表現は編まれてゆく長く撓った竹の先をじかに「その目」で見たからに違いない。それが春の日向でもなく冬の土間でもないのは、編まれる竹の質や響きが「秋」なのである。ちなみに「竹の秋」という季語は葉の色が黄ばむ春であり、「竹の春」は秋の季語である。おのが葉に月おぼろなり竹の春 蕪村。京と言へば嵯峨とおもほゆ竹の春 角田竹冷。「今は昔、小野篁(おののたかむら)といふ人おはしけり。嵯峨帝の御時に、内裏に札を立てたりけるに、「無悪善」と書きたりけり。帝、篁に「読め」と仰せられたりければ、「読みは読み候ひなむ。されど、恐れにて候へば、え申し候はじ」と奏しければ、「ただ申せ」とたびたび仰せられければ、「『さがなくてよからん』と申して候ふぞ。されば、君をのろひ参らせて候ふなり」と申しければ、「これは、おのれ放ちては、たれか書かん」と仰せられければ、「さればこそ、申し候はじと申して候ひつれ」と申すに、帝、「さて、何も書きたらん物は、読みてんや」と仰せられければ、「何にても、読み候ひなん」と申しければ、片仮名の子文字十二書かせ給ひて、「読め」と仰せられければ、「ねこの子ねこ、ししの子の子じし」と読みたりければ、帝ほほゑませ給ひて、事なくてやみにけり。」(『宇治拾遺物語』巻四十九「小野篁、広才の事」)その昔、小野篁という人がおられた。第五十二代嵯峨天皇が在位の時、天皇の御殿に札を立てた者がいて、それに「無悪善」と記されていた。天皇が、呼び寄せた篁に、「読んでみよ」と仰せられると、篁は、「読むということであればお読みいたしましょう。ですが、あなた様の前では恐れおおいことに思われますので、申し上げることはできかねます」とお応えしたが、「言い訳はいいから言ってみろ」と何度も仰せられたので、「『悪(さが)なくてよからん(嵯峨なくてよからん)』と申しておられるのではないでしょうか、つまりあなた様をお呪いなされているのでございます」とお応えになると、「お前以外の誰がこんなことを書くか」と仰られ、篁は、「たぶんそうお思いになられるだろうと思い、お応えすまい、とお応えいたしておりました」とお応えすると、天皇は、「お前が己(おの)れの才能に自信を持っていることは分かった、ならばどんなことでも読むことが出来るのだな」と仰せられると、「どんなものでもお読みいたします」と篁がお応えすると、片仮名の「子(ネ、シ、こ)」という字を十二、使いの者に書かせ、「読んでみよ」と仰ると、篁は、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んだので、天皇は微笑みを浮かべ、篁はとがめられずにすんだ。

 「いねむりをしていないときは、まるで陽の光りで目がつぶれてしまったとでもいうようにきっちりと目をつぶってミューミュー鳴きつづけ、ときどきおもいだしたようにぴたっと口をつぐむと、ちっちゃなうるんだ瞳でまわりをふしぎそうにみまわすのです。そのしぐさはへんにぎこちなく、どこか精巧につくられたゼンマイじかけの玩具のようにおかしいのでした。そのくせ冷たい牛乳は厭がり、いったんぼくたちが口にふくんで自然にぬくもったあとでないとなかなか飲もうとしないのに、いったん飲みはじめると夢中になり、ぴちゃぴちゃという牛乳を飲む音がふいにせわしなくなったとおもうと、いつのまにか牛乳の沼のなかに身体ごと入っていってしまっていて、もがいているのかじゃれているのか、よくわからないのでした。」(『ねこに未来はない』長田 弘 晶文社1971年)

 「廃炉はAIロボットで…ビーエイブル、来春操業へ 遠隔操作、難工事で実績」(令和8年9月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 赤蜻蛉分けて農夫の胸進む 西東三鬼。から松は淋しき木なり赤蜻蛉 河東碧梧桐。生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉 夏目漱石。

 「馬車の中では、田舎紳士の饒舌が、早くも人々を五年以来の知己にした。しかし、男の子はひとり車體の柱を握つて、その生々した眼で野の中を見續けた。「お母ア、梨々。」「あゝ、梨々。」馭者臺では鞭が動き停つた。農婦は田舎紳士の帶の鎖に眼をつけた。「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」馭者臺では喇叭が鳴らなくなつた。さうして、腹掛けの饅頭を、今や盡く胃の腑の中へ落し込んで了つた馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し默つた數段の梨畑を眺め、眞昼の太陽の光りを受けて眞赤に榮えた赤土の斷崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、さうして、馬車が高い崖路の高低でかたかたときしみ出す音を聞いてもまだ續いた。併し、乗客の中で、その馭者の居眠りを知つてゐた者は、僅かにたゞ蠅一疋であるらしかつた。蠅は車體の屋根の上から、馭者の垂れ下つた半白の頭に飛び移り、それから、濡れた馬の背中に留つて汗を舐めた。馬車は崖の頂上へさしかかつた。馬は前方に現れた眼匿しの中の路に従つて従順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車體の幅とを考へることは出來なかつた。一つの車輪が路から外れた。突然、馬は車體に引かれて突き立つた。瞬間、蠅は飛び上つた。と、車體と一緒に崖の下に墜落して行く放埓な馬の腹が眼についた。さうして、人馬の悲鳴が高く一聲發せられると、河原の上では、壓し重なつた人と馬と板片との塊りが、沈默したまゝ動かなくなつた。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まつたその羽根に力を籠めて、たゞひとり、悠々と靑空の中を飛んでいつた。(「蠅」横光利一『定本 横光利一全集 第一巻』河出書房新社1981年)

 「公園や児童遊び場の放射線測定を終了 福島市、25年度末で」(令和8年9月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都御所、閑院宮邸跡。

 

 父の頭(づ)が見えて九月の黍畑 宮田正和。最盛期を過ぎスカスカとなり茎が傾いたりしているトウモロコシ畑に、最後の収穫をする父の姿がある。「父の頭」だけが畑の上に覗いて見えるという状況を「生かす」なら八月の黍畑であろうが。「アイオワ州の片田舎で農場を営む都会育ちのレイ・キンセラは、ある日の夕方、トウモロコシ畑で謎の声を聞く。「それを作れば、彼がやって来る」。そしてトウモロコシ畑に野球場の幻を見る。冒険をせず堅実に生きてきたレイは、妻アニーの声にも押されて野球場建設を決意する━━。レイの父親ジョンは、かつてメジャーリーグを目指したが、叶うことはなかった。その夢を息子に託そうとしたが、反発したレイは十代で家を飛び出し、父の葬式まで再び会うことはなかった。父に妻や孫娘の顔を見せられなかったことは、レイの心の傷となっていた━━。」(Wikipedia 映画「フィールド・オブ・ドリームス」)九月来る箸をつかんでまた生きる、 九月の地蹠(あうら)ぴつたり生きて立つ 橋本多佳子。

 「向嶋から小石川へ引越したのは震災の翌年だつた。急な引越だつたのでいゝとも悪いとも云つてゐるひまがなく、路地の角の二軒長屋だつた。壁ひとへの隣は洋服屋さん、道を隔てゝの隣は電球工場、向う側は空地。空地には大家さんの商売ものである炭が高く積んであり、その奥に活動写真館の二階がにゆつと建つてゐた。家が狭いのはしかたがないが、かはいさうなのは犬で、縁側と板塀は三尺か四尺あいてゐるだけなので、犬ながらに大きなからだの置き場がなくて困つてゐるやうすだつた。長毛種で柔和なめすの老犬なので、すぐ近処の子供たちが友達にして、玄関の格子の前へござを敷いて、犬はそこへ請じられる。トンネル遊びと称して犬のおなかの下をくゞつて喜んでゐるし、犬もまた辛抱づよく四ッ足を踏み張つてお対手(あいて)をしてゐる。犬がトンネルで子供は汽車といふ見たてなのだ。」(「猿のこしかけ(十二月)」幸田 文『幸田 文全集 第八巻』岩波書店1995年)

 「処理水海洋放出「環境影響なし」専門家会議が評価」(令和8年9月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北嵯峨。

 

 高辻通は、東は鴨川の西から西は梅津に至り、全長約五・八キロ、平安京の高辻小路にあたる。「俗に藪の下と云ふ、此通の号の事、詳(つまびらか)ならず。また此通藪の下といふは中古、柳馬場より東洞院まで藪ありしゆへの其間ばかりを町の北名に藪の下と呼たりしを、いつの頃よりか東西に通じて通の名とせり、此通東は寺町より、西は千本へ出る畠道也。」(『京町鑑』)この高辻通の西洞院西入ル永養寺町に、「道元禅師示寂聖地」と彫られた石像が建っている。越前永平寺が道元の終焉の地ではなかった。建長五年(1253)八月五日、己(おの)れの病の療養のため弟子の懐奘と上洛し、俗弟子の医師左金吾禅門覚念の屋敷で、京都に生まれ、書いても書いても尽きぬ思いに満ちた『正法眼蔵』を残した道元は、八月二十八日五十三歳でこの世を去る。「京兆華厳寺宝智大師(嗣洞山諱休静)、因僧問、「大悟底人却迷時如何」。師云、「破鏡不重照、落花難上樹」。いまの問処は、問処なりといへども示衆のごとし。華厳の会(え)にあらざれば開演せず、洞山の嫡子にあらざれば、加被すべからず。まことにこれ参飽仏祖の方席なるべし。いはゆる「大悟底人」は、もとより大悟なりとにはあらず、余外(よげ)に大悟してたくはふるにあらず。大悟は公界におけるを、末上の老年に相見するにあらず。自己より強為して牽挽出来(けんめんしゅつらい)するにあらざれども、かならず大悟するなり。不迷なるを大悟とするにあらず、大悟の種草のためにはじめて迷者とならんと擬すべきにもあらず。大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す。大悟人あるがごとく、大悟仏あり、大悟地水火風空あり。大悟露柱燈籠あり。いまは大悟底人と問取するなり。「大悟底人却迷時如何」の問取、まことに問取すべきを問取するなり。華厳きらはず、叢席に慕古す、仏祖の勲業なるべきなり。しばらく巧夫すべし。大悟底人の却迷は、不悟底人と一等なるべしや。大悟底人却迷の時節は、大悟を拈来して迷を造作するか。他那裏より迷を拈来して、大悟を蓋覆して却迷するか。また大悟底人は一人にして、大悟をやぶらずといへども、さらに却迷を参ずるか。また大悟底人の却迷といふは、さらに一枚の大悟を拈来するを却迷とするか、かたがた参究すべきなり。また大悟也一隻手なり。却迷一隻手なるか。いかやうにても、大悟底人の却迷ありと聴取するを、参来の究徹なりとしるべし。却迷を親曾ならしむる大悟ありとしるべきなり。しかあれば、認賊為子を却迷とするにはあらず、認子為賊を却迷とするにはあらず。大悟は認賊為賊なるべし、却迷は認子為子なり。多処添些子を大悟とす。少処減些子、これ却迷なり。しかあれば、却迷者を模著して、把定了に大悟底人に相逢すべし。而今の自己、これ却迷なるか、不迷なるか、検点将来すべし。これを参見仏祖とす。」(『正法眼蔵』第十「大悟」)京兆の都の華厳寺の宝智大師に、ひとりの僧が、「たとえば大悟の地に足がついた者が、却って(逆に)迷うようなことになったらどうなりますか」と質問した。それに対して師はこう答えた、「割れた鏡は前と同じように照らすことはない、落ちた花はもとの樹に戻ることは出来ない」。この問答は、師と僧との間の問答ではあるが、衆目を意識しているようである。というのは、華厳の法会でなければこのようなやり取りが行われることがないからだ。洞山の法を嗣ぐ者でなければこのようなやり取りは生まれない。真にこれこそ充分に仏道に参じ極め尽くした仏祖の作法を重んじる道場であるであろう。ここでいう「大悟の地に足がついた者」とは、本来大悟しているというのではなく、自分の外から大悟というものが齎(もたら)されて蓄えておくというものでもない。大悟は現実社会で生きて、人生の終わりが近づいた年寄りになれば自ずと出会うような境地などではなく、自ら無理やり引っ張り出せることが出来るものでもないが、それでも必ず大悟するものなのである。迷いがないことが大悟ではなく、大悟を芽ぶかすために迷うということも違う。大悟した者が、その上でなお大悟し、大いに迷った者もまた大悟するのだ。大悟した人が存在していると同じに、世界は大悟の仏であり、大悟の四大と空であり、大悟の露柱や燈籠であるのである。そしていま大悟に足がついた者とは何者かを問い、「大悟底人が却って迷う時は如何」という問いは、まっとうに問うべきことを問うているのである。華厳の宝智大師はこの問いを退けず、修行道場の法座がかつての優れた祖師を見習うような場となっているこのことは連綿と続いた仏祖師の立派な功績であるはずである。いまこの機会にじっくり考えてみるべきである。(たとえば)「大悟底人(大悟に足がついた者)」の、「却迷(却って迷う)」は、大悟に足がついていない者と同一のことであるだろうか。大悟に足がついた者が却って迷いを生じている時というのは、大悟そのものの考えをひねり出そうとしている内に迷いを生み出すのか。それともまったく別のところから持ち込んだ迷いで大悟を覆いかぶせて「却迷」してしまうのか。あるいは大悟に足がついた者は、自分自身は自らの悟りを壊すことなく「却迷」を生じさせるのか。あるいは大悟に足のついた者の「却迷」は、さらに一枚めくった先の大悟に考えを捕らわれ却って迷うということなのか。ということを様々参究すべきである。あるいは、たとえば大悟が一方の手で、「却迷」がもう片方の手であるという問いはどうか。どのようなかたちであっても、大悟に足がついた者が却って迷うと聴いて思い知ること自体が、究極に徹底的に参じ来たことだと理解すべきであり、「却迷」を真の根源とする大悟があるとも知るべきである。そうであるから、賊を子と取り違えることが「却迷」なのではなく、子を賊と取り違えることが「却迷」なのでもない。大悟とは賊を認めて賊とすることであり、「却迷」は子を認めて子とすることなのである。多くあるところにわずかに加えることが大悟で、少ないところからわずかに減らすのが「却迷」である。そうであるから、「却迷」者を探して摑まえたならば、「大悟底人(大悟に足がついた者)」を見ることが出来るはずである。いまこの時の自分が「却迷」であるのか「不迷」であるのかを間違いなく調べ上げ、それを自らに齎(もたら)さなければならない。このことが仏祖に参見するということなのだ。

 「ジャック爺さんは、ボール紙のきれはしで暖炉の燃えくずをかきたてて、それを白くなっている石炭の円い山の上に、注意ぶかくひろげた。その円い山がほぼおおわれると、彼の顔は暗がりにまぎれたが、もう一度火をあおぎにかかると、そのかがんだ影法師がむこうの壁に伸びて、顔はまた、おもむろに光の中に浮いてきた。非常に骨ばった、鬚の多い、老人の顔だった。うるんだ青い眼が火に向ってしばたたき、ぬれた口はときどき開いて、閉じるときには機械的に一、二度もぐもぐと動いた。燃えくずに火がつくと、彼はボール紙を壁に立てかけ、ホッとため息をついて言った━━「今度はようごわしょう。オッコナーさん」」(「委員室のパーネル記念日」ジェイムズ・ジョイス 安藤一郎訳『ダブリン市民』新潮文庫1953年)

 「処理水、8月31日から26年度5度目の海洋放出 福島第1原発」(令和8年8月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 道元禅師示寂聖地。

 

 桂川の手前の三条通から外れ、土手の下の稲の穂がふくらみだした田圃道から入り組んだ住宅道を四条通の方に向かい、梅宮大社のこんもりした林が視界に入りだすと同時に打ち鳴らす太鼓の音が耳に入ってきて、梅宮大社に近くなるほど太鼓の音は大きくなるのだから、その音は大社からしているのに違いなく、裏から回り込んだ楼門の奥の屋根の下の日陰とはいえ風もなく暑そうな拝殿の床の上で、構えた太鼓を何人かの日に焼けた小学生が撥でリズムを取りながら叩いていて、その中の背の高い「おねえちゃん」が背丈の低い小学生に何度も演奏を止めさせ、「先輩」として指導の言葉を「後輩」に口にするとまた演奏が再開し、トン、トントンと打ち鳴らす太鼓の、この演奏は、来る八月の最終の日曜日の嵯峨天皇祭で披露されるといい、その日の夜には露店が出て六斎念仏踊、盆踊とにぎやかな秋祭りが予定されているというのであるが、楼門の日陰に渡した太い竹を前に撥を持って並ぶ三人の五、六才の子どもの内のひとりが、その前に立つ年寄りから「さあやって」という言葉にもかかわらず、撥を構えず、「どないしたの」と声をかけられるが、何も応えず、他の二人は叩くのをやめ親に持たされたのであろうビニールの巾着に入れた水筒の水を飲むと目の前に立てた譜面のようなものを見ながら竹を撥でタンタンと叩きだすが、その子どもだけは眼差しを日向に向けたまま牛や犬が急に足を止めた如くにはじめようとせず、年寄りは困り果てたような顔をしているが、その子どもの「やりたくない」理由は「言葉に出来ない」ことなのかもしれない。「そもそも何でこんなことせなあかんの、こんな暑いさ中に」。ビクともしない大松一本と残暑に入る 尾崎放哉。秋暑い鉄鉢でお米がいつぱい 種田山頭火。

 「人の一生には、勝負せざるを得ん時がある。勝負やすんの、いややな、思とっても、そうせざるを得ん時が、かならず来る。野球の試合や見に行くのんは、人に勝負させといて、それ見に行くだけや。むごいィ。けど、そういう人にも、わが身が勝負せざるを得ん時が、かならず来る。あんたの場合を言えば、五十点以下の実力で勝負せんならんが。頭の決心と心の決心は別物やで。あんた頭ン中で立てた夏休みの計画が実行出来へんままに、自分をあざむいて、夏の終りむかえた、いうことあるやろ。あれ悲しいが。情けないが。頭やたよりにならへん、いうことや。淋しいが。なんぼ頭がようても、頭がええだけ頓馬やが。けど、頭のええ人は頭にしがみ付いてん。わしはえらい、思て。そない思て、わが身の頭ン中の落し穴に落ちてん。はて、どななえらい人でも、人のえらさには限りがあるけど、人の愚かさは底無し沼やが。人が勝負しよってん、はたから見とるの楽しいィ。真剣勝負であればあるほど、楽しいィ。」(「抜髪」車谷長吉『漂流物』新潮社1996年)

 「処理水海洋放出3年 保管量減少いまだ7%「処理途上水」対応に課題」(令和8年8月24日 福島民報DIGITAL)

 梅宮大社。




 

 八月十一日~十六日の下鴨神社の糺(ただす)の森の古本市は「下鴨納涼古本まつり」と銘打っていて、「納涼」は「夏の暑さを逃れて、屋外や水の近くなどに涼を求めること」(『角川俳句大歳時記 夏』角川書店2006年刊)として、突つ立つて帆になる袖や涼み舟 丈草、などの句を載せているが、八月の糺の森は風が通らず、地獄のような蒸し暑さで、どこも平らでない木の根の浮き出た地面の上に据えた棚に並んでいる本の背をじっくり眺めるには忍耐を強いられるようで、これに我慢が出来なければ早々に立ち去ることが賢明であり、そうしようと思いながらミシェル・レリスの『幻のアフリカ』に目が留まったのは、これを探し求めていたからでなく、たまたま何となく目に留まっただけのことに過ぎないが、その古本屋の棚にある『幻のアフリカ』は①となっていて、奥付は1971年11月30日発行とある。が、この本の出版社イザラ書房はこれ以降の巻を出さずじまいだった。この本の著者のミシェル・レリスについては訳者が「シュルレアリスムの特異な詩人・作家として、すぐれた民族学者として、ここ数年来多くの紹介がなされすでにその訳書も本書を含めると、七冊出版されている」とあとがきに書いていて、ミシェル・レリスはこの『幻のアフリカ』をそのまえがきで「当時はまだ≪ネグリチュード(黒人らしさ)≫という名ではよばれていなかったものに夢中になり、それが自分にとって一つの試煉であると同時に、現実に経験する詩と異郷生活(デぺイズマン)とを意味していたがゆえに、当時としてはかなりの遠隔の地に旅をしようと思い立った三十才のヨーロッパ人が、第二次大戦前のこの黒人アフリカを西から東へ横断した時になにを感じとったか、ということについての資料としての価値をもっているのだ。この時彼(レリス)は彼自身から逃れ得ないことに━━まったく素朴にも━━驚いていた、実は彼をして近親たちから身を引き離す決定をさせたところのあまりに個人的な理由からして、そもそもそれ以外の結果をもたらしえないということに彼は気づくべきだったのであるが。「読者は次のことを発見するだろう……。」と僕はこの書物の一九三四年版の前文のなかで書いている(※この初版は、ナチス・ドイツによるフランスの占領下で発禁処分になっている)。「いくつもの箇処で、僕のとる態度が、個別的で、陰鬱な、気難しい、党派的な━━そのうえ不正な━━非人間的な(或いは≪人間的な、あまりにも人間的な≫)、恩知らずで、欺瞞的態度であることを。僕の野心はといえば、僕が見たままのこの旅と、あるがままの僕自身を一日一日と描写することだった……。」と記していて、訳者はまた「しかし彼にとっての「内」である告白と、「外」である民俗学とは、つねにバランスがとれているわけではない。それは彼をときとして分裂に追いこみ、彼を死に近い場所までつれてゆくことがある。この矛盾と分裂と対立こそ彼の一生の劇なのであり、この劇をかぎりなく誠実に生きたところに彼の独創がある。「幻のアフリカ」は、このようなレリスの全著作━━文学と民俗学の両方にわたって━━の出発点に位置する真の処女作といえるかもしれない」とも書いている。この『幻のアフリカ』は、イザラ書房の①巻の発行から二十四年後の1995年に完訳版として河出書房新社から出版されることになる。この二十四年という年月を暑さのさ中で漠然と思いもしたのは、別の古本屋のテントの棚に並んでいた黒川道祐著宗政五十緒校訂の岩波文庫『雍州府志 近世京都案内』(2002年刊)が、全二冊とありながら宗政五十緒の死によってその下が出版されなかったことを思い出したからかもしれない。背景の変はらぬ涼み芝居かな 森田 峠。(※イザラ書房は、経営者が修道院に入り、現在はその姉が経営を引き継いでいるという)

 「九月二十九日 バンディアガラのすずしい夜。出発。ほぼ一時間も、泥にはまりこむ。サンガに到着。首長のドゥネイロン・ドロは僕たちを心からもてなす。他の人たちがやってくる。たくさんの子どもたちも。ここの人たちは、今までに出会った大部分の人たちが持っていた奴隷根性を全く持合せていない。これらの人たちのかたわらでは、他の黒人や白人は、彼らについて僕たちの知っている事柄からして、ごろつき、役立たずの田舎者、唾棄すべきふざけ男と見える。すばらしい宗教的な感情。聖なるものが隅々まで漂よっている。あらゆるものは思慮にみち、荘重にみえる。アジアの古典的なイメージ。宿泊所のすぐ近くの一本のバオバブ樹の根もとで、僕たちが知らないうちに、若鶏とネズミの供犠が行われたばかりだ。今晩は、ラッパが鳴り、遠くから歌ごえが聞こえる。犬の吠え声も。この物音が犬たちをいらだたせるから。そして、木かブリキ缶か瓢箪を叩く乾いたカタカタという音。ここでは、自然も人間も、なにももう笑わない。蛇がたいへん多い。家のなかへはいってくるものもいる。ついでながら、さっきの話し相手の人たちの顔つきのことをまた考えていて、あの子どもや若者たちのなかにも、黒人歩兵になるものが多いだろうと思うと、恥しくなる。」(『幻のアフリカ①』ミシェル・レリス 岡谷公二・高橋達明・田中淳一訳 イザラ書房1971年)

 「福島県産モモ、16年ぶり台湾輸出再開へ 17日から来月8日まで4.5トン」(令和8年8月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 下鴨納涼古本まつり。

 

 東山小松町の六道珍皇寺の門の前でカメラを構えると、東の東大路通を過ぎると清水道あるいは清水坂とも呼ばれる松原通を、その東の坂の上の清水寺を参拝したのであろう外国の観光客やこれから清水寺に向かうのあろう観光客が気を遣って手前で歩いていた足を止めたり身をかがめひっきりなしに目の前を通り過ぎるため、途切れるのを待っていると、背にしていたスーパーから年配の女の店員かあるいは経営者が出て来てちょうど入り口の階段の両脇の腰の高さの手を伸ばせばとどく台に並べた水塔婆や本日売り出しの食器用洗剤や漂白剤に手をかけて揃え直すと今度はその奥に並べたトイレットペーパーや紙おむつの山を積み直したりしてそのさり気なくかつ疑り深い商人(あきんど)の仕草がどこか懐かしいものとして目に映れば(あるいは狭い入り口の邪魔になっていたからかもしれないが)、珍皇寺から聞こえているお精霊(しょらい)の迎鐘の響きを我慢比べのように意地悪く暫く立ち止まって聞いている振りをしたりもしたのである。鬼灯(ほおづき)を人にあづけて迎鐘 内藤十夜。打てばひびくものと知りつつむかへ鐘 嵐雪。

 「「あと一時間半かな」そのくらいの時間、雪の中を歩きまわるしかないだろう。そうおもって、途方に暮れた。言問団子の店が、ふと頭に出てきた。「老舗(しにせ)というのは、どこかほかと違ったところがあるもんだが……。まさか、店を開いてはいないだろう」腕時計をみると、九時にはまだ間がある。雪を踏んで、この街を抜け、すこし道を歩いて土手への石段を上る。そこに、言問団子がある。夢でも見ているようだったが、店が開いていた。安堵の息を、大きく吐いた。火鉢の中では、炭が十分に赤くなっていた。この店は、酒は置いていない。火鉢だけでは、寒い。団子を食べ、茶を飲み、雪景色を眺める。風流なことだが、時が経つのがもどかしい。現在だったら、ぼーっとしていれば一時間くらいはなんとか経ってしまう。、二十代では、時間はゆっくり流れ、何度も時計を見る。もともと、気は短かいほうなのだ。ようやく、十時半になった。もういいだろう、と立上った。それにしても、終始、客は私一人だった。雪の朝、酒を売らない店が、なぜ開いていたのだろう。」(「蝙蝠傘」吉行淳之介『文藝春秋・短篇小説館』文藝春秋1991年)

 「処理水放出、事業者へ7月29日時点で約1100件賠償928億円 東電発表」(令和8年8月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 六道珍皇寺。