三条通から四条通を千本通と堀川通で区切った四角を千本三条から堀川通の内にある大宮通の四条大宮まで斜めに横切っている後院通は、市内にあまり見かけないいかにも明治の道路の如く強引に通した千本四条を直角にした三角形の一辺で、昭和四十七年(1972)に廃止になるまで市電が通っていたが、その後院通で西の端が切れる三条通と四条通の間をくねりながら走る六角通にある善想寺の門の前の重厚な祠に泥足地蔵が祀られていて、この最澄の作であるという地蔵はもとは大津坂本に祀られていたものであったといい、その坂本が旱魃に襲われ百姓の作兵衛が三日三晩この地蔵に念仏祈願すると降ってきた雨で田が潤い百姓たちが苗を植えることが出来たというがその時作兵衛は腹痛で田植えが出来ず、翌朝百姓たちが作兵衛に代わって田植えに行くとすでに苗が植わっていて作兵衛が祈った地蔵の腰から下が泥で汚れていたという伝説があり、門を潜った墓地には京都相撲の横綱兜潟(かぶとがた)の墓があると善想寺のホームページには「興行として、神事や武芸として、古くから行われてきた「相撲」。江戸時代には、東京・大坂・名古屋・京都など全国の主要都市に相撲の運営組織がおかれておりました。そのうちの一つである京都相撲は、明治六~七年ころには総勢四百五十名以上が所属する組織でした。そんな京都相撲の最後の横綱兜潟弥吉。伏見で生まれた彼は、その人柄を広く愛され、孝明天皇からも「兜潟、あぐらをかいて楽にするがよい」とのお言葉を受け、あぐらを勅許された話が有名です。当時は東京や大坂相撲に対して、京都相撲が衰えてゆく時代にさしかかっていました。横綱は京都相撲を再建し、民衆に愛されるための拠点としての相撲協会の設立に全力を注ぎます。そしてその第一歩を踏み出した時、明治十五年(1882)二月に病で亡くなります。」とあり、ただし、後に明治三十二年(1899)名古屋から京都に移った大碇紋太郎が朝廷の相撲節会の司家を代々継いだ五条家から横綱の免許を受けているが、現在の日本相撲協会は五条家が出した横綱の免許を認定していないといい、たとえばある一つの線引きとして『京都大事典』(淡交社1989年刊)に京都相撲の項目はない。ふらっと立ち寄った善想寺の墓地に、こいのぼりを立てている隣りの六満こども園から大きなしゃぼん玉が風に乗っていくつも飛んで来ていた。こゑとうに遠のきたるに桐の花 飯島晴子。
「思考する自動人形にせよ、思考不能に陥った自動人形にせよ、アルトーは思考の場で自動人形を繰り返し発見しながら、いわば贋の自発性を暴き出そうとする。アルトーが発見し、記述する彼自身の肉体にほかならない自動人形は、身体、意識、精神を定義するさまざまな境界や輪郭を貫通するようにして立っている。身体と精神との、調和のとれた有機的結合は、空虚や石化の状態のなかで停止している。自動人形は、あらゆる自動性を規定している区分や結合や並行のシステムを停止させる。「観念は、単なる物体の組み合わせにすぎない」とアルトーは書く。身体も精神も、ばらばらな部品の集積のようにみつめられる。身体と精神という分割そのものが、自動性を停止し、贋の自動性として現われる。身体は、さまざまな力のひしめきに忠実に鋳直されなければならないのではないか。身体そのものに浸透し、ほとんど身体そのものをなしている制限が見直されなくてはならないのではないか。」(『アルトー思考と身体』宇野邦一 白水社1997年)
「(浪江町)津島(地区)3年目のコメ栽培 安全確認で制限解除要望へ」(令和8年5月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)
善想寺。



