出水(いでみず)の加茂に橋なし夏祓(なつはらへ) 蕪村。大雨による洪水で加茂川に架かっていた橋がすべて流されてしまった。まるで夏越しの祓いとして清められでもしたように。茅の輪をも潜らで年を重ねけり 相生垣瓜人。風さそふものゝみ多し御祓の具 松窓乙二。

 「私たちが諸々の技術的な対象物に対して、このような仕方で同時に「然り」と「否」とを言うならば、その場合、技術的世界に対する私たちの関わり合いは、分裂した不確かなものにならないだろうか? 全然正反対であろう。技術的世界に対する私たちの関わり合いは、或る不思議な仕方で単純なものとなり、安らかなものとなる。私たちは諸々の技術的な対象を私たちの日々の世界の内に入り来たらしめる。そして同時に、それらの対象物を外に、すなわち物としてそれら自身の上に置き放つ。それらの物は決して絶対者ではなく、それら自身いっそう高いものに差し向けられている。技術的な世界に対する同時的な然りと否というこの態度、それを私はある一つの古語で呼びたい。すなわち、物への関わりの内における放下〔Gelassenheit〕(落ちつき、委ねられた状態)がそれである。」(「放下」ハイデッガー 辻村公一訳『ハイデッガー選集第15巻』理想社1963年)

 「大熊、産業活性化進む 復興拠点避難指示解除4年」(令和8年7月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北野天満宮。

 

 二局しか映らぬテレビ梅雨に入る 石川桂郎。このような時代もありて時代を経て今年も梅雨に入り、膨大な青銅の屋根梅雨に入る 阿部みどり女、は句柄が大きいが、露草の瑠璃ほのめける梅雨入りかな 相生垣瓜人、を句柄が小さいとは云わず、人も木もそはそはしかる梅雨入前、入梅と云ふなり糢糊としてをれり、入梅と云ふ日の雨に先(ま)づ厭(あ)きぬ、入梅も人智を以て宣せらる、入梅を市販の暦明記せり、入梅も暦のそれに従はん、大安と云へり梅雨入りと又云へり、家にゐて梅雨入りのさまもよく見たり、も相生垣瓜人の句であるが、瓜人という人間もまた梅雨という季節に従わざるをえない。なめくじら界隈梅雨に入りけり 小林康治。

 「ふつと、選抜高校野球は、どうなつたかなと、玄關で手にした、新聞を、疊に放り出してゐたので、それを、足で引き寄せて、縁側で、擴げた。うす日もようの、甲子園球場で、準々決勝四試合を擧行。鳴門・後半の反撃奏功とある、野球の欄に、となりあつて、大阪港はしけ停る。今日から、スト開始という、文字が、眼にとまつた。神戸港でも、スト決議で、一萬四千四百圓、ベースアップを、要求。團體交渉を行つていた、全港灣兵庫地方本部では、今朝、神戸港灣労働會館で、臨時大會を開き、四十九票對四票で、實力行使を決議したとある。初之輔は、新聞を放つて、臺所へ行き、ガスに火を點じ、ヤカンをかけた。うまい茶が飲みたかつた。一萬四千四百圓ベースという數字が瞼にちらつく。自分も、そう位のサラリーは、ほしいものだと思つた。」(「めし」林 芙美子『日本現代文學全集78林 芙美子・平林たい子集』講談社1967年)

 「建屋内がれき撤去着手 福島第1原発1号機、2カ月遅れ」(令和8年6月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 「これも今は昔、御堂関白殿、法成寺を建立し給ひてのちは、日ごとに御堂へ参らせ給ひけるに、白き犬を愛してなん飼はせ給ひければ、いつも御身を離れず御供しけり。ある日、例のごとく御供しけるが、門を入らんとし給へば、この犬、御先に塞がるやうに吠えまはりて、内へ入れ奉らじとしければ、「何でふ」とて、車より降りて入らんとし給へば、御衣の裾をくひて、引きとどめ申さんとしければ、いかさま、やうあることならんとて、榻(しぢ)を召し寄せて、御尻をかけて、晴明に、「きと参れ」と召しに遣はしたりければ、晴明、すなはち参りたり。「かかることのあるはいかが」と尋ね給ひければ、晴明しばし占ひて申しけるは、「これは、君を呪詛(じゅそ)し奉りて候ふものを、道に埋みて候ふ。御越しあらましかば、あしく候ふべきに、犬は通力のものにて、告げ申して候ふなり」と申せば、「さて、それはいづくにか埋みたる、あらはぜ」とのたまへば、「やすく候ふ」と申して、しばし占ひて、「ここにて候ふ」と申すところを、掘らせて見給ふに、土五尺ばかり掘りたりければ、案のごとく物ありけり。土器(かはらけ)を二つうち合はせて、黄なる紙捻(かみより)にて十文字にからげたり。開きて見れば、中には物もなし。朱砂にて、一文字を土器の底にかきたるばかりなり。「晴明がほかには、知りたる者候はず、もし道摩法師や仕りたるらん。糺(ただ)して見候はん」とて、懐より紙を取り出し、鳥の姿に引き結びて、呪を誦(ずん)じかけて、空へ投げ上げたれば、たちまちに白鷺になりて、南をさして飛び行きけり。「この鳥の落ちつかん所を見て参れ」とて、下部を走らするに、六条坊門、万里小路(までのこうぢ)辺に、古りたる家の諸折戸の中へ落ち入りにけり。すなはち、家主、老法師にてありける、搦(から)め取りて参りたり。呪詛の故(ゆゑ)を問はるるに、「堀河左大臣顕光公の語りを得て仕りたり」とぞ申しける。「このうへは、流罪すべけれども、道摩が咎(とが)にはあらず」とて「向後(きやうこう)、かかるわざすべからず」とて、本国播磨へ追ひ下されにけり。この顕光公は、死後に怨霊となりて、御堂殿辺へは、たたりをなされけり。悪霊左府と名づく云々。犬はいよいよ不便にせさせ給ひけるとなん。」(『宇治拾遺物語』巻十四・第十話「御堂関白の御犬,晴明等、奇特の事」)昔、御堂関白殿(藤原道長、藤原師輔の三男兼家の五男)は、法成寺を建立なされ、毎日御堂においでになられていて、可愛がって飼っていた白い犬がいつもぴったり寄り添ってお供をしていたが、ある日、いつものように傍らにいて殿が門を入ろうとなさると、この犬は立ち塞がるように御前を吠えまわり、中へお入れすまいとしたので、「どうしたんだ」と車から降りて入ろうとなさると、犬は御衣の裾をくわえ引き留めようとしたので、「何かわけがあるのだろう」とおっしゃって踏み台を持ってこさせてその上に尻を乗せ、安倍晴明のもとに「急ぎ参れ」と使者をつかわすと、晴明はすぐに駆けつけ、「こんなことであるがどういうことだ」とお尋ねになり、じっくり占った晴明が、「これは君を呪い申しあげるものを道に埋めてあるようです、もしそれを跨ぐようなことをなされたならば、不吉なことが起こるでしょう、犬はそなわっている神通力でお教えになったのです」と云い、「それはどこにある、探し出せ」とおっしゃると、「たやすいことでございます」とお応えした晴明はしばらく占って、「ここでございます」とお示ししたところを掘らせてお見せすると、土を五尺ほど掘ったあたりではたしてそのものが出てきた。土器を二つ合わせ、黄色の紙縒りで十文字に縛ってある。開いてみると中には何もなく、土器の底に辰砂で一という文字が書いてあるだけだった。「わたくし晴明のほかにおそらくこれを知っている者はいないでしょう、道摩法師のしわざかもしれません、問いただしてみましょう」と晴明が云い、懐から取り出した紙を鳥の形に折って呪文を唱えて空に放り投げるとたちまち白鷺になって南をさして飛んで行き、「あの鳥の降り立つところを見て参れ」と召使いを走らせると、六条坊門万里小路辺りの古びた家の両開きの戸の内へはいっていき、すぐさまその家の主の老法師を縛りあげて連れて来て、呪詛の理由を問うと、「堀河左大臣顕光公(藤原顕光、藤原師輔の次男兼通の長男)に頼まれいたしました」と白状した。「この上は流罪にすべきだが、道摩の罪ではない」と申し、「今後このようなわざを使ってはならぬ」と戒め、生国の播磨へ追放なされた。この顕光公は死後に怨霊となって御堂殿の身近にいる者を祟って悪霊左府と呼ばれ、御堂関白は、その犬をますます大事に可愛がったという。

 「このようにマーフィは自分が二つの部分、つまり肉体と精神とに割られているというように感じた、明らかにこの両者は連絡していた。さもなければそれらに共通のものがいくらかあることが彼にはわからなかったはずだ。しかし彼は精神が肉体と絶縁しているように感じ、いかなる通路によって連絡が行なわれているのか、またどのようにして二つの経験が互いに重なり合うのか理解できなかった。この両者のあいだに直接の活動はないと彼は信じていた。彼が足蹴りを考えるのはそれを感じたからではなく、またそれを考えたから感じたわけでもなかった。たぶん足蹴りの意識と事実とのあいだには、二等星に対する三等星のような関係があったのだろう。たぶん時間と空間をこえて、非精神的で非肉体的な、永遠の<足蹴り>が存在しており、それは意識と外廷との相関的な様態の下で、ひそかにマーフィに啓示されるのだろう。しかしそれでは至上の<愛撫>はどこにあるのだろうか」(『マーフィ』サミュエル・ベケット 三輪秀彦訳 ハヤカワ文庫1972年)

 「福島第一原発、あふれる放射性廃棄物 いたちごっこの屋内保管場所」(令和8年6月14日 朝日新聞)

 京都御苑。

 

 離別(さら)れたる身を踏込(ふんごん)で田植哉 蕪村。離縁された女が好奇の目で見る村の者らの前で実家の者らに交じって気持ちを吹っ切るように水を張った田に足を踏み込んだ。星空へ田植三日の顔あらふ 長谷川素逝。三日続いた田植えが終わり顔を洗って見上げる空にも田圃の面にも星が輝いている。

 「網を据えた地点より数メートル上方の岸辺沿いに、オイコミはいわば足の航跡を露わにする。そこいらをすさまじい勢いでたたき、ふみしめながら、網まで一気に馳せ下る。「よし、いいぞ」の掛け声でアミガカリはすばやく水から網を上げる。この呼吸が大切だ。上げるとすぐに二人が丸い網底を凝視する。たいていはカジカやハヤの類だがそれでもかかっていればたいしたもので網が重くなった原因の大半は、木屑や草や小石である。イワナがひっかかったとき、氏の「アイヤ!」が発せられたのはいうまでもない。星紋と呼ばれるイワナ独特の、暗緑色の地に輝く淡色斑点と小朱点の紋様は水からひきあげられた直後その名の通り星のカケラのように見える。」(「大字哀野」室井光広『おどるでく』講談社1994年)

 「福島第1原発、3号機で漏水か 燃料取り出しはすでに完了」(令和8年6月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北嵯峨。

 

 東山東大路七条下ル東瓦町の智積院(ちしゃくいん)で今年はじめて蚊に喰われたのは、蚊のいそうな金堂の裏で咲いた紫陽花を足を止めて見ていたからで、蚊の声の一光陰をけみしたり 斎藤空華、の「一光陰」の大袈裟は蚊の小さな存在に比べた何ごとかを思うより、病気で臥す空華には「蚊の声」とともに過ぎた時間が実感として「一光陰」、月日の経過のようにも感じたのかもしれず、人待(まち)て加茂川わたる昼蚊かな 吉川五明、は一読して経緯が取りずらいのは「待て」と「わたる」が静と動であるからで、蚊に喰われながら人を待っていたけれど待ち人が来なかったので加茂川を渡って帰ったとすれば「待て」から「わたる」の動きにきっかけが出来るが、「昼蚊」が「人」を「待て」いたが誰も現れないので場所を変え加茂川を渡って行ったとすれば、蚊の気持ちを読み手に見せてくれているようでもあり、燃立て㒵(かお)はづかしき蚊やり哉 蕪村、と、恋のためにあらず蚊にやるひざがしら 去来、は色恋の濃淡を見るようで、後の世や蚊をやくときにおもはるゝ 成美、は殺生の罪悪感というより、蚊とたいして違いのないような者として己(おの)れを顧(かえり)みているのかもしれない。王城さん嵯峨の藪蚊は大きかろ 日野草城。

 「そしてそれは深い静けさの中をゆっくりと立ちのぼっては((ラムジー)夫人はウィリアム・バンクスにもう一つ小さな肉を取り分けようと、陶器のシチュー鍋の奥をのぞき込んだ)、沸き上がる煙か香気のように、特に理由もないまましばらくそこに漂いながら、その場の皆を守り支えているかのようだった。何を言う必要もないし、何を言うこともできない。その大気は皆を包んで、確実にそこにあった。そしてそれは、と夫人は、特に柔らかい部分をバンクス氏の皿に盛りながら感じた、どこか永遠を思わせるものだ。今日の午後、何か別のことで感じたように、物事には一貫性があり安定性がある。つまりどこかに何か変化を免れるものがあって、それは(夫人は光が波立つように揺れて映る窓ガラスを見た)流れるものや逃げ去るもの、うつろう存在を前にして、ルビーのごとく硬い輝きを放つのだ。こうして、平穏さや休らぎについて昼間感じたことを、今夜またあらためて感じことができた。こういった瞬間の体験から、と彼女は思う、後々まで残るようなものが産み出されるはずだ。今、手にした思いもきっと残るだろう。」(『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ 御輿哲也訳 岩波文庫2004年)

 「プール燃料搬出開始、東京電力第1原発2号機 容器に4体収納」(令和8年6月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 智積院。

 

 上京今出川通烏丸東入ルの相国寺の塔頭大通院の門に「碧巌録提唱」と記した板が掲げてあり、気温三十度を超えれば法堂の前の松林が影を落としていても境内は物憂く蒸し暑く、その物憂さは境内そのものというよりちらほら見える参拝者や自転車や歩いて境内を横切って行く者らの姿がそう思わせるようでもあり、「碧巌録提唱」の大通院の内までこの物憂さが及んでいるか外からはうかがいしれないが、たとえば『碧巌録』の巻第一「第一則 武帝、達磨に問う」には「垂示に云く、山を隔てて煙を見て、早(つと)に是れ火なることを知り、牆(かき)を隔てて角(つの)を見て、便(すなわ)ち是れ牛なることを知る。挙一明三(こいちみょうさん)、目機銖両(もっきしゅりょう)は、是れ衲僧家(のうそうけ)の尋常茶飯、衆流(しゅりゅう)を截断するに至っては、東涌西没(とうゆさいもつ)、逆順縦横、与奪自在なり。正当恁麼(しょうとういんも)の時、且(しばら)く道(い)え、是れ什麼人(いかなるひと)の行履(あんり)の処ぞ。雪超竇(せっちょう)の葛藤を看取(み)よ。」山を隔てた向こうに煙がのぼっているのを目にすれば、すぐに火が燃えているとわかる。垣根の向こうで動いている角を見ただけで牛がいることがわかる。示された一隅であとの三隅を理解し、見ただけでこまかい重さを見分けるようなことは禅修行者なら誰でもできる。さまざまな者の思い考えを迷わず一気に断ち切り、東に顔を出し西で頭を引っ込め、逆さになりまっすぐになり縦になり横になり、そういうあらゆる動作が意のままになる。まさにそこに至って、さあ、言ってみよ、これはいかなる者のいかなる言動なのか、雪竇(せっちょう)和尚の言うこと(公案の解釈)に目を凝らしなさい、と「物憂さ」を挑発する言葉が並んでいて、たとえば有名な「第六三則 南泉、両堂に猫を争う。第六四則 南泉、趙州(じょうしゅう)に問う」は「挙す。南泉、一日(あるひ)、東西の両堂、猫児を争う。南泉見て遂に提起して云く、「道(い)い得ば即ち斬らず」。衆対(こたえ)なし。泉、猫児を斬って両段(ふたつ)と為す。挙す。/南泉復(ま)た前話を挙して趙州に問う。州便(すなわ)ち草鞋(わらじ)を脱ぎ、頭上に載せて出づ。南泉云く、「子(そなた)若(も)し在らば、恰(まさ)に猫児を救い得てんに」ある日、南泉は、東西の堂の修行僧らが一匹の子猫のことで争っている場に出くわし、この機をとらえて次のように問うた、「つまるところの考えを応えることができたなら斬らない」しかし誰からも返応がなく、南泉はその子猫をまっぷたつに斬ってしまった。/また南泉が同じ問いを趙州にすると、趙州は聞いたとたん履いていた草鞋を頭の上に載せて出て行ってしまった。それを見た南泉は、「お前があの場にいたら子猫を救ってやることができたのに」と口にした。「(評唱)━━此の話亦(ま)た斬ると斬らずとの処に在らず。此の事軒(はる)かに知らん、此の如く分明(あきらか)なることを。情塵意見の上に討(たず)ねざれ。若(も)し情塵意見の上に討(たず)ねば、則(すなわ)ち南泉に辜負(そむ)き去らん。但(た)だ当鋒剣刃上に向いて看よ。是れ有も也(ま)た得(よ)く、無も也(ま)た得(よ)し、不有不無も也(ま)た得(よ)し。所以に古人道(いわ)く、「窮すれば則(すなわ)ち変じ、変ずれば則ち通ず」と。而今(いま)の人変通を解(よく)せずして、只管(ひたすら)に語句上を走る。南泉恁麼(さよう)に提起するは、人をして合下(ただち)に甚(いか)なる語をも得せしむべからず。只だ人をして自ら薦(うけと)め、各各自ら知らしめんと要(ほっ)す。若(も)し恁麼(さよう)に会(え)せずんば、卒(つい)に模索不著(さぐりあてられざ)らん。雪竇(せっちゅう)当頭(そくざ)に頌して云く、/趙州は乃(すなわ)ち南泉の的子(あとつぎ)なり、頭を道(い)えば尾を会(え)し、挙著(ていじ)するや便(すなわ)ち落処(かんどころ)を知る。━━人多く錯(あやま)り会(え)して道(い)う、「趙州は権(かり)に草鞋を将(もっ)て猫児と作(な)す」と。有る者は道(い)う、「他の『道(い)い得ば即ち斬らじ』と云うを待って、便(すなわ)ち草鞋を載せて出で去る。自足(もと)より你(なんじ)が猫児を斬るのみ、我が事に干(かかわ)らず」と。且得没交渉(さてもまとはずれ)。只だ是れ精魂を弄(ついや)すのみ。殊に知らず、古人の意は天の普(あまね)く蓋(おお)うが如く、地の普(あまね)く擎(ささ)ぐるが似(ごと)きを、他(か)の父子は相投じ、機鋒相合う。那箇(かれ)頭を挙(しめ)せば、他(かれ)便(すなわ)ち尾を会(え)す。如今(いま)の学者、古人の転処(てんじょ)を識(しら)ず、空しく意路上に去(お)いて卜度(おしはか)る。若(も)し見んと要(ほっ)せば、但(た)だ他(か)の南泉・趙州の転処に去(お)いて便(すなわ)ち見れば好し。頌に云く、」━━この話は子猫を斬るとか斬らないというところにあるのではない。このことの理解ははるかかなたなことか、こんなにもあきらかなことが。思考に思考をたずね合わせるようなことをしてはならない。もし思考に思考をたずね合わせたりすればそれこそ南泉の思いにそむくことになるだろう。鋒(ほこ)先を剣(つるぎ)の刃の上に置いてみればわかる。このことはしてもよくしなくてもよくあってもなくてもいいことなのだ。ゆえにいにしえ人はこう言う、「極めれば変化を生じ、変化が生じれば道筋がたつ」と。今日(こんにち)の者らは「変じて通ず」を理解できず、ひたすら言葉の上っ面にこだわる。南泉がそのように質したのは、どんな言葉であってもすぐに飛びつくようなことをしてはならない、自分で自身を受け止め、おのおの自分で考え自分の言葉で知ることを求め願う。もしこのような機会を逃せばいつまでもおのれをさぐりあてることはできない。雪竇(せつちょう)和尚は即座に説いてこう述べた。/趙州は南泉の一番弟子である。頭を聞けば尾っぽを知ることができる、問いの勘所を直ちにつかまえることができる者である。━━だいたいの者は誤った解釈をしてこう言う、「趙州の草鞋は猫である。」と。また別の者はこう言う、「南泉の『つまるところの考えを応えることができたなら斬らない』と言うの聞いた趙州は草鞋を頭の上に載せて出て行き、どうぞご自身で勝手に子猫を斬ってください、わたくしはそのことには関係がないです」と。どちらの応えも的はすれである。それはものに憑かれたようなやりとりだ。とにかく理解が足りない、いにしえ人の思考は天を隙間なく覆う如く、地のすべてを持ち挙げる如きものであることを。あの父子のような二人は息が合って鋭い言葉が通じ合う。一方が頭を示すだけでもう一方は直ちに尾を知ることができるのだ。いまの学究者はいにいしえ人の勘所を理解できていない、空しく道の上に突っ立ってきょろきょろしながら頭を巡らせているだけだ。ただひとつ手本にするとすればあの南泉と趙州の問答の勘所を見るだけでいいのだ。説いてこう述べた、とある。南泉のくだらない問いかけに趙州は草鞋を頭に載せてからかった、のか、そうでもないのか。六月の百姓川を置いて去る 廣瀬直人。

 「とにかくハガキとほとんど同時に岐阜名産、「筏バエ」が着いた。松源という魚屋(?)が、ハエ(ハヤ)がとれたときに佃煮にしたもので、あらかじめ頼んでおいて出来たときを待つものだそうだ。人間はこの味の深さにとても迫ることはできるかどうか?と問いをかけられているようなものだ。筏バエというのは、もともと長良川にうかぶ筏の下にハヤが群がるというところからきたものであるが、大小まちまち大きさながら、その味がどれもそれなりに同じなのは、煮るときに何か工夫がこらされているという人がいる。(中嶋)八郎がいったことではなくて作者のところへやってきた信州の男がいったことだ。私には八郎が自身がいっているように思えた。」(『美濃』小島信夫 講談社文芸文庫2009年)

 「核燃料615体、2日取り出し着手、福島第1原発2号機」(令和8年6月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 相国寺。

 

 三条通から四条通を千本通と堀川通で区切った四角を千本三条から堀川通の内にある大宮通の四条大宮まで斜めに横切っている後院通は、市内にあまり見かけないいかにも明治の道路の如く強引に通した千本四条を直角にした三角形の一辺で、昭和四十七年(1972)に廃止になるまで市電が通っていたが、その後院通で西の端が切れる三条通と四条通の間をくねりながら走る六角通にある善想寺の門の前の重厚な祠に泥足地蔵が祀られていて、この最澄の作であるという地蔵はもとは大津坂本に祀られていたものであったといい、その坂本が旱魃に襲われ百姓の作兵衛が三日三晩この地蔵に念仏祈願すると降ってきた雨で田が潤い百姓たちが苗を植えることが出来たというがその時作兵衛は腹痛で田植えが出来ず、翌朝百姓たちが作兵衛に代わって田植えに行くとすでに苗が植わっていて作兵衛が祈った地蔵の腰から下が泥で汚れていたという伝説があり、門を潜った墓地には京都相撲の横綱兜潟(かぶとがた)の墓があると善想寺のホームページには「興行として、神事や武芸として、古くから行われてきた「相撲」。江戸時代には、東京・大坂・名古屋・京都など全国の主要都市に相撲の運営組織がおかれておりました。そのうちの一つである京都相撲は、明治六~七年ころには総勢四百五十名以上が所属する組織でした。そんな京都相撲の最後の横綱兜潟弥吉。伏見で生まれた彼は、その人柄を広く愛され、孝明天皇からも「兜潟、あぐらをかいて楽にするがよい」とのお言葉を受け、あぐらを勅許された話が有名です。当時は東京や大坂相撲に対して、京都相撲が衰えてゆく時代にさしかかっていました。横綱は京都相撲を再建し、民衆に愛されるための拠点としての相撲協会の設立に全力を注ぎます。そしてその第一歩を踏み出した時、明治十五年(1882)二月に病で亡くなります。」とあり、ただし、後に明治三十二年(1899)名古屋から京都に移った大碇紋太郎が朝廷の相撲節会の司家を代々継いだ五条家から横綱の免許を受けているが、現在の日本相撲協会は五条家が出した横綱の免許を認定していないといい、たとえばある一つの線引きとして『京都大事典』(淡交社1989年刊)に京都相撲の項目はない。ふらっと立ち寄った善想寺の墓地に、こいのぼりを立てている隣りの六満こども園から大きなしゃぼん玉が風に乗っていくつも飛んで来ていた。こゑとうに遠のきたるに桐の花 飯島晴子。

 「思考する自動人形にせよ、思考不能に陥った自動人形にせよ、アルトーは思考の場で自動人形を繰り返し発見しながら、いわば贋の自発性を暴き出そうとする。アルトーが発見し、記述する彼自身の肉体にほかならない自動人形は、身体、意識、精神を定義するさまざまな境界や輪郭を貫通するようにして立っている。身体と精神との、調和のとれた有機的結合は、空虚や石化の状態のなかで停止している。自動人形は、あらゆる自動性を規定している区分や結合や並行のシステムを停止させる。「観念は、単なる物体の組み合わせにすぎない」とアルトーは書く。身体も精神も、ばらばらな部品の集積のようにみつめられる。身体と精神という分割そのものが、自動性を停止し、贋の自動性として現われる。身体は、さまざまな力のひしめきに忠実に鋳直されなければならないのではないか。身体そのものに浸透し、ほとんど身体そのものをなしている制限が見直されなくてはならないのではないか。」(『アルトー思考と身体』宇野邦一 白水社1997年)

 「(浪江町)津島(地区)3年目のコメ栽培 安全確認で制限解除要望へ」(令和8年5月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 善想寺。