毎年の冬の京都の駅伝は、西京極陸上競技場国立京都国際会館前を往復する。この国立京都国際会館は、松ヶ崎の二つの山を回り込んだ所にあり、この二つの山は、五山の送り火の「法」と「妙」が灯される山である。この松ヶ崎東山と松ヶ崎西山の裏の窪みにあるのが宝ヶ池で、国立京都国際会館はこの水辺に建っている。宝ヶ池は、江戸期に水溜りだったものを農業溜池に大きく造り成したものであるという。が、いまはその役割りを終え、水面にボートを浮かべ、傍らを流れる岩倉川を子どもの足でも入れる遊び場にした宝ヶ池公園になっている。いびつな手裏剣のような形をした宝ヶ池の周囲はおよそ千五百メートルである。国立京都国際会館が建つ一方を除いた三方は、樹に覆われた山の斜面が迫っている。黄金週間のこの日、空いた駐車場を見れば、池を巡り平らな草の上で弁当を開いているのは近くに住んでいる者らであり、虫取り網を振り回す一家も犬を連れる者もボール遊びをしている若い者らも、日なたで本を読む者も木蔭でハーモニカを吹いている者も泣き止まない子どもも、緊急事態のさ中に「近所の池」にやって来た者らである。通っていた小学校の北西の方角に、かつて銀の採れた山があった。その山中にこの宝ヶ池とおなじような沼があった。その沼も灌漑溜池で、田植えが始まれば湛えた水の減る沼である。ある年、この沼に遠足に行った。小学校から沼まで地図を辿れば直線で五キロほどであるが、道なりに行けば恐らくはその倍近い距離がある。この遠足で四つの光景が頭に残っている。一つは田圃道から人家の建つ裏山の斜面の山道に入って行った、一つは沼の畔の浮き出た木の根を避け湿った斜めの地べたで昼飯を喰った、一つは帰り道の途中雑木道に迷い込んだ三四人の「われわれ」がほかの者からはぐれてしまった、一つは「われわれ」がほかの者らより早く学校に戻り着いてしまった、ことである。が、山の登り道を含めた片道七八キロを子どもの足で歩くことを思えば、この記憶は心許ない。沼の近くまではバスに乗って行き、道ではぐれたのは山の頂上に登る前後ではなかったか、あるいは学校に先に戻ったのはたとえば写生に行った帰りの出来事だったのではないか。調べればカタのつく話である。が、学校からその沼までの往復が徒歩であったのであれば、記憶の辻褄は合うのである。いま再びその時の記憶を思い返しても、バスに乗っている光景は浮かんで来ない。山道をぞろぞろ列になって歩いている。ある者が何かの都合で足を止め、その前後にいた二三人も足を止めている間に前を行く列を見失い、慌てて入った小径を行けども行けども列の姿はなく、来た道を戻る時はじめに足を止めた者の顔が青くなった。が、声を上げることは誰も思いつかなかった。戻ってもどこまで戻ってよいのか分からなくなった、が、帰りの道は影が出来る方角と反対であることは分かっていた。それから誰かが選んだ斜面を下って行くと、来た道に出た。が、その山道を下っても前に列の姿は見当たらない。最早「われわれ」は相当に遅れてしまったのである、と思ったのである。「われわれ」は車の通らない田舎道をとにかく急いだはずである、が、その記憶はない。その途中で後ろを振り返ればあるいは彼方に同級の列の姿を見たのかもしれないが、「われわれ」は誰もそうしないまま学校に着いた。が、校庭には誰の姿もない。「われわれ」のひとりが教室を見に行ったが、空であると云う。そこで「われわれ」ははじめて、図らずも早く戻ってしまったことを知るのである。が、これより先の記憶はない。担任の教師は前を行く「われわれ」を見ていたのかもしれない。そうであればその目に映っていたのは、ただ近道をした馬鹿者どもの姿である。が、この馬鹿者どもは覚えている。あの門を入った時に目にした、誰もいない校庭が夢のように怖ろしかったことを。宝ヶ池は穏やかである。公園の外れの、競輪場跡に造った「子どもの楽園」はいまは閉ざされ、静かである。

 「短夜の空も、やうやう明(あく)れば、又旅立ぬ。猶よるの名残、心すゝます(ず)。馬かりて桑折の駅に出(いづ)る。はるかなる行末をかゝえて、かゝる病、覚束なしといへと(ど)、「羇旅、辺土の行脚(あんぎゃ)、捨身、無常の観念、道路にしなん、これ天の命なり」と、気力聊(いささか)とり直し、路縦横に踏て、伊達の大木戸をこす。」(『奥の細道松尾芭蕉自筆 岩波文庫2017年)

 「【検証・廃炉】定義、あいまいなまま 宙に浮く「最終形」議論」(令和3年5月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 二條城から東へ、堀川通と堀川を渡り夷川通(えびすがわどおり)を入って暫く行くと左手、北側に滑り台シーソー鉄棒ブランコ砂場の揃った夷川児童公園があり、中に「陽成院跡(ようぜいいんあと)」と書いた案内板が立っている。「この夷川公園一帯には、南北二町(二五二m)に及ぶ陽成院と呼ぶ邸宅があった。元慶八年(八八四)二月、譲位した陽成上皇は内裏からこの邸に遷幸して御所とし、母の皇太后藤原高子も渡ってきた。上皇崩御後は二分割され北町は一般の住宅に、南町は荒廃に任せた。」この陽成院に「浦島太郎」の弟が化けて出たという話が残っている。「今は昔、陽成院おりゐさせ給ひての御所は、宮よりは北、西洞院よりは西、油の小路よりは東にてなんありける。そこはもの住む所にてなんありける。大きなる池のありける釣殿に、番の者寝たりければ、夜中ばかりに、細々とある手にて、この男が顔を、そとそと撫でけり。けむつかしと思ひて、太刀を抜きて、片手にてつかみたりければ、浅葱(あさぎ)の上下(かみしも)着たる翁の、ことのほかに、ものわびしげなるが言ふやう、「われはこれ、昔住みし主なり。浦嶋の子が弟なり。古よりこの所に住みて、千二百余年になるなり。願はくば許し給へ。ここに社を造りて、いはひ給へ。さらば、いかにもまもり奉らん」と言ひけるを、「わが心一つにてはかなはじ。このよしを院へ申してこそは」と言ひければ、「憎き男の言ひごとかな」とて、三度上ざまへ、蹴上げして、なへなへくたくたとなして、落つるところを、口をあきて喰ひたりけり。なべての人ほどなる男と見るほどに、おびただしく大きくなりて、この男をただ一口に喰ひてけり。」(『宇治拾遺物語』「陽成院、妖物の事」)陽成院の庭の大きな池に突き出た釣殿で、警護の者が居眠りしたまま夜になって、か細い手がこの男の顔をそっと触れるような手つきで撫でた。薄気味悪い思いで目を覚ました男が咄嗟にその手を掴んで刀を抜けば、浅葱色の上下の衣を着たみすぼらしい年寄りが立っていて、こんなことを云い出した。「わたしはかの丹後水の江の浦嶋子の弟で、千二百年以上前からここに住んでいる者である。どうかご無礼お許しを。改めてお願い申し上げる。この地に社を建ててわたしを祀って下さるならば、どのようなことがあってもお守り通して差し上げます。」これを聞いて警護の男は、「おれの一存で決められるようなことではない。陽成院様に申し上げたうえでなければ。」と応えると、年寄りは、「癪に障るナメた野郎の云い草だ。」と云うと、どこにでもいるような姿かたちがみるみる大きくなって、警護の男を何度も足で蹴り上げ、正体をなくしたところをその大口を開け、一口で喰ってしまった。天台座主慈円の『愚管抄』に、第五十七代陽成天皇を巡るこのような記述がある。「コノ陽成院、九歳ニテ位ニツキテハ年十六マデノアイダ、昔ノ武烈天皇ノゴトクナノメナラズアサマシク(常軌を逸した異常なる様)オハシマシケレバ、オヂニテ昭宣公基経(陽成天皇の母高子の兄、藤原基経)ハ摂政ニシテ諸卿群儀有テ、『是ハ御モノゝケノカクアレテオハシマセバ(物の怪が取り憑いている)イカガ国主トテ国ヲモオサメオハシマスベキ』トテナン、ヲロシマイラセントテ(譲位させること)ヤウヤウニ沙汰有リケルニ」化け物に取り憑かれているかもしれない天皇にこれ以上国を治めてもらうわけにはいかないとされ、十七歳で譲位した陽成上皇は、それから六十五年もの長い晩年を過ごさなければならなかった。『宇治拾遺物語』の「陽成院、妖物の事」は、「御モノゝケノカクアレテオハシマセバ」とされた陽成上皇の死後、その荒廃した屋敷を目にした者らの口の上に生まれた話である。が、奇妙なのは「浦嶋の子の弟」と称する年寄りの妖物である。釣り糸に掛かった五色の亀が亀比売(かめひめ)に変身し、浦嶋子はその亀比売に果ての島蓬莱山に連れて行かれ、そこで極楽の三年を過ごした後、故郷の親恋しさにこの世に戻れば三百年の月日が経っていて、約束を破って亀比売から貰った玉匣を開ければ、湧いた煙を浴びて己(おの)れの若い肉体が奪われてしまう。「水の江の浦嶋の子が玉匣開けずありせばまたも会はましを」という目に遭った浦嶋子に実の弟がいたとしても、浦嶋子を記した『丹後国風土記』にその記述はなく、この年寄りの云った言葉以外の手掛かりは何もない。が、この「弟」を「弟子、門人」という意味から引き伸ばし、先人の「後続者」として「浦嶋子」と同じ目に遭った者とすれば、この年寄りは玉匣を開けてから千二百年経っても死なずにいる者ということになる。極楽浄土に退屈し、戻って生き返った、死んでも死にきれない者である。であるから社に祀って魂を鎮めて欲しいと頼んだのであるが、警護のもの云いは年寄りの癇に障った。警護の男の応えは、社会常識を弁(わきま)えた穏当な応えであった。が、「浦嶋の子の弟」はそのもの云いが癪に障った。癪に障っただけでなく、喰い殺してしまった。杓子定規に扱われた者の凄まじい憎悪である。果たして陽成上皇も杓子定規に扱われたのかもしれぬ。が、普通の者こそが杓子定規に扱われるのである。京都府立植物園の桜は葉桜になり、椿は花を落とし、大方の薔薇はまだ蕾で、いまは緑胡蝶、心紅などと名のついた牡丹が花を咲かせている。恐らくはどれも幾たびも手を加えられ、均した地べたで行儀よく育てられたものであるが。白牡丹総身花となりにけり 相馬遷子。牡丹花に虻が生きたるまま暮るる 永田耕衣

 「(映画の)この再現された世界のいくぶん見慣れない様相が、同時に、われわれをとりかこむ世界の見慣れない性格を啓示してくれる。われわれの理解の習慣と、われわれの秩序とに、順応することを拒むかぎりにおいて、われわれの世界もやはり、見慣ない世界だからである。」(「未来の小説への道」アラン・ロブ=グリエ 平岡篤頼訳『新しい小説のために』新潮社1967年)

 「福島県、海域の監視強化へ 処理水放出、モニタリング調整会議」(令和3年4月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 桂川に架かる松尾橋の東詰の空に、「罧原堤四条」という道路標識が立っている。「ふしはらつつみしじょう」と読み、四条通と交わる土手道が罧原堤である。元禄三年(1690)に出た『名所都鳥』の「堤之部」に「伏原堤、嵐山の麓頼業(よりなり)の社(清原頼業を祀る車折神社(くるまざきじんじゃ))西、大井川の東也。これより松尾に行なり。」とある。この堤の項にはもう一か所「小倉堤(宇治郡)、宇治の西の方より、大和路へかゝる堤なり。此の外所々の土手、おほくは堤という所おほし。」と載っている。『京都地名語源辞典』に載る「罧原町ふしはらちょう」にはこう記されている。「嵯峨罧原町と梅津罧原町は、堤防に沿いつつ北と南に隣接している。古代に大堰川桂川)に建設された罧原堤に因む地名である。罧原堤は、下嵯峨地域の南端から松尾橋に至る南北約一キロメートルの長さがあり、大堰川の水勢が強まる東側に建設されたものである。堤は葛野大堰(かどのおおい)とも呼ばれ、当地に渡来した秦氏により建設されたが、その年代は五世紀とも七世紀とも考えられている。この大堰の建設により従来の葛野川の名称が大堰川に変わったとされている。なお、フシは柴の古語、ハラは林の意味で、罧原は、柴を編んだ垣を立てて築き上げた堤を表していると思われる。」(『京都地名語源辞典』東京堂出版2013年刊)「罧原は、柴を編んだ垣を立てて築き上げた堤を表していると思われる。」とあるが、柴、雑木を編んで作った垣根で洪水を止めることが出来るはずはなく、これを堤の芯にして土を盛ったということであろうか。漢和辞典に載る「罧」の字は<罒、あみ>と<林、柴などの束>から成るとあり、「ふしづけ」とも読み、柴を水中に積んで魚を集め捕える仕掛けのことであるという。「ここから松尾橋までつづいた松並木は時代劇の海道筋(街道筋?)に利用されたものであるが、今は松もまばらに、どちらへカメラを向けても煙突、アンテナが視野に入って処置なしである。自分が最後にここで撮影したのは終戦直後で、出演中の守田勘弥丈の昼弁当を水谷八重子さんが届けにきて、いっしょに箸をつかっていた、和やかな情景がまだ眼にある。」(「罧原堤」伊藤大輔『続古都再見』河出書房新社1961年刊)この二年前の昭和三十四年(1959)に台風で罧原堤が決壊したという当時、映画監督の伊藤大輔が「まだまばらにあった」という松並木は、いまは見る影もない。が、「罧原堤四条」の標識の下から堤に沿って、店や人家やマンションの建つ右手を見ずに桂川を上って行けば、嵐山を背後に大きくS字にくねるその先に見えてくる渡月橋の景色には「都の堤」として選ばれた面影がまだ残っている。与謝蕪村に「春風馬堤曲」と題した十八首からなる「新体」歌がある。「馬堤」は蕪村の生まれ故郷である摂津毛馬の堤を指しているが、実際に足を運んで詠んだ歌ではなく、仏光寺通烏丸西入ル釘隠町に最後の住まいを定めていた蕪村は、名所であった「罧原堤」に故郷の堤の思いを重ねることがあったかもしれぬ。「余一日問耆老於故園。渡澱水過馬堤。偶逢女帰省郷者。先後行数里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。因製歌曲十八首。代女述意。題曰春風馬堤曲。春風馬堤曲 十八首 ◯やぶ入や浪花を出て長柄川 ◯春風や堤長うして家遠し ◯堤下摘芳草 荊与蕀塞路 荊蕀何妬情 裂裙且傷股 ◯渓流石點々 踏石撮香芹 ◯多謝水上石 教儂不沾裙 ◯一軒の茶見世の柳老にけり ◯茶見世の老婆子儂を見て慇懃に 無恙を賀し且儂が春衣を美ム ◯店中有二客 能解江南語 酒銭擲三緡 迎我譲榻去 ◯古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず ◯呼雛籬外鶏 籬外草滿地 雛飛欲越籬 籬髙堕三四 ◯春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ ◯たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に 三々は白し記得す去年此路よりす ◯憐みとる蒲公莖短して乳を浥 ◯むかしむかししきりにおもふ慈母の恩 慈母の懷袍別に春あり ◯春あり成長して浪花にあり 梅は白し浪花橋邊財主の家 春情まなび得たり浪花風流 ◯郷を辭し弟に負く身三春 本をわすれ末を取接木の梅 ◯故郷春深し行々て又行々 楊柳長堤道漸くくだれり ◯矯首はじめて見る故園の家黄昏 戸に倚る白髪の人弟を抱き我を 待春又春 ◯君不見古人太祇が句 藪入の寢るやひとりの親の側 余、一日(いちじつ)耆老(きろう、古い友)を故園(故郷)に問ふ。澱水(でんすい、淀川)を渡り馬堤を過ぐ。偶(たまたま)女(じょ)の郷に帰省する者に逢ふ。先後して行くこと数里。相顧みて語る。容姿嬋娟(せんけん、なよやかで美しい)として癡情(ちじょう、色欲の情)憐れむべし。因(よ)りて歌曲十八首を製し、女に代りて意を述ぶ。題して春風馬堤曲と曰ふ。◯やぶ入や浪花を出て長柄川(ながらがわ、新淀川の前身、中津川の旧称) ◯春風や堤長うして家遠し ◯堤より下りて芳草を摘めば 荊(けい)と蕀(きょく)路を塞ぐ 荊蕀何ぞ妬情なる 裙(くん)を裂き且つ股を傷つく ◯渓流の石點々 石を踏んで香芹を撮(と)る 多謝す水上の石 儂(われ)をして裙を沾(ぬ)らさざらしむ ◯一軒の茶見世の柳老にけり ◯茶見世の老婆子(ろうばす)儂を見て慇懃に 無恙(むよう)を賀し且つ儂が春衣を美(ほ)ム ◯店中に二客有り 能く江南の語(川の南の話し言葉)を解す 酒銭三緡(さんびん、一緡(さし)は銭百文のひとつなぎ)を擲(なげう)ち 我を迎へ榻(とう、腰掛)を譲りて去る ◯古驛(こえき、古い宿場)三兩家(二三軒の家)猫兒(びょうじ)妻を呼べど妻來たらず ◯雛を呼ぶ籬(まがき)外の鶏 籬外草地に滿つ 雛飛びて籬を越えんと欲す 籬髙うして堕つること三四 ◯春艸路三叉中に捷徑(しょうけい)あり我を迎ふ ◯たんぽゝ花咲けり三々五々五々は黄に 三々は白し記得す去年此路よりす ◯憐みとる蒲公莖短くして乳を浥(あませり) ◯むかしむかししきりにおもふ慈母の恩 慈母の懷袍(かいほう)別に春あり ◯春あり成長して浪花にあり 梅は白し浪花橋邊財主の家 春情まなび得たり浪花風流(ぶり) ◯郷を辭し弟に負(そむ)く身三春 本(もと)をわすれ末を取る接木の梅 ◯故郷春深し行々て又行々 楊柳(ようりゅう)長堤漸くくだれり ◯矯首(きょうしゅ、頭をあげる)はじめて見る故園の家黄昏(たそがれ) 戸に倚る白髪の人弟を抱き我を 待春又春 ◯君見ずや古人(古い友)太祇が句 藪入の寢(ぬ)るやひとりの親の側」私が古い友人を故郷に訪ねた日のことであるが、淀川を渡って馬堤を歩いていた時にたまたま出会った、同じ故郷に帰る途中だという奇麗で色気があって可愛い娘さんに成り代わって「春風馬堤曲」と題した十八首でその娘さんの気持ちを詠いたいと思う。◯待ちに待った藪入りで暇を貰い、店(たな)のある浪花をたって長柄川までやって来ました。 ◯春風が吹く堤に立つと、先が見通せるだけ家が遠く感じられます。 ◯河原に下りていい香りの草を摘んだのですが、意地の悪い茨の棘に着物の裾が破れ、腿にまで切り傷をつくってしまいました。 ◯今度は石を渡って水の流れのところまで行って、流れに浮かぶ石のおかげで裾を濡らさず芹を摘みました。 ◯堤に昔からある茶店の前の柳が、ちょっと見ないうちにひどく年老いたように見えます。 ◯茶店のお婆さんが私を見つけて駆け寄って来て、かしこまって私の無事を喜び、着物を誉めてくれました。 ◯店には川の南の話し言葉を話す客が二人いて、酒代を百文の結び銭三つで払って、私に席を譲ってくれました。 ◯家が二三軒建つだけの昔の宿場町で恋猫が恋人を呼んでいるのに、辺りに恋人はいないようです。 ◯草ぼうぼうの垣根の外から親鶏の呼ぶ声がしますが、雛たちはどうしても垣根を飛び越えることが出来ません。 ◯春草の繁る三叉路のうちの一番狭い道が私を迎えてくれる道です。 ◯辺りに白と黄色のたんぽぽが三々五々と咲き、去年通った時のことを思い出しました。 ◯懐かしくなってたんぽぽを折ると、土に残った短い茎の先から乳色の汁が浸み出て来ます。 ◯家が近づいて来ると、子どものころから可愛がってくれた母の愛情を思い出しました。母の懐にはいつでも春があったのです。 ◯春がまたやって来て、浪花の商家に奉公して来た私は、梅が白く咲くように街のおしゃれを身につけました。 ◯ですが、弟を故郷に残して三年を過ごした私の花は、しょせんは接木の梅に過ぎないのかもしれません。 ◯故郷はどこまで行っても春らしい景色で、柳の並ぶ長い堤の道がそろそろ下って来ました。 ◯なんとなくうつむいてしまっていた私が顔を上げた時、黄昏に染まった故郷の家をはじめて見ました。その戸口で、弟を抱いた白髪になった母が私をじっと待っています。ああ、春です、春です。 ◯あなたは古い友だちの太祇君が詠んだこの句を知っていますよね。藪入りで実家に戻って母親の隣りで寝る私の気持ちを思って下さい。この「春風馬堤曲」を詠んだ六十二歳の蕪村は、その前の年に一人娘を嫁がせている。が、翌年「むすめ事、先方爺々専ラ金まうけの事ニのみニ而、しをらしき志も薄く、愚意に齟齬いたし候事共多く候ゆゑ、取返申候。もちろんむすめも先方の家風しのぎかね候や、うつうつと病気づき候故、いやいや金も命ありての事と不便に存候而、やがて取もどし申候。」と知人に書き送り、嫁ぎ先から娘を己(おの)れの元に戻している。この出来事を踏まえれば、「春風馬堤曲」の娘に、そうであったならばと思いを込めた蕪村の一人娘の姿が重なるのである。安永五年(1776)十二月、蕪村の娘くのが嫁いだ相手は、西洞院通丸太町上ルの、三井の料理人柿屋傳兵衛である。昭和五十二年(1977)四月に、車谷長吉はこの者が初代の仕出し屋「柿傳」に下働きとして入り、半年で辞めている。三十歳で東京から故郷播州飾磨に帰り、二年間調理師専門学校に通って免許を取った後のことである。その五年後の昭和五十七年(1982)、小説「萬蔵の場合」が芥川賞候補になるが落選し、車谷長吉は店を転々として勤めた下働きの仕事を止め、再び東京に戻るのである。

 「しかし、すぐそのあと、はなはだ奇妙なことが起こった。馬を馬小屋にもどし、家路についたのだが、不必要なことは一語も言わなかった。ひどく多くのものが停止して微妙な平衡状態を保っている様子だった━━まったく空っぽな夏の空に夕闇が急速に寄せ、それに伴って、この惑星自体が沈んで行くような無音のスピードがその印象を強めたにちがいない━━沈黙せざるをえない雰囲気だった。ひと言でもしゃべれば宇宙の調子が狂ってしまうという感じだ。」(『旅路の果て』ジョン・バース 志村正雄訳 白水Uブックス1984年)

 「処理水「丁寧な説明を」 対策評議会、海洋放出に浜通り首長ら」(令和3年4月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載) 

 「対岸の桜」という小説があり、「私」という不動産業を営んでいる人物が、長年東京で教師をしていたという片足の不自由な者に鴨川の向こうの物件を紹介し、その者は古本屋を始めたのであるが、五年足らずで火を出して亡くなるというのがその話のこれまでの話である。その火事があってから一年経ったある日、その古本屋の主(あるじ)の知り合いだという女が「私」の元を訪れる。事前にその女から「私」に連絡はなかった。女は東京からやって来て、「私」のことは亡くなった古本屋の主の兄から聞いたのだと云う。火事の後の一切の事は、福島に住む主の兄が済ませていた。その兄は焼け跡を更地にし、その更地を「私」が買い取ったのである。火事の原因が漏電かもしれぬとされたのであるが、そうであれば「私」に些かの責任がないとはいえないと「私」は思ったのである。女は五十を過ぎた年の様子で、目立たない化粧をし、痩せていず太ってもいず、小奇麗な身なりをしている。「私」が事務所の中に通すと、座る間もなく女は、「まだ売れてないのであれば、あの土地を売っていただけませんか。」と「私」に云った。火事で死人の出た土地である。目の前の女は事情を知った上でそう云っているのである。土地は売れていない。「物件は確認していますか。」と「私」が訊くと、女は、「いえ、まだ。」と応え、「案内をして貰うのが順序として最初ですね。」と云って頬のあたりの表情をくずした。「私」は古本屋の主の知り合いであると名乗るその女を車に乗せ、女が買いたいというその場所に向かう。女がその車の中で口を開いた。「あの人の左足が不自由になったのはわたしのせいなんです。何か聞いていましたか、あの人から。」「私」は、普段につき合いがあったわけではないということは口に出さず、いいえとだけ応える。「わたしが車を運転していて、事故を起こして、あの人の足をあんなふうにしてしまったんです。あの人とは学生の時からつき合っていて、一緒に卒業して、二人とも教師になってつき合いも続けていたんですが、いざ結婚しようという話になってわたしに迷いが出たんです。漠然とした迷いでもやもやしたままその日ドライブに行って、帰り道にわたしが運転を代わって、目の前の車に気づくのが遅れて、ハンドルを切ったんですが、あの人が座っていた助手席の方がぶつかって。考えごとをしていてあの人に云われてハッとして、遅れたんです。あの人の左足だけが不自由になってしまいました。退院した後にあの人は結婚しようと云ってくれたんですが、わたしは事故を起こした時も迷っていたんですと正直に応えました。一緒になって不自由になった相手の足に毎日負い目を感じ、不自由になった者はいつかそのことで相手を責めるかもしれない、そういうことを克服出来る者もいれば、出来ない者もいる、とあの人はわたしに云いました。わたしは結局一緒にならない方を選びました。あの人はわたしに失望したと思います。それから一度も会うことはありませんでした。それで亡くなったという知らせをあの人のお兄さんから聞いたんです。あの人が教師を辞めて、京都で古本屋をやっていたなんて。あっ、さくら。」車は出雲路橋を渡っていて、女は鴨川の土手の桜を見つけてそう云ったのである。それから古本屋のあった場所に着くまで女は黙っていた。更地の前で止めた車から降りると、女は手を合わせ、「小さいですね。こんなちっぽけな場所で。」そこまで云って、女は込み上げて来るのを堪えるように黙った。更地に生えた雑草に交じってたんぽぽが咲いている。「どうして京都に店を構えたかご存じですか。あの人のお兄さんは何も知らないと云ってましたが。」「私」は知りませんと応えた。店を決めたのが二階の窓から銭湯の煙突を見た時ですと云おうとしたのを止め、「私」は目の前の更地の買い手となるかもしれない女に、恐らくしていないのだろうと思いながら、結婚をしているかどうかを訊いた。女は、していないと応えた。古本屋の主もこの女もしないことに殉じたのである。「京都にそそのかされたんですね、あの人。わたしもそそのかされてみます。」このもの云いは、この土地を買う気持ちに変わりがないということであろう。女は、日を改めて契約に伺うと云ってから、「さっきのさくらを見ていきます。」と、「私」が車で送るのを断った。その日の夜、自分の家に戻った「私」は、部屋の灯りを点け、床に桜の花びらが一枚落ちているのを見つける。部屋の窓は締め切っていて、近くに桜の木もなく、桜の木の下を通った記憶も「私」にはなかった。その桜の花びらを不可思議に思い、「私」はその夜そのまま床に就いたのである。

 「喜劇の次元の悲愴さはまさしく悲劇の対極、対です。悲喜劇というものが実在するように、悲劇と喜劇は両立しないわけではありません。人間的行為の経験は悲喜劇にこそあります。我々はこの経験の核心にある欲望の本質を先人よりはよく知っていますから、倫理の見直しが可能であり倫理的判断が可能となるのです。それは<最後の審判>としての価値を持つ次のような問いで表されます。「汝は汝に宿る欲望に従って行動したか」。」(『精神分析の倫理【下】』ジャック・ラカン ジャック=アラン・ミレール編 小出浩之・鈴木國文・保科正章・菅原誠一訳 岩波書店2002年)

 「福島第1原発処理水、海洋放出へ 政府方針、風評対策など強化」(令和3年4月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 氷店の一卓のみな喪服なる 岡本眸。天麩羅屋でもなく鮨屋でもなく、喪服を着た者らはかき氷を匙で掬って口に入れている。喪服を着ていても腹はへり、腹がへれば飯屋へも入る、がこの者らは喪服姿でかき氷を啜っている。夏のある日葬式か法事の帰り道で軒先に氷の旗が揺れているのを見、暑さに耐えかねていたその内のひとりかふたりが店で休もうと云った。日頃からおしゃべりのひとりが口を開き、いつまでもしゃべっていると横から、とけるから早く喰えと声が掛かる。これが家族であれば、ひとり足りないのは故人である。円山公園坂本龍馬中岡慎太郎銅像がある。坂本龍馬は立ち、刀を握って前に出した中岡慎太郎は傍らで片膝を立ててしゃがんでいる。このふたりが背を向けているその奥に東大谷の墓地があり、その方角からやって来たであろう七八人の喪服を着た四十から六十代の男女が坂道の途中から公園の中に下りて来て、ふたりの像の前で満開の花を咲かせている枝垂れ桜を取り囲み、それまで花を見上げていた者らは何となくこの者らにその場を譲るように、あるいはこの者らを避けるように片側に寄ったり、遠巻きに離れ、喪服の者らはそのことをことさら気にする様子でもなく、自分の携帯電話で桜を撮りはじめる。その中の誰かが声に出して云う、キレイ。花を後ろに黒い女を黒い男が写真を撮る。二三人が桜の前で並び、その表情はことさら明るいわけでもないが、屈託をぶらさげているような顔つきでもない。喪服の一団はそれから、公園の真ん中に植わっている祇園の夜桜の名で有名な枝垂れ桜の前に移動し、全員で並んで見ず知らずの者に携帯電話を渡し、写真を撮って貰う。消費という言葉の意味は、使ってなくすである。桜を消費する、という云いまわしをする者がいる。鼻につく云い方であるが、その者によれば、桜をめでる楽しむ、ではないのである。桜の花が枝から毟り取られ、誰かの口に喰われてなくなるのではない。誰も指一本花に触れたりはしない。が、桜は消費する者によって消費されるというのが、消費という言葉を振りかざす者の云い分であり、桜に限らず世にあるものは消費されるというのがその者の薄ら寒い云い分である。喪服の者らがかき氷を喰い終わる。ひとりが全員の分を支払い、その者の金はあと腐れなくかき氷に消費される。最後に席を立った者が、ガラスの器に差した匙と底に残っている緑色の水を見る。なぜ目がいったのか、その時は分からない。誰かが、見ろ、と云ったのかもしれない。誰かが、この時のことを覚えておけ、と云ったのかもしれない。

 「経験はあてにならない。すべてを経験できるなら、経験もあてになるかもしれない。だが、すべてを経験することはできない。経験とはそういうものだ。しかし、そんな経験のあてにならないところが好きだ、という人もあるだろう。また、あてにならなくても、経験以外になにがあるのか、という人も。」(「カント節」田中小実昌『カント節』福武書店1985年)

 「復興拠点、住民の7割「住まない」 浪江・津島地区アンケート」(令和3年4月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 水上勉に「椿寺」と題する一文がある。「椿寺は京都の北区一条通西大路東入ルの地点にある。大将軍西町というのがいまの町名になっているが、天神川からわずか西へいった南側に小さな瓦屋根の門があり、石畳の参詣道からすぐ墓地につき当る手前右手に、こぶりな庫裡と本堂がならんでいる。閑雅なまちなかの浄土宗派らしい雰囲気といえる。この寺が有名なのは、墓地の奥に加藤清正が朝鮮から持ち帰って、豊臣秀吉がこれを同寺に寄進したとつたえられる五色の八重椿があるからである。」(「椿寺」水上勉『日本の風景を歩く 京都』河出書房新社2000年刊)「椿寺」はこうはじまり、この寺をよく詣でていた上七軒の五十を過ぎたある芸妓が、自分に思いを寄せていた若い帯職人が織った五色椿の帯を締めてその年の上七軒の「北野踊り」に出たことで、この芸妓を囲っていた西陣の生地屋の旦那に縁を切られると、間もなく肝臓に癌が見つかり、その翌年春を待たずに芸妓は亡くなるのであるが、亡くなる前の一時期に帯を贈った帯職人と暮らしたことで、この芸妓の帯職人への思い振りが上七軒の噂になる。が、この芸妓には行方知れずの弟がいて、その帯職人を弟のように思っていたフシがあり、「あのひと、男はんを好きやったいうても、うちらの好きとべつの好きやったようなとこがおしたさかいな……それで、妖気のただようてたいうてますんでっしゃ」と、置屋の女将は水上勉に語る。「入院してまもなく多少の小康を得て、はつ枝(芸妓)は、マンションへ帰ってもいいと、医者にいわれたそうだが、帰らなかった。時に天気のいい日など、帰るふりをして白梅町から天神川にきて、北野の森を眺めたあと、椿寺を散歩して帰ってきた、と見舞いにいった品子(置屋の女将)にいったそうだ。」(「椿寺」)椿寺の五色の散り椿は、この芸妓が最後に見た年のあたりから枯れはじめ、いま植わっているのはその二代目である。大正十三年(1924)、十七歳の中原中也は年上の女優長谷川泰子と椿寺の南側にあった下宿屋で半年の間同棲している。中原中也は、実家のある山口の中学の三年の進級に落第し、医者の親から立命館中学に転校をさせられた身分だった。長谷川泰子は、大正十二年(1923)に等持院の境内に出来たばかりのマキノ映画製作所の大部屋女優だった。等持院の場所は、椿寺から歩いてすぐの嵐電北野白梅町駅から一つ目である。マキノ映画製作所は大正十三年(1924)、東亜キネマと合併し、東亜キネマ等持院撮影所となり、昭和八年(1933)に競売に掛けられいまは住宅地となっている。水上勉は「椿寺」を収めた『日本の風景を歩く 京都』の「あとがき」にこう書いている。「十三歳でこの瑞春院(相国寺塔頭)を出た。奥さまに良子さんが生まれ、そのおむつ洗いをさせられるのが嫌だったせいだ。ほかに原因があろうはずはない。十三歳で、天龍寺派等持院へうつった。等持院は、当時、小僧を募っていて、柳沢承碩という方が若狭の隣村の蓮生寺のご住職だった縁である。私の話をきいて、等持院へ世話したのである。等持院は東亜キネマのある寺で、足利家の菩提寺だった。尊氏公の墓もあった。十五代累代将軍の木像や尊氏公の墓地があるということで拝観寺院である。昔は観光とはいわなかった。足利尊氏国賊といわれた。当時の国史南朝にかたむいていたからである。国賊の墓を守る寺ゆえ、拝観客も少なくて、映画撮影ばかりしていた。等持院といえば一時映画の中心地だった。いわゆるチャンバラ物の中心である。河部五郎、羅門光三郎、小金井勝、嵐寛寿郎らがしょっちゅう来て撮影をやり、監督では、後藤岱山、山中貞雄石田民三衣笠貞之助らが有名だった。私は時にライト用の銀紙板をもって俳優さんの顔を明るくする仕事を手つだった。当時鈴木澄子、花井蘭子らは有名女優である。来ない日はなかった。そんな禅宗の寺の小僧があとで小説を書くような種子を植えつけられたのである。」その関係が長くは続かなかった中原中也長谷川泰子が椿寺の南の下宿にいたのは四月から十月の間で、椿寺の八重椿の花を見たかどうかは分からない。長谷川泰子等持院の撮影所に通っていたのは、水上勉が脱走した瑞春院から等持院に移る九年前である。天正十五年(1589)の北野大茶湯の催し後の寄進であったという椿寺の椿は、その四百年後水上勉の知る上七軒の芸妓が亡くなる前に目にしたのが、その花咲く最後の姿である。椿寺に、与謝蕪村を教えた夜半亭巴人(はじん)の墓がある。こしらへてあるとはしらず西の奥。これが巴人の辞世の句であるという。西の奥が西方浄土のことであれば、私のために用意してくれた、あるいは待っていてくれる浄土があるかどうかは死んでみなければ分からない、あるいは、私にこのような死ぬ時を誰かがこしらへていたのだということを今のいままで知らなかった、ということであろうか。あるいは、これまで生きて来たことのすべてがはじめから誰かの手によってこしらへられていたはずはないが、果たして己(おの)れの来し方が己(おの)れの手で本当にこしらへてきたものであったかどうか本当のところは私には分からない、どうであったか分からぬままこれから私は西の果てに行くのである。

 「批評家のひとりは、来るべきジャズはみんなこの新人の辿る道を辿ることになるだろう、と言っていた。ぼくは、ずうっと聞いていてもこのひとのやっていることを辿るのは容易じゃない、とわかっていた。かれは、楽器でとても奇妙な音をだしていて、かれのメロディーはというと、全体として憶えられるような何かあるひとつのものにピタリとあてはまらない切れぎれの断片でできているみたいに、聞こえるのだった。」(『ジャズ・カントリー』ナット・ヘントフ 木島始訳 講談社文庫1976年) 

 「福島県産「ためらう」1割未満 消費者庁の食品風評意識調査で初」(令和3年3月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 糸桜こやかへるさの足もつれ 芭蕉。ゆき暮れて雨もる宿や糸桜 蕪村。影は滝空は花なり糸桜 千代女。糸桜下の方より咲きにけり 正岡子規。糸桜夜はみちのくの露深し 中村汀女。また風が鳴らす卒塔婆糸桜 皆川盤水。遠ざかるほど糸ざくら風の見え 阪上多恵子。遠くより見つつ来て立つ糸桜 阿部ひろし。暁闇の揺るると見しは糸桜 和田和子芭蕉の句は、花見の酒に酔い、お道化調子の大袈裟なもの云いが口から出た時の気分が見えて来る。蕪村の云いは、日が落ちてどこでもいいと思って入った宿は雨漏りがするおんぼろ宿だった、庭先に咲く糸桜に見惚れたのが失敗だったということであるのかもしれないが、蕪村の美意識は、垂れる枝を雨に見立て、散り出した糸桜の木をその下に立って雨漏る宿としたのかもしれぬ。千代女の句柄は大きい。滝の姿と満開の花が同時に見えているというのである。子規は、見たままを詠むという実践であり、汀女は、糸桜の華やかさの裏にみちのく東北の気候の厳しさを実感したと詠んでいる。盤水の句は、所を限ったうら淋しさの実写であり、多恵子は、揺れる枝のそばでは感じるだけだった風が、糸桜から遠ざかるほどその姿が見えて来たと云い、夜明け前の暗闇が不気味に揺れているように見えたのは糸桜が揺れていたのだ、と和子は気づく。糸桜は枝垂れ桜の別称である。御所の北の端にある近衛邸跡の枝垂れ桜は近衛の糸桜と呼ばれ、早咲きの名所である。枝垂れ桜の古木巨木は各地にあるのであろうが、近衛の糸桜は六七メートルの高さから枝を垂らし、それは音もなく流れ出すこともない滝のようでもあり、内に入って見上げれば図太い雨漏りのようでもあり、確かに風は枝を揺らして己(おの)れを現わし、闇のさ中に迷い来るならば、闇が動いていると思い違いをするかもしれぬ。遠くより見つつ来て立つ糸桜。阿部ひろしは、様々な糸桜への思いは胸に潜め、素っ気なくこう詠む。ああ、あそこで糸桜が咲いている、と思い、いまこうして傍らに立って見ているのは、只々心が惹かれたからである。そうであるから入れ代わり立ち代わりやって来る者らは皆、立ち去りがたい思いでいるのである。

 「曖昧な形のまっ黒な巨大な三角形が、塔のように積み重なって行ったり、またたく間にくずれたり、横に延びて長い汽車のように走ったり、それがいくつかにくずれ、立ち並ぶアラビア杉の梢と見えたり、じっと動かぬようでいながら、いつとはなく、まったく違った形に化けて行った。蜃気楼の魔力が、人間を気ちがいにするものであったなら、おそらく私は、少なくとも帰り途の汽車の中までは、その魔力を逃れることができなかったであろう。」(「押絵と旅する男江戸川乱歩ちくま文学の森6 思いがけない話』筑摩書房1988年)

 「行方不明者につながる手掛かりを 震災10年、浜通りで一斉捜索」(令和3年3月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)