桜の見頃も終わる四月半ばの今宮神社のやすらい祭は、緋色の幕をぐるりに垂らした風流傘を先頭に赤と黒の長いつけ毛と緋色の長い羽織を着た少年らが股を広げた腰構えで跳ねるように舞うのが独特であるが、この風流傘を思わせる「人気笠」が、大和大路通を挟んだ東山建仁寺の惣門のはす向かいにある恵比須神社のゑびす祭で売られている。「人気笠」は麦わらで作った車輪のような輪の回りに風流傘と同じ緋色の布を垂らしたもので、吉兆笹と同じように縁起物の熊手や俵や千両箱を下げてもらうのであるが、「人気大よ世(にんきおおよせ)」と書いた黄色い紙をひと際大きくぶら下げ、それを見上げて読めば、時代をのぼった商人(あきんど)の心に触ったような気分になる。ゑびす祭は八日九日が宵ゑびす、十日が十日ゑびす、十一日十二日がのこり福である。四条通から頭上に渡した案内を潜れば、大和大路通の両側に喰い物の露店がずらりと並び、どこの祭りでも見掛けるような焼き鳥、たい焼、たこ焼、いか焼、焼きトウモロコシ、焼きそば、大判焼、綿あめ、りんご飴、フルーツ飴、べっこう飴、どんぐり飴、バナナチョコ、ベビーカステラ干し柿、肉まん、フランクフルト、牛すじ煮込み、ホルモン焼、どて焼、甘酒の匂いが漂う人混みの流れに行きつ遅れつ漸(ようや)く恵比須神社の鳥居に辿り着く。境内に浮かぶ人波のあちこちで吉兆笹が揺れている。長い列の先を見れば、鉦笛太鼓の音に合わせ繰る繰ると二度三度巫女が舞い、目の前の棚に載せた青笹の枝を一本一本祓っている。笹に縁起物を下げて貰ったら寄り道せずに帰るのが云い習わしであるという。途中で金を遣うと福が落ちるというのである。通りの隅でしゃがみながら二三人でものを喰っている者らで吉兆笹を抱えている者は見掛けない。この云い習わしに従って笹を手に入れる前に金を遣って喰っているのかもしれぬ。が、その者らの一見した見掛けは商人(あきんど)からはほど遠い、吉兆笹には目もくれぬ「愛すべき」者らである。「愛すべき」者らと云ったのは、この者らはたとえば「ダチ」仲間や小さい子どもを抱えた家族で、その背を丸めて買い喰いをする姿が時に切なく、いとおしく思えるからである。福笹をかつげば肩に小判かな 山口青邨

 「母、夕飯を運び来る。験温器を検するに卅七度五分なり。膳の上を見わたすに、粥と汁と芋と鮭の酪乾少しと。温き飯の外は粥を喰ふが例なり。汁は「すまし」にて椎茸と蕪菜の上に卵を一つ落としあり。菜は好きなれどこの種の卵は好まず。」(「明治卅三年十月十五日記事」正岡子規『飯待つ間』岩波文庫1985年)

 「第1原発1号機、1月12日から格納容器調査 水中ロボット使用」(令和4年1月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 昨年の末に出たなかにし礼の短篇小説『血の歌』(毎日新聞出版)に、平成三十年(2018)四月に孤独死で世を去った森田童子が生れ出た時の様子が書かれている。なかにし礼が産婆を迎えに行っている間に、後に森田童子と名乗るなかにし礼の兄の次女、小説では「美納子」と書かれている中西美乃生は昭和二十八年(1953)(他の資料では昭和二十七年(1952)となっているが)1月15日に青森の自宅で生まれ、なかにしが産婆を連れて戻った時には寒い部屋で脱脂綿の山に埋もれていたという。終戦の年に父親を満州で亡くし、戻った小樽の自宅を抵当にして兄が金を注ぎ込んだ鰊漁の事業が失敗した中西一家は間もなく東京に移り、この姪が五歳の時、夏祭りで転んで箸が喉に突き刺さったアイスキャンディを口のまわりを血だらけにしながら舐めていた、ともなかにし礼は忘れがたい童子の様子を書いている。陸軍の特別操縦見習士官として戦争を生き延びた、女にだらしない十四歳年上の兄の姿を描いた『血の歌』は、「教師の恋」となっているが森田童子の「ぼくたちの失敗」が主題歌に使われたテレビドラマ「高校教師」を映しているテレビの画面をカメラで撮る童子の父、中西正一の姿からはじまっている。中西正一は森田童子として自分の娘が世に出る時、己(おの)れが実の父であると世間に名乗ることを弟なかにし礼から封じられ、この翌年の平成五年(1993)に亡くなるまでその約束を守らされた。森田童子のレコードデビューは昭和五十年(1975)である。その前の年、中西正一となかにし礼が重役をしていた芸能事務所にいた風吹ジュンをテレビ局から連れ出してホテルの一室に閉じ込め、引き抜きにあい事務所を移るのを翻意させようとして世間を騒がせたのが中西正一となかにし礼と、後に森田童子のマネージャーとなり夫となる社長の前田亜土であれば、森田童子は頑(かたく)なにその出自を伏せ、その回りも一切口を閉ざしたのである。森田童子、中西美乃生は十五歳から十九歳までなかにし礼と同じ屋根の下で暮らしていた。前妻と離婚したなかにし礼は、「知りたくないの」「恋のフーガ」「天使の誘惑」などの詞が当たり、昭和四十三年(1968)中野に百十坪の家を建て、そこに脳溢血の後遺症で半身不随となっていた母と中西正一の一家が移り住んだ。が、兄正一の度重なる事業の失敗で保証人となっていたなかにし礼は億の借金を背負い、その家も数年後には人手に渡り、ということの顛末を作りものとして書かれているのが平成十年(1998)の直木賞の候補にもなった『兄弟』である。生前になかにし礼が表に出さなかった出来の生硬な『血の歌』は、この『兄弟』の前に書かれたものである。書くきっかけとなったのは、ドラマ「高校教師」で使われた己(おの)れの姪が唄う「ぼくたちの失敗」である。正一の妻が介護をしていたなかにし礼の母が昭和五十二年(1977)に亡くなり、なかにし礼は兄正一と縁を切ったという。『兄弟』の終わりになかにし礼、中西禮三が口にするセリフはこうである、「兄貴、死んでくれて本当に、本当にありがとう」。「高校教師」がテレビで流れた平成四年(1992)、その十年前に芸能界から足を洗っていた森田童子は自分の曲が使われても再び表に出ることはなく、平成二十一年(2009)夫の前田亜土、本名前田正春に先立たれ、平成三十年(2018)に誰に看取られることもなく退院して戻った自宅で息を引き取るのである。十代の終わりに、結局世に出ず幻に終わった森田童子のファン向けの会報誌の編集に加わり、森田童子とも前田亜土とも幾度か言葉を交わした者としてその当時何も知らなかったことを思えば、この期に及んでこれらのことごとは、正月早々胃の中がどんよりするような何事かであった。大晦日から年を跨いで京都にも雪が降って積もったが、元日の晴れの日射しで午後には消えてなくなった。初雪や上京は人のよかりけり 蕪村。下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆。

 「八重の桜も、色あせて、花のにぎわいはすでに無けれど、新緑に浮き立つ心は、犬猫ばかりならず、街道の往来もはげしく、茶店、旅籠、いずれもはんじょうの気色みえたり。われら五人のうち、死のくじ引き当てるは、ただ一人、残る四人は、無事生きのびて、蝦夷地に生業を約束されてあるといえども、各人、おのれこそ死すべきものと覚悟をかためてか、路傍の笑いさんざめき、すべて無縁のことと、さらに振り向くこともなし。ただ、佐々木源弥のみ、しきり出牢の夢を語り、あるいは蝦夷地の寂寥にふれるなどして、閑々たり。」(『榎本武揚安部公房 中央公論社1965年)

 「廃炉、新たな局面 22年にはデブリの試験的な取り出し」(令和3年12月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 その日のちょうど正午近く西陣の外れにいると、西から東から消防車のサイレンが上がり、自転車の足を止めて聞けばそれはどちらもこちらに近づいて来る響きである。ほどなく南の方角からも聞こえて来る。五辻通(いつつじどおり)に何人か人が出ていて、通りを北に入ると直ぐの脇道の突き当りの建物の裏の窓から白煙が上がり、異臭も漂っている。が、人の騒ぐような声は聞こえず、辺りは不穏な静かさである。五辻通に着いた消防隊員が道路の消火栓の蓋を開け、積んだ台車を転がしながら繋いだホースを伸ばして行く。ドアの開いた消防車の運転席から現場や状況の無線のやり取りの声が響いている。救急車が来てストレッチャーを降ろす。五辻通に出ている者には火の手も白煙も見えず、年の入った二人の女は目の前の出来事ではなく病気で入院した知り合いの話をしはじめる。昼飯の支度や仕事の手を止め、大勢が野次馬となってざわつくような気配は、いまのところこの火事にはない。火事は冬の季語である。火事遠し一人が入りてみな家に 白岩三郎。家に入ってテレビが点けっぱなしの茶の間に戻れば、中断していたこの家の者らの団欒は何事もなくもとに戻る。椿散るあゝなまぬるき昼の火事 富澤赤黄男。もっと燃えろ、という内なる後ろ暗い声がこの者には聞こえている。同じ火事の夢を何度か見たことがある。空は晴れ渡り、生まれ育った実家の東の方角にある家屋から急に火の手が上がると、煙も上がらず壁が崩れ瞬く間にその一軒を燃え尽くし、火は隣りの家にも移り、その隣りも同じ勢いで燃え出した。どこにも人影は見当たらず、稲刈りの終わった田圃の向こうで、見慣れた人家が「燃えるべく」して燃えているのである。火事跡の貼紙にある遠い町 林菊枝。この者の同級生は誰に知らせることもなく、この遠い町に行ってしまったのかもしれない。抽斗(ひきだし)に螢しまひし夜の火事 齋藤愼爾。暗黒や関東平野に火事一つ 金子兜太。どちらの句も詩的作為を持って読む者を刺激するが、片や一つの火事は螢となって抽斗に仕舞われ、もう一方は暗黒の世にあっては、上がる真実の声という火事は関東平野の広さをもってしてもただ一つである、というのである。学生時代に通っていた定食屋でボヤ騒ぎがあった。厨房と二階の住まいの一部が燃えたという。半月ぐらいで再開した店に行って、帰りがけに目のぎょろりとした初老の主人から熨斗(のし)に包(くる)んだ豆絞りの手拭いを貰った。が、それから一年足らずで店は閉じた。理由は分からぬが、恐らくは火事によって店の潮目が変わってしまったのである。西陣の火事は、その日の新聞沙汰にはならなかった。

 「夜になると、キッチンは祖母の城になった。そこで祖母は、よく知られた不眠症と根気よくつきあっていた。絶滅した哺乳類についての本を読み、子供のころに集めた鳥の骨格標本を眺めた。「わたしの猫が持ってきた鳥の死骸ですよ」煙草を吸い、チェスの詰め問題を解き、古いフルートを吹いた。そのフルートは日中には使い道のない広い玄関ホールのテーブルの上に置いてあった。この楽器もときおり光を反射した。」(「おばあさん」イーディス・パールマン 古屋美登里訳『双眼鏡からの眺め』早川書房2013年)

 「処理水の海洋放出、政府が行動計画 海外での風評被害調査ほか」(令和3年12月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 九条東寺の講堂と食堂(じきどう)の間の空き地に、夜叉神堂という紅殻格子の二つの小堂が建っている。二つ建っているのは、夜叉に男と女があるからである。この日は弘法市の二十一日で、十二月は終(しま)弘法と呼ばれ境内中に露店が立ち、夜叉神堂の回りは業者の車で埋まり、お堂は駐車場の公衆便所と見間違えそうな様子である。その神堂の東側雄夜叉の前で、足元に黒鞄を置き手を合わせている中年を過ぎた辺りの男がいた。男は背広にネクタイ姿で、弘法市のごったがえする中でも目立つ格好である。深く傾けた顔を上げると、男は雌夜叉の方は拝まず、露店に足を止めるでもなく人混みに紛れて行った。夜叉という鬼はサンスクリットのヤシャあるいはヤクシャの音に漢字を当てたもので、漢字の並びに意味はなく、もとは森の神霊で邪神であったが、釈尊の教えを受けて後、八部衆の一尊として仏法を守護する者となったという。尾崎紅葉の未完の小説『金色夜叉』の、銀行の頭取の息子が嵌めていたダイヤモンドに目が眩んだお宮を蹴った貫一は、許嫁だったはずのお宮が夜叉に見え、蹴られたお宮は両親が引き取って一緒に育ったはずの貫一が夜叉に思えた。はじめからお互いにそう見えていたのではない、熱海の夜に夜叉が現れ出たのである。が、貫一という夜叉はこう云う。「来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が…月が…月が…曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ。」この貫一という夜叉は泣いているのである。お宮は生んだ子にすぐに死なれ、金で人を追い詰める夫との結婚を後悔し続ける夜叉で、高利貸しとなった貫一も夜叉のままである。金輪際この夜叉は夜叉を許さないのである。仏法を守護するはずの夜叉は、仏法を守護するはずの夜叉を許さないのである。これが未完の貫一とお宮である。雄夜叉の仏像に手を合わせていた背広姿の男は、終弘法のざわつく中で熱心に何を祈っていたのであろうか。「今ハ昔、元興寺ノ中門ニ二天在(マシ)マス。其ノ使者トシテ夜叉有リ。其ノ夜叉、霊験ヲ施ス事限リナシ。然レバ其ノ本ノ僧ヨリ始メテ、里ノ男女、此ノ夜叉ノ許ニ詣デ、或ハ法施ヲ奉リ、或ハ供身ヲ備へテ、心ニ思ヒ願フ事祈リ請フニ、一ツトシテ叶ハズト云フ事ナシ。」(『今昔物語集』巻第十七、第五十)夜叉はこのように願いを叶える実績がある。そのためには、夜叉が叶えたいと思うことを願うことである。東寺は北に総門と大門があり、この二つの門を結ぶ参道を挟んで洛南高校と三つの塔頭と東寺保育園がある。この参道にも野菜やお茶や反物や陶器やバッタモノのズックや古着の露店が並び、観智院と保育園の間の日陰の路地には古道具や玩具や古銭や浮世絵や掛け軸や模造刀の古物の業者が毎月の市と同じ場所に店を出している。客はいつもまばらであるが、この日は賑やかな声がしていた。「せーの、ヨイショ。せーの、ヨイショ。」保育園の玄関先で餅搗きを見ている園児の掛け声である。掛け声に合わせ杵を振り下ろす年配の園長の顔は、つつがなく新年を迎えるために真剣で真っ赤であった。門並や只一臼も餅さわぎ 一茶。

 「オトコはすぐに頭の中では二つのことをやりたがるけど、実際たいていはいっときにできひんもんどす。オンナは何か他のことをやってても、子どもが話しかけてくるのを聞くことに慣れてます。子どもが何か質問しかけてくる間にケーキをつくったりしますしね。かばん工場のフェルト加工職人グレース・クレメンツ談」(『仕事!』スタッズ・ターケル 中山容他訳 晶文社1983年)

 「日本海溝地震、最悪想定で死者19万9000人 福島県1200人犠牲」(令和3年12月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載) 

 鹿ヶ谷(ししがだに)法然院の茅葺門の左手に、飛び石をその前に並べた茶庭の中門の様な小さな門があり、普段は閉ざされていて通りすがりの者がその門を潜ることは出来ないが、この門の内にあるのは金毛院という名の寺である。あでやかな紅葉もいまは落葉となった法然院は善気山萬無教寺あるいは本山獅子谷法然院ともいわれ、知恩院三十八世萬無心阿と弟子の忍澂が荒廃していた修行道場を延宝八年(1680)に再興したとされている。この忍澂の隠居所が金毛院で、獅子山金毛院が正式の名である。紫野大徳寺の三門金毛閣にもこの金毛の名が使われている。金毛閣は織田信長の七回忌の年の天正十七年(1589)、千利休が金を集め元の三門に二階を継ぎ足して楼門とし、大徳寺雪駄履きの利休の木像をその二階に祀ってその礼としたが、後にそのことを知った豊臣秀吉はオレに利休の股の下を潜らせるのかと激怒し、利休は切腹をする羽目になる。金毛は獅子の金毛をいい、金毛の獅子は優れた仏教者のことであるという。「金毛獅子変成狗(いぬ)」は、真の仏教徒は狗畜生に身を落とし俗世に住まう人を救済をする、という教えである。が、この金毛獅子の実際は龍と同じようにいまだ誰も見たことのない空想の生きものであり、空想であるが故(ゆえ)に屏風絵には潰れた鼻面(はなづら)顔の回りと尻尾の毛が金色に渦巻く唐獅子として描かれる。が、獅子は神に仕えるものでもある。その神に仕える獅子は狗とならず、屏風に描かれた面(つら)のままで人に交わり舞う。荷を解きて獅子舞となる舟着場 米澤吾亦紅。獅子舞の獅子さげて畑急ぐなり 森澄雄。獅子舞の笛のきこえてこゝへは来ず 安住 敦。舞ひ終へて金色さむし獅子頭 三橋鷹女。この金毛の獅子は、人が獅子の姿に成り代わり世間の災いを祓うのである。獅子舞や師走の空の雪催ひ 富田木歩。

 「楽しい時間だった。二枚のティッシュ・ペーパーを結び合わせたり、一枚のペーパーに結び目を作ったり、丸めた紙を水にひたし、それで自分の好きなもの━━山脈、王宮、魔女、ミミズク、王冠、天使━━を作るのだ。濡れているとぐにゃぐにゃだが乾くと固くなるそれらの紙細工の品は、暗く低い宮殿、うす闇の町に閉じこめられているが、祖母の燭台を持ちこむと、ベッドの下はたちまち光輝く舞踏会場に変わる。」(『聖域』カルロス・フェンテス 木村栄一訳 国書刊行会1978年)

 「東京電力「地質調査」開始 海底トンネル、処理水海洋放出巡り」(令和3年12月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 枯芝にうしろ手ついて何も見ず 角川春樹京都府立植物園には広い芝地があり、いまはすっかり枯れていて、踏んで歩めば靴底からその独特の感触と匂いが伝わって来る。枯芝のあまり広くてかなしけれ 波多野爽波。このような感慨は、たとえば観客席から見ていただけのラグビー場のグラウンドにはじめて降りた者の思いかもしれぬ。枯芝に腰を下ろしたこの者は、何も見ていないという。が、目を開けている限り、その目には辺りの景色が映っている。この者のいる場所がこの府立植物園であれば、葉を落とした木立に目立って明るい赤い色の樹は、ホウである。あるいはこの者はいましがたまでその樹の下に立っていたかもしれぬ。ホウは風が通ると、掌に収まる大きさの三つ手の葉をひらひらと何枚かこの者の頭上に落とした。それからこの者は、十二月の植物園で咲いている数少ない花のひとつの皇帝ダリアを見たかもしれぬ。己(おの)れの背丈より数段髙い皇帝ダリアは、大きな薄い桃色の花弁(はなびら)を茎の先で揺らしていた。あるいは薔薇園でもいくつかの薔薇が咲いていて、オレンジ色で外側の縁が卵に血が混じったように赤いスヴニール・ドゥ・アンネ・フランクという薔薇の名に目が留まる。二年もの間秘密部屋に家族と隠れ住み、捉えられ強制収容所チフスに罹って十五歳で死んだ少女の名である。この少女は日記の中で、どこにもいないキティという人物に話し掛け続けた。あるいは吹けば飛ぶようなジュウガツザクラも見たかもしれぬ。そうであれば「枯芝にうしろ手ついて何も見ず」というこの者は、見て来た花と過ごした時間をその裏に持っている。あるいはこの者は植物園に入ってはみたものの花などには目もくれず、日の当たる枯芝の上でつかみどころのない幸福のただ中あるか、明日の不幸を思案しているのかもしれぬ。ラグビーのゴールを狙うスタンドオフが地面にボールを立て、ちぎった枯芝を宙に撒いて風を見る。数えて下がった位置から走ってボールを蹴る。ゴールが決まれば読みは正しかったのであり、外れれば読み間違いをしたのである。枯芝に紙飛行機の落ちて来し 佐々木美乎。「何も見ていない」視界を紙飛行機が横切った。それは枯芝からこの者が腰を上げるきっかけかもしれぬ。

 「それから雲が出て、その雲がピーツ・ミヒェルとティンツェンホルンの上空から東北方へすすみ、谷が暗くなった。それからどしゃぶりになった。その雨が不透明に灰白色になり、それへ雪がまじりはじめ、ついに雪だけになり、吹雪が谷をうずめ、その吹雪がいつまでもつづいたので、気温もぐっとくだって、そのためにふった雪が湿ったままで溶けずにのこり、谷は湿ったまだらな雪の衣をまとい、斜面の針葉樹の森を黒々と浮きださせた。」(『魔の山トーマス・マン 関泰祐・望月市恵訳 岩波文庫1988年)

 「英、福島県産食品の輸入規制撤廃へ 2022年春ごろの見込み」(令和3年12月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北野天満宮の二十五日は、菅原道真の月命日で天神市が立ち、普段はタクシーが屯(たむろ)している一の鳥居から楼門前の駐車場、東の御前通を築地に沿って上七軒を過ぎた本殿の裏まで野菜、漬物、七味、餅、菓子、海産物、植木、骨董、陶器、古着、古道具、雑貨等々の数百の露店が並ぶ。北門の裏の通りはそのまま西へ進めば、桜でその名を知られる平野神社の正面である。露店の流れはこの平野神社の鳥居の前まで来て、ようやく尽きる。その露店の最後が、通りを挟んだ両角の住宅の軒先で「店」を開いている。一方は普段着姿の三四人がパイプ椅子から足を投げ出し、古着や小物を箱やテーブルの上に並べ、もう一方ではよそ行きのような服装できちんと髪を整えた年配の女がひとり、地べたに敷いたシートに正座をし、鋏を入れていない反物や畳んだ着物や帯を膝の前に並べている。背にしている住宅の壁には、「京染」という大きな字が書いてある。この小奇麗な様子の女は、この家の者かもしれないが、この家の知り合いあるいは関係のない者が玄関先を借りているのかもしれない。ここまで来れば人の通りはまばらで、この女の「店」で足を止める者はいまのところいない。それはこの女が並べているものが、天神さんにショバ代を払っている業者が商うガサツな安物よりも品質が良く値が張りそうで、たとえば足を止めて気楽に売り物に触ってみるようなことをどこか許さぬような雰囲気を漂わせているからかもしれない。このような雰囲気を漂わせるのは町中(まちなか)で本物の「商売」をしている者か、まったく「商売」などをしたことのない者である。時折り冷たい風が吹く中、女は口を真一文字に結び、座布団から手を伸ばしめくれた売り物を直す。天神市の終わりは日没である。あるいは売り物がなくなれば店を開けている理由はなくなる。「京染」と書いてある家の玄関先で反物着物を並べるこの者はどうであろうか。天神市の流れに乗じた、それも端の端にいて、値段も示していない物の前でどれほどの者が足を止めるだろうか。コンクリートの地べたに座布団一枚では、体は冷えて来る。この者がこの家の者であれば、いずれ家の中に駆け込むかもしれない。この家の者でなければ、じっと手足の寒さに耐えなければならない。「京染」の家に駆け込んだ者は用を足した後、今度は玄関戸を開け、内から店番をする横着の仕方に変える。そうなれば今度は風で少々着物がめくれても、出て行って直すのが面倒になって来る。人の通りが何かぼんやりと目に映る。この家の者でない者は、日が西に傾いて漸(ようや)くに射し込む光に開いた両手を当てる。その光を遮るのは、「店」の前で誰かが立ち止まった時である。この頃の日は思った以上に早く傾く。「京染」の家の者は、手早くシートの上の反物着物を片づける。売れ残った、あるいは売れなかった物はこの者にとってそもそも用のない物であったが、その用のない物はまた物置か押入れに仕舞われ、女は夕飯の支度に取り掛かる。そうではなく女が「京染」の玄関先を借りているのであれば、約束の通り家族のひとり、たとえばこの者の息子が車でやって来る。息子はこの者の顔つきよりも、車に積み込む荷物の嵩(かさ)で売れたかどうかが分かる。女は乗り込んだ車の暖かさにほっとするだろう。ハンドルを握る息子は心の内ではじめから売れることはないと思っていて、やはり思った通りであると、いま思っている。女の方も、息子がそう思っている、そう思われているだろうと思っている。どちらも一言も口をきかないのは大方そういう時である。先月もそうだったと息子は思う。が、いま息子の頭に突拍子もない考えが浮かんで来る。母親が車を止めてくれと云い、荷物を鴨川に投げ捨ててしまうのである。あるいは己(おの)れが母親の荷物を捨ててしまうのである。が、助手席の女は、そんなことを微塵も思っていない。息子が用意してくれているという夕食の前に、すぐにでも暖かい湯に漬かりたい、と女は思っているのである。

 「朝が来て、日光が熱くなってくると、村の少年の一人が、コンゴ河の季節も終りに来たことなど少しも考えていないらしく、グラウンドにぴょんぴょんとんできた。それとも、たとえミスタ・フェアスミスと人足たちが密林からやってくる以前の村の生活に友だちや父たちがもどったところで、せめてマンディーズ監督と「ぴりっとした」ゲームができればと願っていたのかもしれない。ミスタ・フェアスミスがウィ・ウィリー・キーラーにあやかって、ウィ・ウィリーと名前をつけたのはこの少年である。「だれもいないところに打て」の名言をのこしているウィ・ウィリー・キーラーは少年の想像力をいやが上にもかきたてた。黒人の少年にしては、とびぬけて頭がよかったから、かたことの英語もおぼえたし、足の動かし方やボールを遠く打つことも飲みこんだ。」(『素晴らしいアメリカ野球』フィリップ・ロス 中野好夫常盤新平訳 集英社文庫1978年)

 「処理水海洋放出のトンネル建設調査、11月27日にも着手、東電」(令和3年11月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)