地を擦つて竹編まれゆく秋日和 西牧トキ子。「地を擦つて」という表現は編まれてゆく長く撓った竹の先をじかに「その目」で見たからに違いない。それが春の日向でもなく冬の土間でもないのは、編まれる竹の質や響きが「秋」なのである。ちなみに「竹の秋」という季語は葉の色が黄ばむ春であり、「竹の春」は秋の季語である。おのが葉に月おぼろなり竹の春 蕪村。京と言へば嵯峨とおもほゆ竹の春 角田竹冷。「今は昔、小野篁(おののたかむら)といふ人おはしけり。嵯峨帝の御時に、内裏に札を立てたりけるに、「無悪善」と書きたりけり。帝、篁に「読め」と仰せられたりければ、「読みは読み候ひなむ。されど、恐れにて候へば、え申し候はじ」と奏しければ、「ただ申せ」とたびたび仰せられければ、「『さがなくてよからん』と申して候ふぞ。されば、君をのろひ参らせて候ふなり」と申しければ、「これは、おのれ放ちては、たれか書かん」と仰せられければ、「さればこそ、申し候はじと申して候ひつれ」と申すに、帝、「さて、何も書きたらん物は、読みてんや」と仰せられければ、「何にても、読み候ひなん」と申しければ、片仮名の子文字十二書かせ給ひて、「読め」と仰せられければ、「ねこの子ねこ、ししの子の子じし」と読みたりければ、帝ほほゑませ給ひて、事なくてやみにけり。」(『宇治拾遺物語』巻四十九「小野篁、広才の事」)その昔、小野篁という人がおられた。第五十二代嵯峨天皇が在位の時、天皇の御殿に札を立てた者がいて、それに「無悪善」と記されていた。天皇が、呼び寄せた篁に、「読んでみよ」と仰せられると、篁は、「読むということであればお読みいたしましょう。ですが、あなた様の前では恐れおおいことに思われますので、申し上げることはできかねます」とお応えしたが、「言い訳はいいから言ってみろ」と何度も仰せられたので、「『悪(さが)なくてよからん(嵯峨なくてよからん)』と申しておられるのではないでしょうか、つまりあなた様をお呪いなされているのでございます」とお応えになると、「お前以外の誰がこんなことを書くか」と仰られ、篁は、「たぶんそうお思いになられるだろうと思い、お応えすまい、とお応えいたしておりました」とお応えすると、天皇は、「お前が己(おの)れの才能に自信を持っていることは分かった、ならばどんなことでも読むことが出来るのだな」と仰せられると、「どんなものでもお読みいたします」と篁がお応えすると、片仮名の「子(ネ、シ、こ)」という字を十二、使いの者に書かせ、「読んでみよ」と仰ると、篁は、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んだので、天皇は微笑みを浮かべ、篁はとがめられずにすんだ。
「いねむりをしていないときは、まるで陽の光りで目がつぶれてしまったとでもいうようにきっちりと目をつぶってミューミュー鳴きつづけ、ときどきおもいだしたようにぴたっと口をつぐむと、ちっちゃなうるんだ瞳でまわりをふしぎそうにみまわすのです。そのしぐさはへんにぎこちなく、どこか精巧につくられたゼンマイじかけの玩具のようにおかしいのでした。そのくせ冷たい牛乳は厭がり、いったんぼくたちが口にふくんで自然にぬくもったあとでないとなかなか飲もうとしないのに、いったん飲みはじめると夢中になり、ぴちゃぴちゃという牛乳を飲む音がふいにせわしなくなったとおもうと、いつのまにか牛乳の沼のなかに身体ごと入っていってしまっていて、もがいているのかじゃれているのか、よくわからないのでした。」(『ねこに未来はない』長田 弘 晶文社1971年)
「廃炉はAIロボットで…ビーエイブル、来春操業へ 遠隔操作、難工事で実績」(令和8年9月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)






















