七月一日の空のまだ明るい夜の七時、四条通月鉾町の、ビルに挟まれた二階屋の二階に白と赤の提灯が灯り、二階囃子と呼ばれる祇園囃子の稽古がはじまる。鉦笛太鼓の音色を「コンチキチン」といい表わすが、さほどに単純な演奏ではない。笛のピーヒャラと太鼓のトントン拍子にチンチンカンという鉦の二つの音が絡(から)みつくように響き音を立てる。この日は八坂神社で「お千度の儀」という生稚児(いきちご)の務めがある。生稚児は十七日の山鉾巡行の際、先頭の長刀鉾の上から太刀で注連縄を切る役を果たす稚児のことで、選ばれた子どもは長刀鉾町と養子縁組の結納を交わし、祭りの間は女の手で作ったものは口に出来ないという。「お千度の儀」はこの生稚児と禿(かむろ)の稚児二人が顔を白く塗り袴姿で、紋付き袴の役員に付き添われ本殿の周りを三回巡り祭りの安全を祈願するのである。この時役員は畳んだ白い布を稚児の手との間に挟み、直接手を握らない。神に捧げた生稚児は直接触ってはならない存在だからである。四条通と交わる新町通を上ってすぐのところに放下鉾(ほうかほこ)の二階屋の会所があり、暗くなりはじめた頃、漸(ようや)く提灯が灯った。通りの向こうから月鉾の囃子が聞こえている。明かりの点いた二階に子どもの浴衣姿が見えるが、まだ囃子は鳴らない。道端から見上げていると、暫(しばら)くして自転車に乗って通りを一人二人とやって来て、中に入って行く。日中の仕事を終え、夕飯を済ませて来れば、八時なのである。「コンチキチン」がはじまる。並びのどの店も閉まっている暗い通りに笛鉦太鼓が響き、節の間(あい)に掛け声が入る。祇園祭は二年中止となった。太平洋戦争中の中止以来である。蚊に喰われたのをしおに背中を向け、角を曲がって遠ざかっても聞こえて来る囃子は、身に染む準備の音である。

 「彼らは行きがけに、煙っている台所をもう一度覗いて見ると、そこで子供のゲルトルートが墓場の腐った木で遊んでいるのが見えた。老スリヒティングは忘れられたように、火の傍に坐っていた。ドロテーアは、いつものようにえんどう豆の上に跪いていたが、こうして柔らかくした豆を明日煮るつもりなのだ。四人のお偉方は彼女が祈るのを聞いた、「あなたの槍は、イエスの心、喜ばしい痛みを与えてくれる……」」(『ひらめ』ギュンター・グラス 高木研一・宮原朗訳 集英社1981年)

 「堆積物、厚さ30~80センチ 第1原発1号機格納容器2地点」(令和4年7月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 姉小路通(あねやこうじどおり)を西に、JR二条駅を潜り、下ノ森通の先の住宅の立て込んだ中に、鳥居を十本ほど立てた小さな月光稲荷神社がある。この辺りにかつて徳川幕府天文台、京都西三条台改暦所があり、月光という名はこの天文台と関わりがありそうであると思うのであるが、平凡社の『日本歴史地名大系29 京都市の地名』(1979年刊)には、「二条御城廻。二条城の南西方にあり、東は上京の町地、南は壬生(みぶ)村、西は西京村、北は西京村・聚楽村・上京の町地にそれぞれ接する。━━寛政十年(1798)まで村落を形成せず、町方に住居する農民が出作いていた。宝暦八年(1758)十二月に、千本通三条上ル西側の畑地を借りて茶店が建ち、通行人に焼餅を商うようになったという(西村善雄文書)。寛政七年(1795)頃、字月光の一千五百坪の地が幕府の天文測量用地になり、年貢作徳料が下げられたが、同十年に天文台用地と建物を二条御城廻が引取ることになった。実測すると坪数は一千九六二歩あって、長屋・門番所・物置・御供待所などを仕切り直して住宅にし、周囲に高塀をめぐらせて、年寄と小百姓が移住した。そしてこの地を西三条台と称するようになった。二条御城廻は、こうして初めて集落となった京都で最も新しい農村である(同文書)。当時、天文台敷地の西方に屋敷神として稲荷が勧請されていたが、これは天保十年(1839)に西三条台の南東部に移建された。現在の月光稲荷神社である(同文書)。」とあり、天文台を建てた場所が「字月光」であり、勧請した屋敷神はその名をこの地名から採ったことが推測されるのであり、であればこの「字月光」とう地名はどこからやって来たのか、というと、詳(つまび)らかにしたものは見当たらない。「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に 水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかへつた午(ひる)さがりの村道を うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた ━━そして私は 見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた…… 夢は そのさきには もうゆかない なにもかも 忘れ果てようとおもひ 忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには 夢は 真冬の追憶にうちに凍るであらう そして それは戸をあけて 寂寥(せきれう)のなかに 星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう」(「のちのおもひに」 立原道造)月光稲荷神社の鳥居には「月光稲荷大明神」という勇ましい響きの額が掲げられているが、教室で習い覚えたこの「のちのおもひに」という詩の中に「月光」はひっそりと置かれ、天文台でその係が見ていたものは日光ではなく、星と月であろうと思うのである。あるいは思い浮かぶ高柳重信の、「月光」旅館 開けても開けてもドアがある、はいかにも耽美に傾いた句であるが、口からついて出るのは忘れがたい何かがあるからだ。あるいは眞鍋呉夫の、寒月光われより若き父ふりむく、も頭で拵(こしら)え、そのセンスを競うような句であるが、同じ眞鍋の、月光にあはれ隈なき土ふまず、は生まれつきの偏平足の哀しみを詠っている。月光に遭ひしことなし大脳は 宗田安正。これも知の勝った句であるが、己(おの)れの意のままにならない己(おの)れの中にある臓器に対し、ささやかな己(おの)れの優位を思う、という価値の反転を鮮やかに示している。ひらひらと月光降りぬ貝割菜 川端茅舎。月光に子の夢はらふ咒(じゅ、呪)をしらず 下村槐太。たとえば銭湯からの帰りの夜、子どもが何かの夢を父親に云う。が、その夢はとても金がかかるものであり、叶えてやることが父親には出来そうもない。この子どもの夢を秘かに断念させる呪文でもあればよいのだが、父親はそのような都合のいい呪文など持ち合わせていないのである。大正三年(1914)、高濱虚子は月光にとどめを刺すような句を詠んでいる。地球凍てぬ月光これを照らしけり。月光稲荷神社の常夜燈に「他力成就」と彫ってあった。自ら光らない月のその光は、「他力成就」ということなのかもしれぬ。ちなみに昔の「字月光」の地名はいま、西ノ京西月光町である。

 「十八日。昨日ノ續キ。豫定通リ六時濵作着。淨吉ノ方ガ先ニ來テヰル。婆サン、予、颯子、淨吉ト云フ順ニ腰カケル。淨吉夫婦ハビール、予等ハ番茶ヲタムブラーニ入レテ貰フ。突キ出シニ予等ハ瀧川ドウフ、淨吉ハ枝豆、颯子ハモヅク。予ハ瀧川ドウフノ他ニ晒シ鯨ノ白味噌和ヘガ欲シクナツテ追加スル。刺身ハ鯛ノ薄ヅクリ二人前、鱧ノ梅肉二人前。鯛ハ婆サント淨吉、梅肉ハ予ト颯子デアル。燒キ物ハ予一人ダケガ鱧ノ附燒、他ノ三人ハ鮎ノ鹽燒、吸物ハ四人共早松(さまつ)ノ土瓶蒸シ、外ニ茄子ノ鴫燒。」(『瘋癲(ふうてん)老人日記』谷崎潤一郎 中央公論社1962年)

 「堆積物、厚さ0,8~1メートル 第1原発1号機格納容器調査」(令和4年6月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 梅雨に入るこの時期、花園妙心寺塔頭東林院で「沙羅の花を愛でる会」が催される。六月十五日の朝日新聞DIGITALは「ナツツバキは、日本の寺院で、釈迦入滅の時に花を咲かせた「沙羅双樹」として植えられてきた。平家物語には無常の象徴として描かれている。」と紹介の記事の中で書いている。が、なぜナツツバキが「「沙羅双樹」として植えられてきた」のかは書いていない。「娑羅」は、日本であれば温室のようなところで温度を管理しなければ育てることが出来ないことがそもそもの理由であるが、極薄黄色の花弁が星形に開く「娑羅」と、黄色い蕊を包んだ小さな碗が割れるように円に開く白い花弁のナツツバキとはそもそも形が違う。「娑羅」は釈迦入滅の二月十五日、季節外れの花を咲かせたといい、撓んで釈迦を覆った一対のあるいは四方にあった「娑羅」の姿は白鶴のようにも見え、あるいは釈迦の遺体を囲んでいた東西南北のそれぞれ二対のうち四本が枯れ、四本が枯れずに残って豊かに繁ったともいう。講談社の『日本大歳時記』(1983年刊)には、「沙羅の花、夏に椿によく似た白色の五弁の花を開くことから夏椿といい、この呼称が正しい植物名で、沙羅の木は、インドの沙羅樹と間違えたことからきている。」と記している。そうであれば、どこかに間違いを犯した者がいるということであるが、庭の砂が水で石が島の見立てであるように、ナツツバキが「娑羅」の代わり、見立てであれば、その理由は、翌日にはあるいは雨に打たれると花を落としてしまう新聞記事にいう「無常」の思いであろうが、それでもナツツバキだけがそういう特徴を持つ花であるということではないことを思えば、この見立てという考えにも疑問が残るのである。京都御所の迎賓館の東の塀の裏にナツツバキの花が咲いていた。この位置は平安京の北東の端、鬼門の方角に当たり、初代摂政藤原良房の邸染殿第の井戸がいまも残っている。良房の娘明子(あきらけいこ)は文徳天皇の女御となり清和天皇を生んだが、『今昔物語集』の巻二十に「染殿后、天宮被嬈乱語、第七(ソメドノノキサキ、テングノタメニネウランセラレタルコト)」という話が残っている。「形チ美麗ナル事、殊ニ微(メデタ)カリケル。而(シカ)ルニ、此后、常ニ物ノ気ニ煩(ワズラ)ヒ給(タマヒ)ケレバ、様々ノ御祈ドモ有ケリ。」后の明子は非常な美貌の持ち主だったが、四六時中「物の怪」に憑りつかれ、いろいろな祈禱をためしていた。金剛山にすぐれた聖人がいるという噂を聞きつけた天皇と父良房はその聖人を口説き落とし、宮中に連れて来て、早速聖人が加持祈禱すると、后の侍女が狂い出し、そのまま続けるとその女の懐から老狐が飛び出して来て、后の病は一両日で止み、父良房は聖人を口説いて宮中に留め置いた。すると「聖人、ホノカニ、后ヲ見奉(タテマツ)リケリ。見モ習(ナラハ)ヌ心地ニ、此(カ)ク端正(タンジヤウ)・美麗ノ姿ヲ見テ、聖人、忽(タチマチ)ニ心迷ヒ、肝砕(キモクダケ)テ、深ク后ニ愛欲ノ心ヲ發(オコ)シツ。然(シカ)レドモ、爲(ス)ベキ方ナキ事ナレバ、思ヒ煩(ワヅラヒ)テ有ルニ、胸ニ火ヲ焼クガ如ニシテ、片時ヲ思ヒ遇(スグ)スベクモ思(オ)ボエザリケレバ、遂ニ心アワテ狂ヒテ、人間ヲ量(ハカリ)テ、御帳ノ内ニ入テ、后ノ臥(フサ)セ給(タマ)ヘル御腰ニ抱付(イダキツキ)ヌ。」后の色香に血迷った聖人は后を犯してしまい、捕らえられると、「「我、忽(タチマチ)ニ死テ鬼ト成テ、此后ノ世ニ在(マシ)マサム時ニ、本意ノ如ク、后ニ陸(ムツ)ビム」ト。」私はいますぐ死んで鬼となって、后が生きている間じゅう后の心の赴くままに睦みあうのだ、と云い放ち、それを聞いて恐れをなした父良房は、聖人を山に放免する。が、「「本ノ願ノ如ク、鬼ニ成ラムト」思ヒ入テ、物ヲ食ハザリケレバ、十餘日ヲ経テ、餓へ死ニケリ。其後、忽(タチマチ)ニ鬼ト成ヌ。」こうして鬼となった聖人は、「俄(ニハカ)ニ后ノ御(オハシ)マス御几帳ノ喬(ソバ)ニ立タリ。━━而(シカ)ル間、此ノ鬼ノ魂、后ヲ悦(ホ)ラシ狂ハシ奉(タテマツリ)ケレバ、后イト吉(ヨ)ク取リ疏(ツクロ)ヒ給(タマヒ)テ、打チ咲(エミ)テ、扇ヲ差シ隠シテ、御帳ノ内ニ入リ給(タマヒ)テ、鬼ト二人臥(フ)サセ給(タマ)ヒニケリ。」后は普段と変わらぬ様子で毎日現れる鬼と愛おしく接するのである。「而(シカ)ル程間、例ノ鬼、俄ニ角(スミ)ヨリ踊リ出(イデ)テ、御帳ノ内ニ入ニケリ。天皇、此レヲ奇異(アサマシ)ト御覧ズル程ニ、后、例ノ有様ニテ、御帳ノ内ニ忩(イソ)ギ入リ給(タマヒ)ヌ。暫(シバシ)バカリ有テ、鬼、南面ニ踊リ出(イデ)ヌ。大臣(父良房)・公卿ヨリ始テ、百官、皆現(アラハ)ニ此ノ鬼ヲ見テ、恐レ迷テ、奇異(アサマシ)ト思フ程ニ、后又取次(ツヅ)キテ出(イデ)サセ給(タマヒ)テ、諸(モロモロ)ノ人ノ見ル前ニ、鬼ト臥サセ給(タマヒ)テ、艶(エモイハ)ズ、見苦キ事ヲゾ、憚(ハバカ)ル所モナク爲(セサ)セ給(タマヒ)テ、鬼起ニケレバ、后モ起テ入ラセ給(タマヒ)ヌ。天皇、爲(ス)ベキ方ナク思食(オボシメ)シ嘆テ、返ラセ給(タマヒ)ニケリ。」天皇は目の前の后と鬼の行為に為すすべなく嘆いたという。「然(シカレ)バ、止(ヤ)ム事ナカム女人ハ、此事ヲ聞テ、専(モハラ)ニ、如然(シカノゴト)シ有ラム法師ノ近付クベカラズ。」高貴な女人をみだりに法師に近づけてはならないという戒めである、という話である。禅寺の庭に咲く「沙羅双樹」として「無常」の意味のついたナツツバキが、鬼となった聖人と夜ごと交わる天皇の后の実家の井戸のそばに植えられていることは、何事かであり、それはナツツバキを「沙羅双樹」とした些(いささ)かの胡散臭さを思うことでもあるのである。沙羅は散るゆくりなかりし月の出を 阿波野青畝。

 「折りそへました一枝の小菊は、妹が毎年咲くのをたのしんでゐた花で、鎌倉の方へ住まふやうになつてからも、根分けして移し植ゑてゐたくらゐでございます。あるじの変つた宿の庭に、どんな風情で咲いてゐることやらと、秋晴れの後圃(うしろには)に立つて、なにか和歌に似たこゝろでおもひ浮べました。」(「夢」野上彌生子『野上彌生子全集 第六巻』岩波書店1981年)

 「原発事故、国の責任認めず 最高裁初の判断、津波想定以上」「原告「納得できない」 原発集団訴訟最高裁の判決を受け」(令和4年6月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 

 六月十日に、伏見稲荷で田植祭の神事があった。千本鳥居から逸れた斜面の下の沼地に、二つに分けた百坪の田と石垣の上に舞台があり、辺りを樹木で囲まれたこの「神田」の舞台に、十人ほどの神官と相撲の行司のような姿の者と、若苗色の「汗衫(かざみ)」という衣装を着た神楽女(かぐらめ)が四人、笛と箏(こと)を奏する者が数名に次いで二十人ほどの水色の衣に茜襷に菅笠の早乙女と白衣に紺の手甲脚絆の田人(たじん)が粛々と上がり、腰を下ろす。神官の「お祓い」があり、行司のような姿の者が早乙女と田人に仕切りの声を掛けると、神宮から形だけの苗を受け取り、水を張った「神田」に下りてゆく。「神田」にはすでに苗の束があちこちに投げ込まれてあり、早乙女と田人は背の向きを互い違いに畔で一列になると、三年振りだという田の泥にそろりとそれぞれ己(おの)れの一歩を踏み入れる。笛と箏の演奏がはじまり、神楽女が舞台の上をゆるりゆるりと移動し、顔の向きを正面の「神田」にとどめたまま両腕を振って「御田舞」を舞いはじめる。演奏と同時にこのような歌も唱しているが、「神田」のこちら側までは聞こえて来ない。「山城や 稲荷の神の み田祭り いざ諸共に 行きて舞はばや。八束(やつか、長い)穂の 稲荷のみ田におり立ちて 舞ひつ奏でつ 植うる早乙女。稲荷山 かげを浸せる斎田(いわいだ)に 八束垂穂の秋の色みゆ」伏見稲荷は『風土記』の「山城國」の逸文にこう記されている。「伊奈利社。風土記に曰(い)はく、伊奈利と稱(い)ふは、秦中家忌寸等(はたのなかつへのいみきら)が遠(とほ)つ祖(おや)、伊侶具(いろぐ)の泰公(はたのきみ)、稲粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃(すなは)ち、餅(もちひ)を用(も)ちて的(いくは)と爲(な)ししかば、白き鳥と化成(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生(お)ひき。遂(つひ)に社の名と爲しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過(あやまち)を悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖(う)ゑて禱(の)み祭りき。今、其の木を殖(う)ゑて蘇(い)きば福(さきはい)を得、其の木を殖(う)ゑて枯れば福あらず。」山城國風土記によると、伊奈利社の成り立ちは、秦の中家(なかつへ)の忌寸(いみき)らの遠い祖先である秦氏の伊侶具が、稲や粟を大いに朝廷に納め、富み栄えていた時、搗いた餅を弓の的にして矢を射ったところ命中し、その餅が白い鳥になって山の峯に下り立つと、そこから稲が生い茂り、そこに社を建て伊奈利と名づけた。後の末裔が、この犯した罪を懺悔して社に生えていた木を根のまま抜いて、本殿に植えて祀った。今日、社の木を同じように根ごと抜いて植え、そのまま根つけばその年は吉で、枯れれば凶という年占いになっている。「伊禰奈利」が「稲生り」となり、社の神像に稲を負わせ、「稲生り」は「稲荷」という字になったのだという。この稲荷山は元々神奈備山という農耕神の山であったのを渡来人秦氏が己(おの)れの信仰の山としたのである。早乙女と田人の田植えは、神楽女の優雅な御田舞との関わりが際立つこともなく淡々と進み、舞いが果て、行司のような姿の者が、やめと声を掛けると、田に空きを残したまま早乙女と田人は「神田」から上がって行った。元禄二年(1689)四月二十二日、松尾芭蕉須賀川に着き、『奥の細道』に「風流のはじめや奥の田植うた」と詠んでいる。旅人芭蕉はみちのくの田植え唄を聞き、風流というものの味わい方はこのようなところからはじまったのかもしれぬと思う。が、日向西郷村にはこのような田植え唄が残っている。「腰の痛さよ せまち(畔)の長さ 四月五月の日の永さ 四月五月は 乳飲子が欲しや 畔に寝かせて乳飲ましょ 四月五月は 寝てさえ眠い 憎いしば茶が夜寝せぬ」この「腰の痛さよ」が田植えである。神事の後、早乙女の幾人かが取材を受けていた。早乙女はどの者も高齢で、カメラに向けている顔は晴れがましそうであった。田が植わり仏壇のもの磨かねば 水谷 靖。

 「揚羽蝶が叩き落されてしまうと、窓辺に立っていた例のふたりはすぐさま厳粛な表情をとりもどし、外を向いて後ろ手を組み、深遠な思索にふけった。彼はふと思った。この真面目くさった連中は、ひょっとして、毎日こんな風に窓際に立っていたのではあるまいか。ふだんは気にもとめなかったが、今度自分も仲間入りしたので、ようやく気づいたのかもしれない。ふたりは棒杭のように立ちつづけ、終業のベルが鳴るとようやく鞄を取って帰っていった。彼は、ふたりが通りを歩く姿も真面目そのものであるのに気づいた。」(「蒼老たる浮雲」残雪(ツァンシュエ) 近藤直子訳『蒼老たる浮雲河出書房新社1989年)

 「葛尾の復興拠点6月12日「解除」 帰還困難区域、復興・再生へ」(令和4年6月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 六月二日は天正十年(1582)、毛利軍と豊臣秀吉の戦いに出陣させられた明智光秀が、安土から上洛し手薄の人数で本能寺に泊まった織田信長を自刃に追い込んだ日であり、寺町通鶴山町の阿弥陀寺では「信長忌」の法要がある。信長と阿弥陀寺の関わりを『京都坊目誌』はこう書いている。「本寺は天文年中(1532~55)僧清玉、近江国に開創し(或は永禄十年(1567))、織田信長の帰依を以て之を京師に遷し、上京芝の北(今、上立売大宮東入南側に直る)に寺域を賜ふ。元亀元年(1570)正親町(おおぎまち)帝綸旨を下し、堂宇を建立せしめらる。天正十年(1582)六月二日、信長父子逆臣明智光秀の為に弑(しい)せらる。清玉其遺屍を本寺に収め墓を築く。天正十五年(1587)豊臣秀吉命して今の地に移す。」角川春樹は「本能寺の変」を俳句として「向日葵(ひまわり)や信長の首斬り落とす」と詠んだが、この句は角川春樹の父、角川書店の創業者角川源義の句「ロダンの首泰山木(たいざんぼく)は花得たり」を頭の傍らに置いたであろうことは想像がつく。父親の会社に入った春樹は己(おの)れの「存在理由」のため明智光秀の勢いで、父源義あるいは出版業界の「首」を斬り落とさねばならず、角川春樹の「変」は角川映画を生み、薬師丸ひろ子を生むのである。「ロダンの首泰山木は花得たり」この「ロダンの首」は彫刻家ロダンが彫った人をモデルにした頭部の作品か、あるいはロダンが自分自身を彫った自我像かもしれない。そのいずれであってもこの「首」は白い大理石で出来ていて、庭に植わっている泰山木が枝先にその「首」と大きさも色も同じ花を「得たり」というのである。あるいは泰山木が「得た」咲きはじめの花はアナロジー、類推として美的作品である「ロダンの首」を思わせる、ということである。この「得たり」という云いは、泰山木が自ら咲いたのではなく、何者かによって齎(もたら)され恰(あたか)も「得た」かのように見えるというのである。明治に入って西洋人が携えて来たという泰山木の花に対するこのような思いは次のような句にも示されている。聖書開く泰山木の花の下 平居澪子。あるいは、泰山木開く気配に躓(つまず)きぬ 一ノ瀬タカ子。江戸幕府キリシタン弾圧を行ない、キリスト教徒がその信ずるものを変えた時「転び」と呼ばれた。この「躓きぬ」はこの「転び」に通じるようでもあるのである。薔薇が盛りの京都府立植物園で泰山木が最後の花を幾つかつけていた。その姿かたちで思い起こす蓮華は、池の泥の中にあるいは仏教の極楽浄土に「自ら」咲く花であるが。

 「春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山 持統天皇」(『万葉集』巻第一の「二十八」)

 「福島県、新型コロナ114人感染 郡山27人、福島といわき各20人」(令和4年6月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 紫野大徳寺の坂を上った西の離れの塔頭孤篷庵(こほうあん)の公開は七年振りであるという。孤篷庵は小堀遠州の寺である。小堀遠州は初代の伏見作事奉行で、二条城、後水尾上皇御所などを造作し、江戸期の作庭を語ればその筆頭に名が挙がる人物である。孤篷庵の方丈も書院も茶室も重要文化財であれば自由気ままにうろつくことは許されず、荷物はすべて取り上げられ、撮影も禁じられ、狩野探幽探信が描いた壁襖あるいは障子からは最低三十センチの距離を取り、十人前後が集まると案内の指示に従って室内を進むことになる。はじめの案内で本堂、方丈の縁に坐らされ庭を見る。長方形の庭はただ真っ平らの赤土で苔も白砂も石も池も草木も何もない。が、正確に云えば赤土の上に微かな流れ模様の筋が入り、縁の手前と庭の奥何本かの赤松の足元に丈を違えた二重の植え込みが一直線に低く刈り込まれている。この刈り込みは「波」の見立てで平らな赤土は「海」の見立てである。庭の南の前方にいまは樹木や建物に隠れ見えなくなった船岡山があり、その船岡山がこの「海」に浮かぶ船の見立てであったという。庭の左手に丸みを帯びた屋根の中門がある。これを編笠門といい、それを潜った目の前に何本か植わる幹のひょろりとした檜は土の下に瓦を敷き詰められ成長を止められていると云い、冬、枝に積もる雪を白牡丹に見立てるという。次の案内は茶室「忘筌(ぼうせん、忘荃)」であるが、手前の通りの間でまた腰を下ろす。松や小ぶりの木が植わり苔の生えた手前に玉石を敷いた庭に面して手摺りが設(しつら)えてあり、ここからの眺めは船の中から水辺を見ている、水面に浮かんだ「船」の中にいるという見立てである。玉石と苔土の境に並んだ石は水際に立つ「波」である。「忘筌」は西に向いた茶室で、次の間の書院の庭の様子を隠すように丈の高い植え込みを施した露地の縁の上半分に障子を張って直接西日が入らないようにし、下半分から射し込んだ光が床から砂で擦って木目を浮かせた天井に反射し、壁の全体が余白の如くに七十歳の狩野探幽が墨の舟や松や人を置いた室の明かりとなる。これが千利休の腰を屈めて入る二畳の茶席ではなく、古田織部の流れを汲む小堀遠州の八畳の書院茶席である。露地に据えた手水鉢に日光が浮かべばその光は天井でゆらゆら揺らぐという。臼の形をしたこの手水鉢の胴に「露結」という二字が彫られている。これが「忘筌」と対になっているというのである。「忘筌」は『荘子』外物篇第二十六の「十三」に出て来る言葉である。「荃(せん)は魚を在(い)るる所以(ゆえん)なり。魚を得て荃を忘る。蹄(てい)は兎を在(い)るる所以(ゆえん)なり。兎を得て蹄を忘る。」筌は魚を掴まえるためのものである。魚を摑まえてしまえば筌のことを思い返したりはしない。蹄(わな)は兎を掴まえるためのものである。兎を掴まえてしまえば蹄(わな)のことなど忘れてしまう。「露結」あるいは「露結耳」とは兎のことであり、臼の形をした手水鉢は兎が餅を搗く臼なのである。この「忘筌」という言葉はこの庵を建てた小堀遠州の「境地」であるという。その「境地」とはそのことで何ものかを手に入れたならばあるいは何ごとかを分かったならば、世にあるための役職などというものは「忘れてしまう」ものであるということである、というのが案内の説明である。次の間の書院「直入軒(じきにゅうけん)」は遠州がものを考え床を延べた間である。南面の庭は、遠州の生まれ故郷の近江、琵琶湖の景色を見立てているという。丸い石を二つ三つ置いた赤土は湖で、たとえば手前の赤松を植えた「島」が「唐崎」で、奥の浮見燈籠が「浮御堂」で、緩く曲線を描く「陸(くが)」に架かる小さな石橋が「瀬田の唐橋」である。日を過ごす間(ま)から見る庭を故郷の景色に見立てて作るというのは平凡な発想のように思える。が、他に見立てる景色があるのかと思った時、ここを「孤篷庵」と名づけた遠州は、他のどこかあるいは架空の景色を思い描いたりはしなかったに違いない。「孤篷庵」の「孤篷」は、ぽつんと水の上に浮かぶ一艘の小舟のことなのである。先の「忘荃」の一節には続きがある。「言は意を在(い)るる所以(ゆえん)なり。意を得て言を忘る。吾れ安(いず)くにか夫(か)の言を忘るるの人を得て、これと言わんかな。」言葉は考えを掴まえるためのものである。考えが実を結べば言葉など忘れてしまってかまわない。わたしはいま使っている言葉そのものを忘れることをしてきた人、そのような「常識」を超える人と出会って思いを通じ合わることが出来ればと思う。が、人生のここに至るまでそのようなことがなかったがゆえに遠州は己(おの)れの庵を「孤篷」と名づけたのであろう。であるが「孤篷庵」の内に遠州は「忘荃」を掲げ、理解し合える者の出現を待ったのである。

 「「木と木と相い摩(ま)すれば則ち然(燃)え、金と火と相い守れば則ち流る。陰陽錯行(さくこう)すれば則ち天地大いに駭(うご)き、是(ここ)に於いてか雷あり霆(てい)あり、木中に火ありて、乃(すなは)ち大槐(だいかい)を焚(や)く。甚憂(じんゆう)あれば両(ふた)つながら陥(おちい)りて逃るる所なく、チンジュンして成(平、たいら)ぐを得ず、心は天地の間に県(かか)るが若(ごと)し。慰暋(うつびん)沈屯(ちんちゆん)して、利害相い摩(ま)すれば、火を生ずること甚だ多く、衆人和を焚(や)く、月は固(もと)より火に勝たず。是に於いてか僓(頽、たい)然として道の尽くることあり。」木と木が摩擦しあうと火が出て燃えあがり、金属と火とをいっしょにしておくと溶けて流れだす。陰の気と陽の気とがその運動を乱すと、天地が変動して、ここに雷鳴がとどろき稲妻が走る。木のなかに火が生まれて、そこで槐(えんじゅ)の大木も焚(や)けおちる。ひどい心配ごとがあると、内外両面ともに悪くなってのがれようもなく、落ちつきなく気づかいをするばかりで安らぎも得られず、心はまるで天地のあいだで宙づりになったようである。沈鬱な混乱のなかで利害の情がせめぎあうと、体内の熱は火となっていよいよ燃えさかり、人々はそのために本来の和気を焚(や)きつくしてしまう。陰性の月はもちろん火には勝てないものだ。こうして、崩れ落ちるようにして体内の真実の道はつき果ててしまうことになるのだ。」(『荘子』外物篇第二十六の「一」金谷治訳注 岩波文庫1983年)

 「第1原発1号機、広範囲にデブリ存在か、堆積物から中性子計測」(令和4年5月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 五月二十一日が「小満」であるという。「陰暦四月の中で、立夏の後十五日、陽暦の五月二十一日ごろにあたる。陽気盛んにして万物しだいに長じて満つるという意である。」(『カラー図説日本大歳時記』講談社1983年刊)たとえば、丸太町通から雙ヶ岡(ならびがおか)の西の裾に沿って国道162号を上り仁和寺の門前から来る一条通を福王子神社の角で越してその先、周山街道となって下りはじめる右手に見える嵯峨野病院の看板の足元に「いづみ谷 西壽寺」という小さな石の道案内が立っている。この案内に従って道を上って行けば民家の間を抜けて山裾の上の嵯峨野病院の入り口に出、そのまま傍らを奥に進めば西壽寺(さいじゅじ)である。尼寺西壽寺は明治初年に一度廃絶し、脇にモミジや松の植わる石段の参道はその後に整えられたようなさほどの年月の手垢のない様子で、それが最も分かるのは本堂手前の緩いスロープから入る急斜面を拓いた墓地のセメントや段々の新しさである。色の新しい土の上に古い石塔や新しい墓石がまばらに建ち、あるいは小さく幾つもに区切った区画のひとコマひとコマに「愛」「感謝」などと文字を彫った薄い石の板が蓋をしたように置かれていて、別の区画ではそのプレートのような石を囲むように丈の短い色とりどりの花を咲かせている草花が植わっている。あるいはまだ幹の弱々しい桜の下に散骨もしているという。このような段々畑のような墓地を縫うように斜面を上ってゆくといつしかこの「山」の頂上で、その狭い天辺まで均され墓地として「売り」出されている。偶々(たまたま)山門を出た帰り際、バイクで戻って来た墨染ヘルメット姿の住職に行き合った。段々墓地はこの尼さんが「喰うため」に為したことである。墓地を上りながら振り返れば西壽寺は山を二つに割ったような谷の根元の上に建っていて、そちこちに切り株がそのまま残る裸になったこの「山」の頂上に立てば、下の谷から家並の一列が広がって市街となってゆく様がよく見える。雙ヶ岡がその広がりに瘤のように些(いささ)かのじゃまをしているが、遠くは京都タワーの姿もはっきり目に入る。図らずも足の向くままこの寺の「山」の頂上まで上り、街を一望するところに立って深呼吸の真似をすれば、天地の「万物しだいに長じて満つる。」という「小満」は、この思いもよらぬ不意の時にこそそう思わせるに相応(ふさわ)しい「思い」であるかもしれぬ。

 「書いたものはすべてではない。それは時に最良の部分を取り逃してしまう。また、書こうとすれば生きることをあきらめなければならない。ヴィルパリジ夫人のサロンのうちに、この二つのパラドックスプルーストは読んだのであった。」(『プルーストの部屋『失われた時を求めて』を読む』海野弘 中央公論社1993年)

 「廃炉、処理水放出へ「インフラ期待以上」 IAEA事務局長が視察」(令和4年5月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)