いちめんの黄色は背髙泡立草 今井杏太郎。御室仁和寺の門前はいま、このような様子である。あるいは、忘れゐし空地黄となす泡立草 山口波津女。三千九百平方メートルの空地に出来るはずだったガソリンスタンドとコンビニエンスストアは幻に終わり、三階建てのホテル計画は滞っているという。土地の所有者が蒔いたのではない。泡立草の種はもともと土の中にあったものか、勝手にやって来たものである。その勝手には手ごころを加えるような容赦がない。後々計画通りに事が進めばコンクリートの下敷きになるのであろうが、そんなことは知ったことではないというのが背髙泡立草の云い分である。仁和寺から西へ七、八キロの、愛宕山大鷲峰の山腹に月輪寺がある。源頼朝との関係がおかしくなって失脚し、法然のもとで出家した摂政関白に昇りつめた九条兼実(くじょうかねざね)が晩年を過ごした寺である。承元の法難(承元元(1207)年)と呼ばれる、後鳥羽上皇に弟子の安楽と住蓮が難癖をつけられ、その教えである念仏もろとも法然親鸞流罪が言い渡された時、二人は月輪寺を訪ね、兼実は離別を惜しんだ。後に東国から京に戻った親鸞は、流罪が解けてほどなく死んだ法然を偲び、月輪寺を訪れる。その道中で村人から塩で炊いた大根を振る舞われた。親鸞はその礼に辺りに生えていた薄を折ってその穂を束ね、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」と書いて渡した。これは「南無阿弥陀仏」と同じ名号、唱えの言葉である。「南無阿弥陀仏」が、阿弥陀仏様に帰依します、であれば、「帰命尽十方無碍光如来」は、慈悲の光で世界を影なく照らしてお救い下さる如来様に身心を捧げ帰依いたします、と唱えるのである。が、唱えるのには「南無阿弥陀仏」よりもいかにも厳(いか)めしい。が、この厳めしい字面(じずら)をたとえば目の前で揺れる一面の背髙泡立草に重ねてみる。「帰命尽十方無碍光」遮るものが何一つなく辺り一面輝くような黄色い花は、己(おの)れの命(めい)に帰すこと、従うことに尽くしている。但し、この景色に如来の二字の出る余地はない。親鸞が振る舞われた大根は、鳴滝の了徳寺に大根焚きとして残っている。三千本の大根を外に据えた竈で焚く師走の行事である。世の末の花か背髙泡立草 矢野 絢。

 「昨夜はかなり雨が降ったが、今日は空が明るくなってきた。感染ゼロの団地では、徐々に内部開放が進んでいる。今日は窓の外で、子供の笑い声が聞こえた。まったく久しぶりのことだ。団地の外に出ることも許された。ただ、時間制限は守らなければならない。」(「三月二二日 野火は焼けども尽きず、春風吹けばまた生ず」方方(ファンファン) 飯塚容・渡辺新一訳『武漢日記』河出書房新社2020年)

 「元生徒ら「懐かしい」…大熊中、10年ぶり開放 解体控え私物返却」(令和3年10月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北嵯峨広沢池(ひろさわのいけ)の北の縁の底の尖った茶碗を伏せたような朝原山は、その麓にかつて遍照寺があったため遍照寺山とも呼ばれているが、池の西の稲刈りが終わって曼殊沙華が萎(しお)れている田圃道で十月二日の晴れた真昼に耳にした、町中(まちなか)ではとうに聞こえなくなったミンミンゼミの鳴き声は、この朝原山の山の中からしている声で、時期の外れた蟬の声と云えばそれまでであるが、些(いささ)不思議な気分にもさせられたのである。ひと月以上耳にしなくなっていたその鳴き声は妙な懐かしさで耳に響き、それはたとえば目に見えている景色は何も変わらぬまま何かの力でひと月前に引き戻されてしまったようでもあり、十一カ月経ったいまと同じ場所に来てしまっていてもその間の記憶がまったくないといったような不思議な気分である。あるいは、と別の思いが頭に浮かぶ。いま聞こえている声はひと月前に鳴いた蟬の声で、その声がこの世のどこかを巡り巡って聞こえているのではないか。遍照寺山に辿りつくまでひと月の時間が経った声であると。もしそうであれば成虫になってからの蟬の寿命を考えれば、すでにその寿命は尽きていて、いま聞こえているのはひと月前に死んだ蟬の声であるかもしれぬと。池の畔(ほとり)にある児社(ちごのやしろ)の裏のコスモスが咲く田圃を潰した空地で、親に連れられ集った子どもらがサッカーの球を蹴っている。児社にはひとりの侍児が祀られている。遍照寺を開いた第五十九代宇多天皇の孫の寛朝僧正が長徳四年(998)に亡くなると、「小児寛朝ノ登天ヲ歎キ、釣殿橋ヨリ、此ノ池(広沢池)ニ投シテ死ストナン━━」(「嵯峨行程」黒川道祐)と、寛朝僧正の死を悲しんだ侍児が後追いの入水をしたという。名の伝わらぬこの侍児が水に没した時の音は、耳を澄まさねば聞こえぬほであったかもしれぬが、それから一千年の後のいまもその音は、この池を満たす水のさざ波に混じり聞こえるはずである。

 「下らない、下らない。こういうふうにしてぼくは自分の前に幽霊を迷い出させるのだ。ぼくは、たとえ表面的にではあれ、ただ<そのあと…なければならぬ>とか、とりわけ<振りかけ…>の個所にのみかかずらっていた。風景描写のなかに、ぼくは一瞬、何か本物を見たような気がした。」(「<日記>一九一二年・三月十日」フランツ・カフカ 谷口茂訳『カフカ全集7』新潮社1981年)

 「広島と長崎の知見、知る人ほど少なく、原発事故の遺伝的影響不安」(令和3年10月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 JR嵯峨野線丹波口駅は、平成三十一年(2019)に梅小路京都西駅が間に出来るまで京都駅から一つ目の駅で、改札を通って北の口から出れば目の前が広い五条通で、駅の高架線路を挟んだ西と東の両側は青果水産物を扱う京都市中央卸売市場である。丹波口駅には広場も駅前商店街もない。駅の名の丹波口は、ここから都の西の丹波に通じる丹波街道の関所があったからである。駅の東側にある青果1号棟の南側一帯に遊里島原があった。その名残りを留めているのが置屋として今も営業をしている輪違屋(わちがいや)と揚屋だった角屋(すみや)の細い格子が目に残る古色蒼然の二階建の木造の建物である。取り沙汰される歴史の記憶では、桂小五郎伊藤博文輪違屋の桜木太夫に入れ揚げ、新選組芹澤鴨は角屋で派手な宴会を開いた日の夜に、戻った壬生(みぶ)の屯所(とんじょ)で土方歳三などの身内に殺されている。この二つの建物のためにそうしたような石畳風の舗装を施した通りには、目立たぬ様子でホテル旅館や飲食の店がぽつぽつとあっても、昭和三十三年(1958)の売春防止法の施行まではそうであった色街から差し代わるように慌ただしく建て替わった住宅で埋まっていれば、この石畳風の舗装は昼の明かりの下(もと)では一帯を落ち着きなく白々とさせるばかりに見える。寛永十八年(1641)、それまで六条新町上ル辺りにあって六条三筋と呼ばれた幕府公認の唯一の遊里が、洛西朱雀野の畑地に移転をさせられ島原と呼び名が変わるが、市中から遠くなり、新たな遊里があちこちに出来出すと客足は遠のき、昼に開け夜になると門を閉ざして大尽客だけを相手にしていた商売を、享保十年(1725)にひと月の半分の夜を職人や手代などの客に開放するようになり、以後島原の敷居は低くなる。新選組が京の治安維持部隊として姿を現すまでそう遠くない、徳川の終わりが近づいていたその日の深夜、ひとりの遊女が囲われていた置屋から秘かに抜け出し、出入り口の大門脇に祀ってある石の地蔵を風呂敷に包んで背負い、思わずも走り出した。この先一里半の道をのんびり歩く余裕はない。もしことがばれて見つかって連れ戻されたりしたら、どんな恐ろしいことが待っているか分からない。遊女は店を抜け出して連れ戻された者が受けた仕打ちを知っているのである。それにしてもなぜ逃げる自信があると云っていたのに、あの者は見つかってしまったのか。噂によると、大門脇の地蔵に女将さんが願掛けをしたのだという。あの地蔵は足止地蔵と云って、たとえ逃げ出す者がいても、願を掛ければ必ず三日の内に見つかって連れ戻されるというのである。まことに恐ろしい地蔵である。それを聞いて遊女は考えた、「私はしくじるわけにはゆかない。そうだ、地蔵と一緒に逃げてやる。」と。遊女の向かう先は西陣である。その町のどこかに、云い交わした年の若い機織職人がいるのである。が、店を抜け出すことを遊女はその男に明かしていない。驚かせてやろうと思ったのである。どれほど走ったのだろう、遊女は後ろを振り返る。誰かが追って来る様子はない。遊女は足を緩め、もう大丈夫だと思う。が、いま自分がどの辺りにいるのか、門の外に出たことのない遊女には分からない。足を緩めてから、背負っている地蔵が急に重くなったような気がして来た。あの人は、こんなことを仕出かした自分のことをどう思うだろうと遊女は思い、不安になる。が、最早後戻りは出来ないのである。地蔵がますます重くなる。足が縺(もつ)れる。辺りが白みはじめたというのに、目の前が霞んで来た。遊女は己(おの)れの意識が遠のくのを感じながらうつ伏せに倒れた。このようにして遊女に負ぶわれ島原からやって来た地蔵が、西陣妙蓮寺前の灰屋図子(はいやのずし)に祀られている。寺之内通からクランクのように折れ曲がり、猪熊通に抜ける灰屋図子は、どちらかが体の向きを変えなければすれ違うことの出来ない径で、時間を溜め込んだような古びた平屋の長屋が両側に並び、その丁度半ほどに足抜地蔵と書いた提灯を下げた小堂があり、格子戸の中に目鼻の削げた四体の地蔵に囲まれるように座った姿の足抜地蔵が納まっている。地蔵を負ぶったまま気を失った遊女は、目出度く機織職人と夫婦になった。島原の足止地蔵は、ひとりの遊女によって西陣の足抜地蔵に名が改まったのである。松原通烏丸東入上ルの因幡薬師に祀る薬師如来には、次のような経緯(いきさつ)がある。「(第六十二代)村上の天皇御宇、天暦五年(951)三月、橘行平夢想によりて、因幡国加留の津にして、金色の浪の中より、等身の薬師の像をとりあげたてまつる。行平在京の時、長保五年(1003)四月、虚空をとびて王城に来給へり。」(『一遍上人絵伝』巻四・因幡堂)従四位上中納言橘行平が因幡国一宮での神事の任務を終えて京へ帰るばかりの時に急な病の床に臥し、夢に現れた僧から海中に沈んでいる浮き木を引き揚げれば病が治ると告げられ、加留津の海を探ればその通りに薬師如来が見つかって堂に祀ると忽(たちま)ちに行平の病は治った。京に戻って暫くするとまた行平の夢の中に僧が現れ、宿縁により西より来たり、と云う。行平が目を覚ました丁度その時屋敷に来客があり、門の外に薬師如来が立っていた。行平は己(おの)れの屋敷に改めて堂を建て、台座に薬師如来を載せ祀ったのである。町堂因幡薬師はがん封じに効くという。話に軍配をあげれば遊女の方である。遊女は夢を見ることなしに、一途な思いだけで己(おの)れの現実を変えたのであるから。

 「窓が穿(うが)たれた建物と建物のあいだから、ひろがった山なみが見えた。それももう動かなかった。考えてみると、自分が山でないこともおかしかった。ゆっくり通りすぎる雲の下で、崖や茂みに覆われたざらついた大きな背をのばし、街を取り巻くこともできたろう。家だって、よく考えれば、一つの生きかたでありえたろう。」(『大洪水』J・M・G・ル・クレジオ 望月芳郎訳 河出書房新社1977年)

 「双葉、戻った稲刈りの風景 原発事故後初、25年営農再開目指す」(令和3年9月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 その奥に下鴨神社が控えている糺(ただす)の森の一角にある河合神社の塀の内に、復元した鴨長明の方丈の庵がある。広さが約四畳半一間の小屋である。鴨長明下鴨神社禰宜惣官(ねぎそうかん)だった鴨長継の次男で、七歳で従五位下の身分になったのであるが、父の死の後の禰宜職を継ぐことが出来ず、歌会歌人・琵琶弾きとなり、後鳥羽上皇の推挙があっても欠員の出た河合神社の禰宜にも就くことが出来ず、新たに設けて貰った格下の「うら社」の禰宜職を断り、世捨人になる。承元二年(1208)、それまで過ごした大原から都の東南約七キロの日野の外山に建てたのが方丈の庵である。「すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心をなやませる事、三十余年なり。その間、折り折りのたがひめ、おのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春を迎へて、家を出で、世を背(そむ)けり。もとより、妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何に付けてか執をとどめむ。むなしく大原山の雲に臥して、また五かへりの春秋をなん経にける。ここに、六十(むそぢ)の露消えがたに及びて、更に、末葉の宿りをむすべる事あり。いはば、旅人の一夜の宿を作り、老いたる蚕の繭を営むがごとし。これを中比(なかごろ)の栖(すみか)にならぶれば、又、百分が一に及ばず。とかく云ふほどに、齢は歳々に高く、栖は折り折りにせばし。その家のありさま、よのつねにも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひさだめざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺(ふ)きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬ事あらば、やすく外(ほか)へ移さむが為なり。その、改め作る事、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二両、車の力を報(むく)ふほかには、さらに他の用途いらず。いま、日野山の奥に跡をかくして後、東に三尺余の庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北によせて障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢を掛き、前に法花経を置けり。東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚をかまへて、黒き皮籠三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。かりの庵(いほり)のありやう、かくのごとし。その所のさまを云はば、南に懸樋あり。岩を立てて、水をためたり。林の木近ければ、爪木を拾ふに乏(とぼ)しからず。名を外山と云ふ。まさきのかづら、跡うづめり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方ににほふ。夏は郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路を契(ちぎ)る。秋はひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業(くごふ)を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、、境界なければ、何につけてか破らん。」(『方丈記』)父が死んでから三十余年、わだかまりが解けないままずっと息苦しい、生きた心地のしない世の中を我慢しながら暮らして来ました。その間にあった度重なる躓(つまず)きで、生れついた自分の運のなさを悟ったものです。そういうことでしたので、五十歳になるのを待って、出家をして世捨人になりました。そもそも私は妻も子もありませんし、縁を切って困るような親類もないのです。官職に就ていないので当然俸給もなく、ここに至って拘(こだわ)るものは何もないのです。大原の山の中で、思えば何もしないまま五年経ってしまいました。いま、皆の寿命の尽きる六十の歳の近くになって、旅の途中の者が夜になれば宿の寝床で休むように、死にはぐれた蚕であっても繭を作るように、私もこの世の最後を過ごす家を作ることにしました。三十前後に住んでいた家に比べれば出来た家はその百分の一の広さもありませんが。どんな言い訳をしても歳は毎年増えるのに、住む所は代わる度に小さくなってゆきます。見た目も世間の家からは程遠く、たった四畳半の一間に屋根の高さは七尺もありません。いつも仮り住まいのつもりなので、土地を買ったりはせず、土台を組んで立てた柱の上をざっと覆って、継目は全部金具で留めてあるあるだけで、もし気に入らなくなったらいつでも手間をかけずに引越すことが出来ます。もしそうなった時には、荷車二台分の荷物で、費用は運び賃だけで面倒なことは何もありません。日野の山の奥に隠れ住むようになったいまは、東に差した三尺ぐらいの庇の下を焚きつけの雑木置き場にし、南の縁には竹の簀子を敷いて、西に仏棚を吊るし、障子を張った衝立を挟んだ北の壁に阿弥陀普賢菩薩の軸を掛け、据えた台の上には『法華経』が置いてあります。東の内側は伸びた蕨を干して作った寝床で、西南に吊った竹の棚には歌書や楽書や『往生要集』を抜き書きしたものを入れた皮行李(こおり)が三つ置いてあり、その横に私がかってにをり琴やつぎ琵琶と呼んでいる琴と琵琶を一張づつ立ててあります。私の仮り住まいの内はざっとこんな感じです。この小屋の回りをついでに記せば、南側に湧き水から樋を伸ばし、立てた岩の下に水を溜めています。ここは外山と云って歩いてすぐの林に小枝はいくらでも落ちているので薪に不自由はしません。定家葛がいつも道を覆っていて、谷は木が繁っていますが、西側は見晴らしがよくて、西方浄土を願うのに叶った場所といえるかもしれません。春になると山の西にはたなびく雲のように一面美しい藤の花が咲き、夏にはホトトギスが「死出の田長シデノタサキ」と啼く声を聞くたび、あの世へ連れていって貰えそうな気がします。秋はひぐらしの声がそこら中から聞こえて来て、この世の儚(はかな)さを切なく思ってしまいます。冬は降り積もった雪が融けてなくなる時、人が犯した罪もこのように消えればいいのにと思ったりもします。たとえば念仏を唱えるのが何となくその気にならず、経にも身が入らない時は、そのまま休むこともあるし止めてしまうこともあります。そのことをとやかく云う人もいませんし、気を遣う相手も周りにはいません。ですからわざわざ無言行をしなくとも、周りに誰もいなければ口が災いになることもないのです。鴨長明平清盛のひと時の世が現れて消え、都が燃え失せるのを目の当たりにし、あるいは己(おの)れも世に躓(つまず)き世捨人となった口から出た言葉が、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、ひさしくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」である。ある時の都の様は、「道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。」また地震が起きれば、「山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわほ)割れて谷にまろび入る。」のである。「朝(あした)に死、夕に生きるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知(しらず)、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる(どうして自分の家を見上げて喜ぶのであろうか)。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或(あるい)は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。」家を持たなければ、燃えて無くなる心配もなく、妻子がいなければ死に別れて悲しむようなこともない。希望がなければ絶望もない、ということである。「必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。」とは、このことである。鴨長明は『方丈記』でそう書いた。が、「鴨社氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)、雅経朝臣の挙に依りて此の間下向す。将軍家に謁(えつ)し奉ること度々に及ぶ云々。」(『吾妻鏡』建暦元年(1211)十月十三条)日野の方丈に移り住んで四年後の建暦元年、世捨人鴨長明は蹴鞠の大家飛鳥井雅経と共に鎌倉に行き、第三代将軍源実朝(さねとも)と面談している。後に『金槐和歌集』を著す実朝に、指南の職を求めて行ったのである。が、その希望は叶わなかった。これが、人は河に浮かぶ泡のようであると達観しても歌人の職に縋(すが)った鴨長明という者の体臭であり、人間臭さである。五十七歳の鴨長明が失意に暮れ、鎌倉から京へ戻る長い道のりの後ろ姿を思うのである。

 「社会主義に絶望し、民族のルーツを探すために修道士の道を選んだのだと、遠回しに前置きしてから、急にどこにでもいそうな若者の顔になり、さして自信もなさそうにつぶやいた。「ここで、もう四年になります。欲しいものがない、ということにずいぶん慣れてきました」サバ修道士は別れ際に、翻訳を読んで小林一茶が好きになったと、罪でも明かすように私に告げた。」(『もの食う人びと』辺見庸 角川文庫1994年)

 「過酷な被災、伝え方模索 震災・原子力災害伝承館開館1年」(令和3年9月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 落柿舎の建つところは、嵯峨小倉山緋明神町であるが、三度泊まったことのある松尾芭蕉が「落柿舎の記」という一文で「洛の何某去来が別墅(べっしょ)は下嵯峨の藪の中にして、嵐山のふもと大堰川の流に近し。此地閑寂の便りありて、心すむべき處なり。彼去来物ぐさきをのこにて、窓前の草高く、数株の柿の木枝さしおほい、五月雨漏盡して、畳・障子かびくさく、打臥處(うちふすところ)もいと不自由なり。日かげこそかへりて(かえって)あるじのもてなしとぞなれりけれ。」と記すように、向井去来が医者だった父親の遺産として引き継いだ元は商人の別荘だったという落柿舎は、下嵯峨川端村にあった。下嵯峨川端村は、頭に嵯峨のつく現在の朝日町、石ヶ坪町、伊勢ノ上町、梅ノ木町、折戸町、甲塚町、苅分町、北堀町、五島町、蜻蛉尻町、中通町、中丈町、中山町、罧原(ふしはら)町、明星町、柳田町に当たる。ほぼJR嵯峨野線桂川に挟まれた西を天龍寺、有栖川を東の境とする地域である。天明七年(1787)に出た『拾遺都名所図会』にはこのような記載がある。「近年、去来の支族俳人井上重厚、旧蹟に落柿舎を修補し、その傍にこの句(去来の「柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山」の句碑)を鐫(え)り、ここに建てて住まひし侍る。」落柿舎は元禄四年(1691)の芭蕉の二度目の滞在から二年後、老朽のため取り壊され、去来は新たに小さな庵を建てた。が、芭蕉を信奉する去来の分家者であった井上重厚は、その庵のあった下嵯峨にその正確な場所を見つけること出来ず、明和七年(1770)北嵯峨小倉山の麓山本村の弘源寺跡に数株の柿の古木があるのを見て喜び、ここに落柿舎を再興する。後に幾度か所有者の入れ替わりがあったが、これがいま目にしている落柿舎の元(もとい)である。芭蕉は「奥の細道」行から二年後の、元禄四年の落柿舎滞在の時の日記を残している。「元禄四辛未(しんび)卯月(四月)十八日 嵯峨に遊びて、去来が落柿舎に至る。凡兆(医師、芭蕉門人)、共に来たりて、暮に及びて京に帰る。予はなほ暫く留むべき由にて(滞在するように云われて)、障子つづくり(破れを塞ぎ)、葎(むぐら)引きかなぐり(草むしりをし)、舎中の片隅一間なるところ、臥所(ふしど)と定む。机一つ、硯・文庫、『白氏文集』『本朝一人一首』『世継物語』『源氏物語』『土佐日記』『松葉集』を置く(去来が揃えてくれていた)。ならびに、唐の蒔絵書きたる五重の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一壺、盃を添へたり。夜の衾(ふすま)・調菜の物ども、京より持ち来たりて乏しからず。わが貧賤を忘れて、清閑に楽しむ。 十九日 午(うま)の半ば(正午)、臨川寺に詣ず。大堰川前に流れて、嵐山右に高く、松の尾の里に続けり。虚空蔵(法輪寺)に詣づる人、行きかひ多し。松の尾の竹の中に、小督(こごう、平清盛高倉天皇との間を裂かれた寵姫)屋敷といふ有り。すべて上下の嵯峨に三ところ(小督の屋敷といわれている場所が三箇所)有り。いづれか確かならむ。かの仲国(源仲国、高倉天皇の命で小督の隠れ家を尋ねる)が駒をとめたる所とて、駒留の橋といふ、このあたりにはべれば(いらっしゃったのであれば)、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪の内に有り。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも(惧(おそ)れ多くも)錦繍綾羅(きんしうりょうら、豪華な褥(しとね))の上に起き臥しして、つひに藪中の塵芥となれり。昭君村(漢の悲劇の後宮王昭君の生まれた村)の柳、巫女廟(楚の懐王が夢に見た巫山(ふざん)を祀った廟)の花も昔を思ひやらる。憂き節や竹の子となる人の果て 嵐山藪の茂りや風の筋。 斜日に及びて、落柿舎に帰る。凡兆、京より来たり、去来、京に帰る。宵より臥す。 二十日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼(凡兆の妻)来たる。去来、京より来たる。途中の吟とて語る。つかみあふ子供の長(たけ)や麦畠。 落柿舎は、昔のあるじの作れるままにして、ところどころ頽破(たいは)す。なかなかに、作りみがかれたる(洗練された)昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫り物せし梁(うつばり)、画ける壁も、風に破れ、雨にぬれて、奇石・怪松も葎(むぐら)の下にかくれたるに、竹縁の前に柚の木一本(ひともと)、花かんばしければ、柚の花や昔しのばん料理の間 ほととぎす大竹藪を漏る月夜。 (羽紅尼が詠める)またや来ん覆盆子(いちご、赤い苺のように)あからめ(紅葉した)嵯峨の山。 去来兄の室(妻)より、菓子・調菜の物など送らる。今宵は、羽紅尼夫婦をとどめて、蚊帳一張(ひとはり)に上下五人こぞり臥したれば、夜も寝(い)ねがたうて(寝苦しくて)、夜半過ぎよりおのおの起き出でて、昼の菓子・盃など取り出でて、暁近きまで話し明かす。去年の夏、凡兆が宅に臥したるに、二畳の蚊帳に四国の人臥したり。「思ふこと四つにして、夢もまた四種」と書き捨てたる(ふざけて書きなぐった)ことどもなど、言ひ出して笑ひぬ。明くれば、羽紅・凡兆、京に帰る。去来、なほとどまる。 二十一日 昨夜、寝(い)ねざりければ、心むつかしく(気分がすぐれず)、空のけしきも昨日に似ず、朝より打ち曇り、雨をりをりおとづるれば、ひねもす(一日中)眠り臥したり。暮に及びて、去来、京に帰る。今宵は、人もなく、昼臥したれば夜も寝ねられぬままに、幻住庵(大津国分にあった庵)にて書き捨てたる反古を尋ね(探し)出だして清書す。 二十二日 朝の間、雨降る。今日は、人もなく、さびしきままに、むだ書きして遊ぶ。その言葉、喪に居る者は、悲しみをあるじとし、酒を飲む者は、楽しみをあるじとす。「さびしさなくば憂からまし」と西上人(西行)の詠みはべるは、さびしさをあるじなるべし。また、詠める(西行がこう詠んでいる)。山里にこはまた誰を呼子鳥ひとり住まむと思ひしものを ひとり住むほど、おもしろきはなし。長嘯隠士(ちやうせういんし、木下長嘯子、歌人)の曰く、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑を失ふ」と。素堂(山口素堂、俳人)、この言葉を常にあはれぶ(口ずさむ)。予もまた、憂き我をさびしがらせよ閑古鳥 とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。暮れがた、去来より消息す(手紙が届く)。乙州(おとくに、芭蕉門人)が武江(ぶかう、江戸)より帰りはべるとて、旧友・門人の消息ども数多(あまた)届く。その内、曲水(芭蕉門人)状(手紙)に、予が住み捨てし芭蕉庵の旧きを跡(深川)をたづねて、宗波(芭蕉がかつて旅で出会った旅僧)に逢ふ由。昔誰小鍋洗ひし菫草。 また、言ふ。「わが住む所、弓杖二長(ゆんづゑふたたけ、一丈五尺)ばかりにして、楓一本より外は青き色を見ず」と書きて、若楓茶色になるも一盛り。 嵐雪(芭蕉門人)が文に 狗背(ぜんまい)の塵に選られる蕨かな 出替わりや稚(おさな)ごころに物哀れ。 その外の文ども、あはれなる(しみじみとした気分になる)事、なつかしき事のみ多し。 二十三日 手を打てば木魂(こだま)に明くる夏の月 竹の子や稚き時の絵のすさみ 一日一日(ひとひひとひ)麦あからみて啼く雲雀(ひばり) 能なしの眠(ねぶ)たし我を行行子(ぎやうぎやうし、ヨシキリ)。 落柿舎に題す 凡兆(詠む) 豆植うる畑も木部屋(薪小屋)も名所かな。 暮に及びて、去来、京より来たる。膳所昌房(膳所(ぜぜ)の芭蕉門人)より消息。大津尚白(芭蕉門人)より消息あり。凡兆、来たる。堅田本福寺(第十一世千那、芭蕉門人)、訪ねて、その夜泊る。凡兆、京に帰る。 二十五日 千那、大津に帰る。史邦・丈草(芭蕉門人)訪ねらる。落柿舎に題す 丈草(詠む) 深く峨峰に対して鳥魚を伴ふ 荒に就き野人の居に似たるを喜ぶ 枝頭今欠く赤虻の卵(柿の実) 青葉(せいえふ)題を分かちて書を学ぶに堪へたり。 小督の墳(つか)を尋ぬ 丈草(詠む) 強(た)つて怨情を撹(みだ)して深宮を出づ 一輪の秋月野村の風 昔年僅かに琴韻を求め得たり 何処ぞ孤墳竹樹の中(うち)。 史邦(詠む) 芽出しより二葉に茂る柿の実(さね)。 途中吟 丈草(詠む) ほととぎす啼くや榎も梅桜。 黄山谷(宋の詩人)の感句 門を杜(と)ぢて句を覔(もと)む(詩作に励む)陳無己(ちんむき、宋の詩人) 客に対して毫(ふで)を揮(ふる)ふ秦少游(しんせういう、宋の詩人)。 乙州来たりて、武江の話ならびに燭五分の俳諧(蝋燭が五分燃える間に詠んだ連句)一巻。その内に、半俗(半僧半俗)の膏薬入は懐に 碓氷の峠馬ぞかしこき 其角(芭蕉門人)。 腰の蕢(あじか、竹かご)に狂はせる月 野分より流人に渡す小屋一つ 其角。 宇津の山女に夜着を借りて寝る 偽りせめて許す精進 其角。 申(さる)の時ばかりより風雨雷霆(らいてい、激しい雷)、雹の大なる、唐桃のごとく、小さきは、柴栗のごとし。大いさ三分匁(もんめ)あり。龍空を過ぐる時、雹降る。 二十六日 芽出しより二葉に茂る 史邦。 畠の塵にかかる卯の花 蕉。 蝸牛たのもしげなき角振りて 去。 人の汲む間を釣瓶待つなり 丈。 有明に三度飛脚の行くやらん 乙。 二十七日 人来たらず、終日閑を得。 二十八日 夢に杜国(芭蕉の愛弟子)がことを言ひ出だして、涕泣(ていきふ)して覚む。心神相交る時(気持ちや考えが入り混じって整理がつかない時)は、夢をなす(夢を見る)。陰尽きて火を夢見、陽衰へて水を夢見る。飛鳥髪をふくむ時は、飛べるを夢見、帯を敷き寝にする時は、蛇を夢見るといへり。『枕中記』(栄枯盛衰の夢物語)、槐安国(夢で見た蟻の国から思う栄達の儚さ)、荘周が夢蝶(荘子が夢で蝶になり、あるいは蝶が荘子という自分になったのかと思う胡蝶の夢)、皆そのことわり有りて、妙を尽さず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散乱の気、夜陰の夢またしかり。まことに、この者(杜国)を夢見ること、いはゆる念夢なり。我に志深く、伊陽の旧里まで慕ひ来たりて、夜は床を同じう起き臥し、行脚(あんぎゃ)の労を共に助け、百日がほど影のごとくに伴ふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、その志わが心裏にしみて、忘るることなければなるべし。覚めてまた袂をしぼる(涙を流す)。 二十九日 晦日(つごもり) 『一人一首』奥州高館(たかだち)の詩を見る。高館は天に聳えて星冑に似たり 衣川は海に通じて月弓の如し その地の風景、いささか以てかなはず(詩ではこう詠まれているが、実際の景色とまったく違っていた)。古人といへども、その地に至らざる時は、その景にかなはず(昔の人が詠んだものであっても、その土地に行っていない人の詠んだものは、理想を詠んでいて現実と違う)。 (五月)朔(ついたち) 江州(近江)平田明照寺李由(第十四世住職)、問はる(来て下さる)。尚白・千那、消息あり。 竹の子や喰ひ残されし後の露 李由。 頃日(このごろ)の肌着身に付く卯月かな 尚白。 〔一字不明〕岐 待たれつる五月も近し聟粽(むこちまき端午の節句に粽を持って嫁が聟と一緒に里帰りする風習) 尚白。 二日 曾良芭蕉門人)来たりて、吉野の花を訪ねて、熊野に詣ではべる由。武江旧友・門人の話、かれこれ取りまぜて談ず。 熊野路や分けつつ入れば夏の海 曾良。 大峰や吉野の奥を花の果 曾良。 夕陽にかかりて、大堰川に舟を浮べて、嵐山にそうて戸難瀬(となせ、山間の急流)をのぼる。雨降り出でて、暮に及びて帰る。 三日 昨夜の雨降り続きて、終日終夜やまず。なほ、その武江の事ども問ひ語り、既に夜明く。 四日 宵に寝(い)ねざりける草臥(くたびれ)に、終日臥す。昼より雨降り止む。明日は落柿舎を出でんと、名残惜しかりければ、奥・口の一間一間を見めぐりて、 五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡。」(『嵯峨日記』)この時芭蕉は四十八歳である。この三年の後体調の急変で亡くなるのであるが、「奥の細道」行の前に深川の庵を手離して以来、芭蕉は住む所を無くしたが、寝る所も食い物の差し入れもあった。たとえば乞食坊主となった種田山頭火は物乞いをした。「鉄鉢の中へも霰」。辻に立って手に持った鉄鉢の中に恵んで貰ったのは米ではなく、空から降って来た霰である。「うしろすがたのしぐれてゆくか」は、芭蕉にはない孤独である。西に向けば常寂光寺の門に突き当たる小道から、畑地を挟んで向こうの、人の背丈よりも高く刈り込んだ生垣の上に見えるこんもりと林に囲まれた茅葺屋根が落柿舎である。門の内に見える軒下の壁に下がった蓑と笠は、去来が京から来ているという印であるという。落柿舎は近所の農夫らが集う去来の俳諧道場であった。前の畑地は外れの黄色い小花をつけた小豆の幾畝を除いて、いまは広々とした草の原である。そちこちで蟋蟀の鳴き声がしている。色の凋(しぼ)みはじめた叢から目を戻して見える、あの向こうの茅葺屋根が落柿舎である。が、あれは芭蕉の泊まった落柿舎ではない。が、門にその名を掲げる通り落柿舎であることは間違いないのであり、評論家保田與重郎が第十三世の庵主として名を連ねている紛れもない落柿舎なのである。こほろぎの遠きは風に消えにけむ 篠原 梵。

 「そしてあの細長い長崎の浦々の、数多い岬にかこまれた海水の銀色の明るさが、何かとてつもない大鳥が将(まさ)に飛立とうとして両翼を裕々と広げた感じで、この活気のない長崎の町に襲いかかるようだ。そうだ。それは鶴のような鳥であるかも知れない。然(しか)し大鳥の覆いかぶさりの感じには恐ろしさはなく、港を眺めれば、その港にはいって来る船の上の人々のかすかにときめく悦びを逆に感じ返すことが出来た。港から、長崎は外に向って開けている。そこから外の空気が長崎にはいって来た。いくつも岬のかげに落ちて行く西日によって、きらめいてはいたのだけれど。」(『贋学生』島尾敏雄 講談社文芸文庫1990年)

 「大熊の復興拠点、準備宿泊延期へ 除染後も一部基準超線量」(令和3年9月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 蟬の鳴き声が聞こえなくなると、芙蓉の花が目につくようになる。法輪寺の山門を入ってすぐの庭先で芙蓉が七つ八つ咲きはじめていた。この法輪寺は嵐山の法輪寺ではなく、下立売通御前西入ルのだるま寺である。だるま寺という名の謂(いわ)れは、境内に八千を超えるという大小様々なだるまを収める達磨堂があるからである。普段は滅多に参拝者のいないだるま寺が賑わうのは二月の節分会の時で、西大路通から下立売通に入った中空に高く揚がっただるま寺と書いた横断幕が寒風にはためき、狭い境内にだるまや食い物を売る露店が立ち、日の当たる本堂の縁側にだるまが並べられ、ハト麦茶を甘くした茶が振る舞われる。日本の縁起物の、赤く塗られた鬚面のだるまには手も足もない。面壁九年の坐禅修行の果てに手足が腐ってしまったからだといわれている。が、これはそう云いふらした者のついた嘘である。手足の内の片腕を無くしているのは、達磨の弟子の慧可(えか)である。禅仏教の開祖である達磨の前で、弟子入りを拒絶された慧可という男は、左腕を切り落としてみせた。これは弟子となる覚悟を示したということになっている。そのような覚悟をさせたのが達磨である。御仏にもらふ疲れや花芙蓉 大木あまり。信心の目で仏像を見ても、恐らくは疲れない。仏像を見て疲れるのは、美術鑑賞をする目である。芙蓉一花まづ咲き珠の小家建つ 能村登四郎。肥汲が辞儀して括(くく)る芙蓉かな 渡辺水巴(わたなべすいは)。この家に芙蓉一本のみ残る 宇多喜代子。家と、あるいは人と芙蓉という花との関係を、昭和の俳句はこのように詠んでいる。更地にした端に枯れずに残っていた芙蓉が、念願の家が建った傍らで花をつけたのを見て喜び、その芙蓉も時に便所の汲み取りには邪魔であり、時が経って家族がばらばらになって遂に空き家となっても、丈夫な芙蓉だけは今年も花をつけた。花芙蓉くづれて今日を全(まっと)うす 中村汀女。開いたその日に凋(しぼ)む花を「全うす」とする云いは、日頃から背筋を真直ぐ張って生活をしているような者の言葉である。だるま寺の本堂横のガラス戸を立てた出窓の内に、眠り猫のような白髪の受付の姿があった。芙蓉の花はこの正面で咲いている。もし誰と代わることもなくこの者が受付で一日居るのであれば、その一日は、時折気まぐれな風に薄桃色や白の花弁(はなびら)が揺れ、日が傾けばあっけなく凋む花を眺めるだけの一日である。『今昔物語集』に修行途中の達磨の話が載っている。巻第四の第九。「天竺ノ陀楼摩和尚、所々ヲ行(アル)キ見テ、僧ノ行ヒタル語(コト)。(前略)陀楼摩和尚、二人ノ古老ニ問テ云ク、「此ハ何(イカ)ニ。碁ヲ打ツヲ役ニテ年月ヲ送リ給フト聞ク所ニ、善ク所行ヲ見奉レバ、証果ノ人ニコソ、坐(マシマス)メル。其ノ由(ヨ)シ承(ウケタマ)ハラム」ト。二人ノ古老答ヘテ云ク、「我等、年来、碁ヲ打ヨリ外ノ事ナシ。但シ、黒勝ツ時ニハ我ガ身ノ煩悩増リ、白勝ツ時ニハ我心ノ菩提増リ、煩悩ノ黒ヲ打チ随ヘテ菩提ノ白ノ増ルト思フ。此ニ付テ我ガ无常(ムジヤウ)ヲ観ズレバ、其ノ功徳忽(タチマチ)ニ顕ハレテ証果ノ身トハ成レル也」ト云フヲ聞クニ、涙、雨ノ如ク落テ、悲キ事限リナシ。」(天竺中を修行して回っていた達磨和尚は、ある寺の薄汚い小舎の中で一日中碁を打っている、寺の者から厄介者扱いをされている二人の老僧を目にする。何とこの二人は対局が終わる度に一方が目の前で姿を消したり、また現れたりするのである。)達磨和尚は、思わず二人の老僧にこう訊ねたのです。「一体どういうことなのですか。お二人とも一日中、いや一年中碁をお打ちになってばかりいるとお聞きしました。ご様子を見れば私のような者でも、お二人が悟りを開いたお方であろうことは分かります。そのようなお方がどうしてこのようなことをなさっていらっしゃるのか、私にその理由をお教え下さい。」と。二人の老僧はこうお応えになりました。「あんたが私らをどう思おうが勝手だが、私らは碁を打つこと以外のことは何もする気はない。が、あんたはそのことを説明せよと云う。もしあんたが自分の質問が愚問であることを分かっていてそう訊いているのなら、そうであるのならばこっちも愚か者となって応えてやろう。私らのどっちかが打つ黒の石が勝った時には己(おの)れの煩悩の方が強かったということであり、白の石が勝った時は菩提心が勝(まさ)ったということだ。当然誰だって菩提の白は煩悩の黒に打ち勝ちたいと願っている。が、白が勝つ時もあれば負ける時もある。己(おの)れという存在は勝ったり負けたりする者であるということが分かれば、そう理解出来ることがすなわち悟るということだ。」これを聞いた達磨和尚はぽろぽろと涙をこぼし、止まらなくなってしまったのです。この寺の誰一人もこの二人の老僧を理解していないことが悔しくて悲しくなったからです。

 「「何のとりえもない小さな町です」とアンブローシオが言う。「行ったことはないんですか?」「ぼくは旅行を夢見ながら暮らしてきたんだが、たった一度だけ、八十キロ離れた所まで行ったことがあるだけなんだ」とサンディアーゴが言う。「ともかく、お前は少しは旅行したんだね」」(『ラ・カテドラルでの対話』バルガス=ジョサ 桑名一博・野谷文昭訳『ラテンアメリカの文学 17』集英社1984年)

 「帰還への住民思い複雑 復興拠点外の政府方針、避難先で生活定着も」(令和3年9月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 夢窓疎石は、京都に二つの名庭を作っている。一つは天龍寺方丈の庭で、もう一つは西芳寺の庭である。建武元年(1334)、鎌倉にいた夢窓疎石は、前年に鎌倉幕府が滅び朝廷に政治を取り戻した第九十六代後醍醐天皇に請われ、南禅寺の住持に再任されると、その翌年には再び天皇に請われ臨川寺を開き、後醍醐天皇が亡くなった暦応二年(1339)、室町幕府評定衆の摂津守藤原親秀の勧請に応じて西方寺に入り、名を改めて西芳寺を開いた。天龍寺は、夢窓疎石後醍醐天皇に背いた足利尊氏に、後醍醐天皇の死の弔いのために建てさせた菩提寺である。足利尊氏の弟直義(ただより)が問うて夢窓疎石が答えた法話集『夢中問答』に、「萬事を放下(はうげ)せよと勧むる旨」と題した問答がある。「問。萬事と工夫と差別なくは、何が故ぞ教・禅の宗師の中に、多くは学者をすゝめて、萬事を放下し諸縁を遠離せよとしめし玉へるや。」日常の生活も所を限った修行と違いがないのであれば、どのような生活の態度をしていても悟りに向かうことが出来るというのであれば、禅やほかの仏教者はどうしていつも物を捨てよ、日常の物事に執着してはいけないなどと教えたりするのですか。「答。(前略)白楽天小池をほりて、其の辺りに竹をうゑて愛せられき。其の語に云はく、竹は是れ心虚しければ、我が友とす。水は能く性浄ければ吾が師とすと云々。世間に山水をこのみ玉ふ人、同じくは楽天の意(こころ)のごとくならば、実に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。或は天性淡泊にして俗塵の事をば愛せず、たゞ詩歌を吟じ泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり。煙霞の痼疾(こしつ)、泉石の膏盲(こうもう)といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。たとひかやうなりとも若(も)し道心なくば亦(また)是れ輪廻の基なり。或は此の山水に対してねぶりをさまし、つれづれをなぐさめて、道行のたすけとする人あり。これはつねざまの人の山水を愛する意趣には同じからず、まことに貴しと申しぬべし。しかれども山水と道行と差別せる故に、真実の道人とは申すべからず。或は山河大地草木瓦石、皆是れ自己の本分なりと信ずる人、一旦山水を愛する事は世情に似たれ共、やがてその世情を道心として、泉石草木の四気にかはる気色を工夫とする人あり。若しよくかやうならば、道人の山水を愛する模様としぬべし。然らば則ち山水をこのむは定めて悪事ともいふべからず、定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし、得失は人の心にあり。」中国の詩人白楽天は、庭に小さな池を掘って竹を植え、その景色を愛でていたそうです。心に虚しさを覚える時は竹を友とし、その人の本性が素直ならば水はその人を導く師となるのです、と詠っている。世の中にいる山や川の自然を模した庭を好んでいらっしゃる人で、楽天と同じような考えを持っている人であれば、その人は俗に擦れた人ではないはずです。あるいは生まれつき人つき合いが苦手で俗世間のことには興味がなく、一日中詩歌を詠み、自然に浸って口ずさんで心境を高める人がいます。この人たちは、病的な庭好きや庭作りに夢中になる人です。こういう人は、世にいう優雅な人と云っていいでしょう。ですが、このように俗世間から逃れているような人たちでも、菩提心を持たなければ、六道の輪廻に嵌まってそこから抜け出すことが出来ないのです。あるいは植えた木のざわめきや水音で目覚め、庭を前にすれば何もなく過ぎる一日が紛らわされ、修行の支えとなっている人もいます。この人たちは先に挙げた人のように世間によくいる庭好きの人たちとは違って、尊敬すべき人です。そうであっても庭を愛でることと修行を区別出来たからといって、本物の修行者ということは出来ません。あるいは山や河や大地や草や木や瓦石のような何の値打ちのないものまでも、すべてが己(おの)れ自身と変わるものではない、違いはないと考える人がひとたび庭を好きになることは、俗な振る舞いのようであっても、その俗にも見える思いをそのまま菩提心に繋げ、泉石草木、庭の自然を越えた本質に考えを巡らす人もいます。もしとことんそうであるならば、庭を愛でる仏修行者の手本とするべき人です。そうであれば、庭を愛で楽しむことは、していけないということではないし、それが修行に良いこととして人に勧めるということでもありません。庭そのものは良いわけでも悪いわけでもないのです。善悪はいつも人の心の中にあるのですから。直義の、普段の生活も修行であると考えるならばものなど捨てても捨てなくてもいいのではないかという問いに、庭で例えれば、云うまでもなく庭を好きになって庭作りに金をかけて愛でたとしても、それが修行の妨げになるわけではなく、悟りを得るかどうかは本人次第である、と夢窓疎石は説いたのである。西芳寺の庭は、すべて夢窓疎石の手に手によるものではなく、譲り受けた西方寺に手を入れた庭である。その元(もとい)は、寺の裏山洪隠山の山裾の起伏と湧き水である。夢窓疎石はこの山裾の一段上にあった、恐らくは不明死体を葬ったもう一つの寺穢土寺にもう一つの庭、洪隠山に築いた渡来人秦一族の墓の石を使って歴史上はじめての枯山水の庭を作った。が、山肌に剥き出しの岩を晒し目に荒涼と見えたかもしれぬその庭は、いまは樹が生え、苔が覆っている。下の心字の池を廻る樹の鬱蒼と立つ庭も、一面の苔である。嘉吉三年(1443)、来朝した朝鮮の通信使書状官、申叔舟(しん・しゅくしゅう)がその七月西芳寺を訪れ、後に「日本栖芳寺遇眞記」という一文を書き残している。「寺の中に渓流を林表に引き、之をめぐらして池となす。周囲三百歩許りなり。池の西に琉璃の閣あり。閣の北より行くに、橋ありて西來堂に通ず。橋の西は皆芙渠(ふきょ、蓮)を植ゆ、時まさに盛に開き、清風微に至り、幽香馥馥(ゆうこうふくふく)として鼻を擁す。橋の東南は則ち之なし。橋之が限隔をなすがごとし。西來堂の後軒を號して潭北(たんぽく)と曰う。渓流の經て潭に入るの處なり。奇岩恠(怪)石を以て、駢列(へんれつ、連なる)して之を激す。清冷愛すべし。試みにその源を窮めんと欲するに、則ち樹木篁竹(しょうちく、竹藪)、潝翳(きゅうえい、蔭に水音)蔽密(へいみつ、濃い闇)して、得て入るべからず。たゞ鏗然(こうぜん、美しい琴の音)、鏘然(しょうぜん、美しい水音)遠くして益(ますます)清く且つ清あるを聞く。湘南亭は池の心に居(すわ)りて、南邊に近し、亭の南にその堤を缺(か)き、以て池水を泄し、その悪を流す。小島有り、亭の左右に羅列して其の数四なり、皆松樹を植え、その枝葉を剪り、縦(ほしいまま)に若きを得ざらしめ、老枯者然たり。四面は嘉花異卉(き、草)を擁し、その枝幹も亦皆縄にて引きて、木にて之を支う、盤結交柯(ばんけつこうえ、曲がりくねった枝が交わり)欝(うつ、薄暗く)窺(うかが)うべからず。僧言う。春和の時に方(あた)れば群花齊く發(ひら)き、宿莽(しゅくもう、自生する草花)競い秀で。蒼然頴然(えいぜん、青々と瑞々しく)。錦の若(ごと)く、綉(しゅう、美しい刺繍)の若し。得て状すべからざるなりと。余之を聞き、惘然(もうぜん、がっかりする)として其に遭わざるを恨む也。池形縈回(えいくわい、すぐれた曲線)して稍(やや)長く、遂に橋を作りて其の腰を横絶し、以て池の東南に往來する者に便にす。橋に因(よ)りて閣有り。扁して邀月(えうげつ)橋と曰う、之に登れば怳(きょう、うっとりする)として長鯨に騎(の)りて溟渤(めいぼく、薄暗い波立ち)に浮ぶが如し。野鴨雙翼あり、方(まさ)に游泳し橋の東に自樂す。人を見れば驚き起ち、簷楹(えんえい、のきばしら)を掠めて西す。顧眄(こべん、見回す)之間、萬象旋繞(せんじょう、ぐるぐる飛び回る)し、悉(ことごと)く池の中に涵(ひた)す。水族に大なる者、小なる者、孤する者、潜りて昭(あきらか)なる者、往きて復る者、躍(とび)て水を出る者、隠れて藻にある者。龞(べつ)にして沙石に暴(さら)す者、能(だい、素早く)にして微泥に伏する者あり、千状萬態。みな目撃を逃れず。又、小艇二艘有り。繋ぎて琉璃の閣下に在り。輕棹を以て往來すべし。凡(およ)洲渚島嶼。回曲直達。天作地設の若(ごと)くにして、山人の閑營巧度之妙に出でざるなし。是に於て冠を投げ佩(はい、腰につけた物)を捐(す)て、襟を披(ひら)きて散歩す。清は以て煩(はん)を滌(そそ)ぎ、幽は以て慮を靜む。怡愉(いゆ、喜び楽しむ)散浪して、飛仙(仙人)を挟み蓬瀛(ほうえい、神仙が住む仙山)の上に遊ばんに擬せん。而(しこう)して忽(たちまち)に身の羇旅(きりょ)の中に在るを忘る也。俄にして斜陽西に隠れ、僕夫門に在り、驪駒(りく、黒馬)道に在り、遂に長老を釣寂の菴に捐(のこ)し、馬に上りて歸る。茫然として失う所あるが如し。」申叔舟がこの時に見た西芳寺の庭は青松白砂の作りであったが故に、目にしていない苔という言葉はこの文には出て来ない。申叔舟が訪れたその二十三年後に起きた応仁・文明の乱と西芳寺川の洪水によって西芳寺は荒廃し、洪隠山に西日を遮られる庭は、誰の手も入らぬまま次第次第に一面の苔に覆われていったのである。いま苔に覆われていないのは池の面だけである。陸に置かれた石にも池の淵の石にも池の中に並ぶ石にも、消えた建物にも夢窓疎石の意図があった。が、それらが苔に覆われれば、その意図もまた覆われ、それが久しくなれば、覆われた意図も久しくなる。が、緑色をした雪の融けない降り積もりのようにも見える苔であっても、この先融けてしまわないとはいえない。そうであれば夢窓疎石の手から遠く離れて久しいこの庭も途中の、仮の姿に過ぎないのである。泉石草木の四気は、人知を超えてうつろうものであるのであるから。

 「三木さんの行った後、蟬の鳴きしきった晩はついこないだの事の様に思われるが、それから既に十七年たっている。自分は不自由な明け暮れに歳を重ねて来た。もうこの頃は胸の中に縺れた様な、割り切れぬ物は何も残っていない。そう云う気持がいつかほどけて、片づかぬ物が片づいたと云うわけではなく、縺れ合ったなりに、片づかぬ儘に薄らいで、いつの間にか消えてしまった。蚊いぶしの火のぱちぱち撥ねる音に聞き入って、三木さんの出這入りに焦燥した昔は他人事の様に思われる。」(「柳検校の小閑」内田百閒『サラサーテの盤』福武文庫1990年)

 「福島県産米、放射性物質の抽出検査開始 郡山・県農業総合センター」(令和3年8月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)