京を下に見るや祇園のゑひもせす 西山宗因。いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす京、といろは歌の最後に京をつけて覚えていれば、この句の意味は他愛もない。折角祇園で呑んだのに少しも酔えない酒だった、お高くとまっている京なんてしょせん「いろは」の一番下ではないか。井原西鶴の『日本永代蔵』にも「ゑひもせす京」は出て来る。「借屋請状(しやくやうけじやう)之事、室町菱屋長左衛門殿借屋に居申され候藤市と申す人、確かに千貫目御座候」。「広き世界に並びなき分限我なり」と、自慢申せし、子細は二間口の棚借にて千貫目持、都の沙汰になりしに、烏丸通に三十八貫目の家質(かじち)を取りしが、利銀積りておのづから流れ、初めて家持となり、これを悔みぬ。今迄は借屋に居ての分限と言はれしに、向後(きやうこう)家有るからは、京の歴々の内蔵の塵埃ぞかし。この藤市、利発にして、一代のうちに、かく手前富貴になりぬ。第一、人間堅固なるが、身を過ぐる元なり。この男、家業の外に、反故の帳をくくり置きて、見世を離れず、一日筆を握り、両替の手代通れば、銭小判の相場を付け置き、米問屋の売り買ひを聞き合せ、生薬屋・呉服屋の若い者に、長崎の様子を尋ね、繰綿・塩・酒は、江戸棚の状日を見合せ、毎日万事を記し置けば、紛れし事はここに尋ね、洛中の重宝になりける。不断の身持ち、肌に単襦袢(ひとへじゆばん)、大布子綿三百目入れて、一つより外に着る事なし。袖覆輪(そでふくりん)といふ事、この人取り始めて、当世の風俗見よげに、始末になりぬ。革足袋に雪踏(せつた)を履きて、終(つひ)に大道を走り歩きし事なし。一生のうちに、絹物とては、紬の花色、一つは海松茶染(みるちやぞめ)にせし事、若い時の無分別と、二十年もこれを悔しく思ひぬ。紋所を定めず、丸の内に三の引き、又は、一寸八分の巴を付けて、土用干にも、畳の上に直(ぢき)には置かず、麻袴に鬼錑(おにもぢ)の肩衣(かたぎぬ)、幾年か、折り目正しく取り置かれける。町並みに出る葬礼には、是非なく、鳥部山に送りて、人より後に帰りさまに、六波羅の野道にて、奴僕(でつち)もろとも苦参(たうやく)を引いて、「これを陰干にして、腹薬なるぞ」と、只は通らず。けつまづく所で火打石を拾ひて、袂に入れける。朝夕の煙を立つる世帯持は、万(よろづ)、かやうに気を付けずしてはあるべからず。この男、生れ付きて悋(しは)きにあらず、万事の取り廻し、人の鑑にもなりぬべき願ひ、かほどの身代まで、年取る宿に餅搗かず。忙はしき時の人遣ひ、諸道具の取置きもやかましきとて、これも利勘(りかん)にて、大仏の前へあつらへ、一貫目に付き何程と極めける。十二月二十八日の曙、急ぎて荷なひ連れ、藤屋見世に並べ、「請け取り給へ」といふ。餅は搗きたての好もしく、春めきて見えける。旦那は聞かぬ顔して、十露盤(そろばん)置きしに、餅屋は時分柄にひまを惜しみ、幾度か断りて、才覚らしき若い者、杜斤(ちぎ)の目りんと請け取つて帰しぬ。一時ばかり過ぎて、「今の餅請け取つたか」と言へば、はや渡して帰りぬ。「この家に奉公する程にもなき者ぞ。温(ぬく)もりの冷めぬを請け取りし事よ」と、又目を懸けしに、思ひの外に減(かん)の立つ事、手代、我を折つて、喰ひもせぬ餅に口を明きける。その年明けて、夏になり、東寺あたりの里人、茄子の初生(はつなり)を、目籠に入れて売り来るを、七十五日の齢(よはひ)、これ楽しみの一つは二文、二つは三文に値段を定め、いづれか二つ取らぬ人はなし。藤市は一つを二文に買ひて、言へるは、「今一文で、盛りなる時は、大きなるが有り」と、心を付くる程の事悪しからず。屋敷の空き地に、柳・柊・譲り葉・桃の木・花菖蒲・数珠玉など、取り交ぜて植ゑ置きしは、一人有る娘が為ぞかし。葭垣に自然と朝顔の生えかかりしを、同じ眺めには、はかなき物とて、刀豆(なたまめ)に植ゑ代へける。何より、我が子を見る程面白きはなし。娘大人しくなりて、やがて、嫁入屏風を拵(こしら)へ取らせけるに、「洛中尽しを見たらば、見ぬ所を歩きたがるべし。源氏・伊勢物語は、心のいたづらになりぬべき物なり」と、多田の銀山(かなやま)出盛りし有様書かせける。この心からは、いろは歌を作りて誦(よ)ませ、女寺へも遣らずして、筆の道を教へ、ゑひもせす京のかしこ娘となしぬ。親の世智なる事を見習ひ、八歳より、墨に袂を汚さず、節句の雛遊びをやめ、盆に踊らず、毎日髪頭もみづから梳きて、丸曲(まるわげ)に結ひて、身の取り廻し人手にかからず、引き習ひの真綿も、着丈の縦横を出かしぬ。いづれ女の子は、遊ばすまじき物なり。━━」(巻二「世界の借屋大将 京に隠れなき工夫者 餅搗きも沙汰なしの宿」)「借屋請状について、室町菱屋長左衛門殿の家を借りていると申請した藤市という者は、確かに千貫目の財産を所有しております」「私はこの広い世界に並ぶ者のない金持ちである」と藤市が自慢げに大口を叩くその理由は、二間間口の店を借りている身分で一千貫目もの財産を持っているからなのである。このことは京の都で評判をとっていたが、烏丸通にあった三十八貫目の担保になっていた家が利息の払いが滞り抵当流れとなって図らずも初めて家を持つ身分となり、藤市はこのことを後悔したという。というのは、今までは借屋身分の者だからこそ金持ちと云われたのであり、これから家持ちとして見れば、一流の町人、大商人(おおあきんど)の内蔵の塵か埃ぐらいにすぎないからである。この藤市という男は利口者で、己(おの)れ一代でこのような金持ちになったのだ。人はそのいの一番に、体が丈夫で堅実であることが世渡りに欠かせない。この男は家業の他に反故になった紙を紐で括った帳面をいつも手許に置き、一日中店番をしながら筆を握り、両替屋の手代が店の前を通れば、呼び止め、銀の銭や小判の相場を訊いて書きつけ、米問屋の取り引き相場の動きを訊き、生薬屋や呉服屋の若い手代には長崎の様子を尋ね、繰綿・塩・酒の相場は江戸店(だな)から来る書状が着くのを待って情報を照らし合わせ、ほか何事なりとも毎日書き残していたので、分からないことがあるとこの店に訊きに行き、都中の者から重宝がられていた。藤市の普段の姿は、単衣の襦袢の肌着とその上に三百目の綿を入れた綿入れを着ているだけで、これ以外は何も身につけない。袖口を細く包み縫いした袖覆輪(そでふくりん)というものはこの藤市が始めたもので、そのような経済的な恰好が昨今は流行っている。足元はいつも革足袋に雪駄履きで、大通りを走り歩きしたことなど一度もない。一生のうちで着た絹物は紬の花色染めが一枚と、もう一枚染め返しのきかない海松茶染(みるちゃぞ)めにしてしまったものは若い時分に思慮が足りなかったと二十年たってもそのことを悔やんだものである。着物の紋所は決めず、出来合いによく見かける丸の内に三つ引きか、あるいは一寸八分の巴をつけ、土用干しの時も畳の上に直(じか)には置かず、麻袴と鬼錑(おにもじ、目の粗い麻布)の肩衣も、何年経っても折り目が崩れぬよう仕舞っておいた。町内のつき合いで出る葬式には仕方なく鳥辺山まで野辺送に同行し、人の後ろについて帰る途中など、六波羅の野道で丁稚と一緒に道端に生えているせんぶりを引きむしり、「これは陰干しにしておくと腹痛の薬になるのだ」とただでは通らず、あるいはけつまづいても地面に目をやり、落ちていた火打石を拾って袂に入れて帰るほどである。朝夕に煙を立てて生活を営む者は、何事にもこのように気をつかわなくてはならぬのだ。この藤市という男は生まれ持ってのけちなのではない。万事の立ち居振る舞いは人の手本にもなろうという思いで、あれほどの資産家になっても、新年を迎える我が家で餅を搗いたことがない。忙しい年の瀬は人手が足りないし、餅を搗くための道具の扱いも面倒くさがり、これも計算づくのこと、(方広寺の)大仏前の餅屋隅田に頼み、一貫目につきいくらと決めて搗かせた。十二月二十八日の朝早く餅屋はせわしなく数人で搗いた餅を運び入れて藤屋の店先に並べ、「どうぞお受け取り下さい」と声をかける。搗きたての餅は見た目も気持ちよく、正月気分を目で味わうようである。が、藤市の旦那は聞こえぬ振りで算盤を弾いていて、餅屋は年末のかき入れ時だけに時間を気にし何度も催促すると、横から気を利かした手代が棹秤で慎重に目方を量り、餅を受け取って餅屋を帰した。二時間ほどしてから藤市が、「餅は受け取ったのか」と訊き、手代が「さきほど置いて帰っていきました」と応えると、「わしの店に奉公している者とは思えぬやつだ。温かいままの餅をよくもまあそのまま受け取ったものだ」と云われ、いま一度餅の目方を量ってみると、思いの外目方が減っているではないか。手代は驚き恐れ、喰ってもいない餅の前で口をあんぐり開けてしまった。その年が明けて夏になり、東寺辺りの村人が、茄子の初生りを目籠に入れて売りに来た時、初ものを喰えば七十五日命が延びるといわれ、縁起物としてありがたがられるので、一個で二文、二個で三文の値をつけると二個買わない者はいない。が、藤市は一個を二文で買い、周りの者にこう云った、「取っておいた一文で盛りの時に大きいものが買える」その計算高さに皆、なるほどと頷いたものだ。自分の屋敷の空き地に、柳や柊やゆずりはや桃の木や花菖蒲、数珠玉などを取り混ぜて植えたのはどれも一人娘のためだった。あるいは葭垣にいつの間に朝顔が這ってきたのを、「同じ眺めるにしてもこれはつまらん」と云い、実の成る刀豆に植え替えた。どんなことより自分の子の成長を見守ることほど嬉しいことはない。藤市は娘が成人するとすぐ、嫁入り道具の屏風を拵えてやった。が、「都中の名所を描いたりすると、見たことのない所へ行きたがるだろし、源氏や伊勢物語の絵ではふしだらな女になる」と、多田の銀山の賑やかだった頃の様子を描かせた。こんな発想であるから、自分でいろは歌を作って習わせ、女寺子屋にもやらず手習いを教え、酔ひもせず京一番のかしこ(女手紙の最後の「かしこ」)い娘に仕立て上げた。娘は娘で親の抜け目のなさ処世術を身につけ、八歳から墨で袂を汚すこともなくなり、節句の雛遊びもやめ、盆踊りにも行かず、毎朝髪も自分で梳いて丸髷に結い、身の回りのことで人の手を借りず、真綿の引き方もよく習って、着丈の縦横に見映えよく仕立てた。どうやら女の子どもは遊ばせておいてはだめなようだ。もう一つ、安楽庵策伝の『醒睡笑』にはこんなやり取りが載っている。京のとある油屋の許に、丹波から荏(え、えごま)売りがやって来る。油屋は簸(ひる、糠やちりを除く)ったものを買うと伝える。それを聞いた荏売りは「京では簸(ひ)っては売らない」と応える。「荏簸(ゑひ)もせす京」。

 「例えば日本の曲芸師がそうだ。彼らは、梯子を地面に立てるのでなく、なかば仰向けに寝て両足を上げている相棒の足の裏の上に立て、しかもそれを壁に立て掛けもせずに宙にただ棒立ちにさせたまま、その梯子をのぼっていく。ぼくにはそんなことはできない、ぼくの梯子には意のままになるそういう足の裏さえないということはさておくとしても。」(「日記」フランツ・カフカ 谷口茂訳『カフカ全集7』新潮社1981年)

 「ALPS新設検討 廃炉中長期プラン改定、20年代後半稼働目指す」(令和6年3月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 祇園京都御所