この日の前日と前々日に雨が降り、京都一帯肌寒い風も吹いたのであるが、八幡市の背割堤の桜は満開を過ぎた六七割ほどの花がまだ枝に残っていた。背割堤は瀬割堤とも書き、二つの川の交わるところに土を高く積み上げ互いの川筋を侵して洪水などを起こさぬようにしたものであり、木津川と宇治川が合流するところ、その緩やかに曲がる流れに沿った一・四キロあるという大人の背丈の三倍ほどの高さに築いた土手の両側に二百数十本のソメイヨシノが植えられている。合流した二つの川はそのすぐ先で桂川と交わり、一筋となって淀川と名乗るのである。最寄り駅である京阪本線石清水八幡宮駅の真ん前の男山の上に石清水八幡宮があるが、その参道ケーブルの乗り口は閑散としていて駅前をひっきりなしに行き交っているのは、四月七日で終わるはずの桜まつりが十二日まで延長になるほど遅く咲いてまだ散らぬ桜を見に来た、あるいはすでにその景色を目に残し帰って来た者らばかりのようで、時は十一時半を過ぎた辺り、改札を出てすぐのところに長テーブルの店を出す弁当屋の女が、弁当売り切れ、弁当売り切れました、とその仲間にあるいは電車を降りたばかりの者らに声を上げる。その傍らにある店舗の入り口には、この先にコンビニはありません、という貼紙が張ってあり、手ぶらでやって来た者らがそろぞろその店の中に入って行く。この先を迷うことはない。即席の案内板があり人の流れがあり、京阪本線の踏切りには警備員が立ち、道がうねるように盛り上がる東高野街道沿いに京都守口線をまたもや警備の者の指示でぞろぞろ横切って木津川御幸橋の上に立てば、背割堤の桜並木が目に入る。が、その一・四キロの長さは遥か奥の土手の下にいる人の姿が米粒のように見えても、目に映ったものとしてもおいそれと「実感」出来るものではない。橋を渡り終え左手に一歩踏み出せばそれが背割堤の上であり、左右に植わる「出だし」の二本の桜はどこか迎い入れる者の「姿」のように目に映らないでもない。この桜まつりの入り口と称するところで、運営協力金百円を支払い、前を進む家族連れに従い、後ろに東南アジアのどこかの国の若者らを従えて桜の「門」を潜る。三人が並んで歩けば両端の者の腕が桜に届いてしまうほどの径幅である。桜は昭和五十三年(1978)に植えたものであるという。それ以前、ここにはあたかも天橋立の如く松が植えられていたが、松喰い虫にやられすべて桜にられたのである。樹齢五十年ほどであればどれも幹にそれなりの太さとごつごつした手触りの風格を持ち、その多くは左のものは左に右のものは右に土手の端からやや躰を傾け、己(おの)れの頭上の込み合う枝から逃れるように左右のなだらかな傾斜の上を這う如く枝の腕を波打たせている。この枝の木蔭にも叢の斜面にも径の端にも敷いたビニールシートの上で二人連れ数人連れが弁当を開け、ビールなど見当たらぬつつましやかな折りの飯を口に運び、あるいは握り飯を手に持ち、それは「いま」をしみじみ味わう術を身につけた振る舞いのようにも見える。歩を進めるに従って景色が変わるということはない。やがて目はその一年に一度きりの景色に慣れる。目が景色に馴染み、あたかも当たり前のように目に映り、見飽きるという思いはおぼろ気に遠く、いま少し何ごとかを見極めようという思いが募り出したとことで堤は尽き、桜並木は果てる。踵を返し径を戻ってもよいのであるが、「思い」はすでに凋(しぼ)んでいる。円く曲線を描いた石段を左手、木津川の方に降りる。一面の叢の河原から一・四キロの桜並木の全貌が見える。遮るものはない。この「清々しい」景色は町中(まちなか)で見ることは出来ない。半ば呆然と見惚れていると、「撮ってもらえませんか」と声をかけてくる者がいる。六十ほどの年の女で、後ろに夫らしきやや年上の男が薄ら恥じ入るような笑みを浮かべている。女から小型のデジタルカメラを受け取る。「ズームはこのボタンで、横向きで」背割堤の桜並木が左手から奥に遠ざかる手前に二人を立たせ一枚撮る。二人は日光を眩し気に笑っている。

 「山の草むらの中を彼らは小刻みに進んでゆく。それ以上早くは行けないのだ。あせりと動物的な恐れとにせきたてられて、がむしゃらに分け入ってゆく。ときおり、余りにも無謀に突き進むので茂みがはね返って、彼らは後の方にはじき返される。そして絶望だけが先へ先へと進み彼らをはるか後方に置き去りにする。男は山刀をはげしく振りまわす。希望を取り戻したいという気持ちと、自分たちはまだ死んではいないんだと感じたいためと、あれほどか細くお化けのようにひょろりとしていながらも、まるで糊の塊のように彼らの体をはりつけて通そうとしない菅や茨のかたまりを切り裂くためだ。」(「汝、人の子よ」ロア=バストス 吉田秀太郎訳『ラテンアメリカの文学10』集英社1984年)

 「原発事故訴訟 国賠償責任否定の判決が確定 最高裁」(2024年/4/11 毎日新聞・福島)