2017-01-01から1年間の記事一覧
京都錦小路の青物問屋枡源の四代目、伊藤源左衛門を継いだ絵師伊藤若冲の代表作「動植綵絵(どうしょくさいえ)」三十幅の内の三幅に「丹青活手妙通神」の印がある。これは絵の筆捌(さば)きが神業であるという意味であるが、この言葉は、八十六歳の煎茶売…
南無阿弥陀仏を口で唱えることをすることだけで、極楽浄土に誰でも往生出来る、と法然は説き、その「誰でも」は挙(こぞ)ってその念仏を唱え始めた。十二世紀末のその「誰でも」は皆、極楽往生を望んでいたのである。が、その「誰でも」の範疇に入らない皇…
夏目漱石が手帳に残した、明治四十年頃のものとされるメモに、次のような言葉がある。「京都へ落ちる。糺(ただす)の森の夜。烏。時計。正岡子規。」漱石の京都行きは、四十九年の生涯のうちで四度ある。明治二十五年(1892)七月、東京帝大生の漱石は…
『夢中問答』は、臨済禅師夢窓疎石(むそうそせき)が、足利尊氏の弟直義(ただよし)の発した九十三の問いに応えたものであり、二人の親密な関係を語るものである。「問。世情の上に浮かべる喜怒憎愛のやまぬほどは、偏(ひとへ)にこの念を対治することを…
織田信長と十一年の間、石山寺で戦った武装教団真宗本願寺は、紀伊鷺森、和泉貝塚、大坂天満と居場所を移し、信長の死後、豊臣秀吉に己(おの)れの目の届く京都七条堀川に移転させられる。信長との和議に応じた十一代宗主顕如(けんにょ)の死後を継いだ嫡…
「己未年の春二月(つちのとのひつじのとしのはるきさらぎ)の壬辰(みづのえたつ)の朔辛亥(ついたちかのとのゐのひ)に、諸将(いくさのきみたち)に命(みことおほ)せて士卒(いくさのひとども)を練(えら)ぶ。是(こ)の時に、層富縣(そほのあがた…
ひらいたひらいた なんのはながひらいた れんげのはながひらいた ひらいたとおもったら いつのまにかつぼんだ。手を繋(つな)ぎ、輪になってする「ひらいたひらいた」の遊戯で、ひらいていた輪がつぼんだことを、いつのまにかと思うのは、輪の中で目を閉じ…
天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也。何もない、というもの云いに出鼻を挫(くじ)かれる。何かあるだろうと考えていた者は、話を進めることが出来ない。この俳句の「ここには」のここは、天の川とは限らないが、天の川のことであるとすれば、天の川ある…
竹田深草の、龍谷大学短期大学部の正面で交差する二つの通りは、南北が師団街道で、東西が第一軍道であり、どちらも些(いささ)か物々しい。師団街道の師団は、旧帝国陸軍第十六師団のことであり、軍道は南へ第二第三と並び、第二軍道の東の突き当りにあっ…
栂尾(とがのお)高山寺の表参道は、そのなだらかな道幅から、山寺の懐の深さを予感させる。上りきって左に折れ、方形の踏み石の角と角をずらし並べた参道に立てば、その予感に違(たが)わぬ景色が目の前にある。老楓老杉老檜の巨木の木立ちの様を見通すこ…
藤原公任(ふじわらのきんとう)が娘の結婚相手藤原教通(ふじわらののりみち)への引出物に用意したという『和漢朗詠集』の巻上の秋に、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の、もみぢせぬときはの山にすん(む)鹿はおのれなきてや秋をしるらん、の歌が…
大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)という名は、聞いた記憶があるが、何者かよく分からない。蓮月は、江戸幕末の歌人、陶芸作家である。その蓮月焼と呼ばれる、自作の和歌を釘彫りした手でこねたいびつな器は、評判の京土産であったという。蓮月の詠んだ和歌…
平安京の東西の通りの一つ、四条坊門小路が蛸薬師通(たこやくしどおり)という名に取ってかわられたのは、通りの東の外れに蛸薬師堂が建った天正十九年(1591)より後のことであるが、その天正十九年には、豊臣秀吉の命で室町通姉小路の北にあった円福…
鳶尾草(イチハツ)や一椀に人衰へて 綾部仁喜。鳶尾草はアヤメを小ぶりにしたようなアヤメ科の花であり、アヤメよりも早く、水のないところに、いま頃の時期に咲く花である。俳句はこの鳶尾草の花、あるいはイチハツという言葉に、人が衰えるというありきた…
喉頭癌を患い職場を去って行った韓国籍の同僚だった者が、天神川の桜が奇麗であると、遠慮深げに云ったことがある。桜の話をしたのは、恐らく去年か一昨年のいま頃である。それより以前には、その者とは見ず知らずの関係であり、その者の退職は去年の夏であ…
平清盛の長男平重盛の次男、平資盛(すけもり)との恋愛の歌で知られる和歌集『建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)集』の右京大夫(うきょうのだいぶ)は、高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んだ平清盛の次女平徳子、建礼門院に仕えた女…
大原三千院の城のような石積の門の左右に、「梶井門跡三千院」と「国宝往生極楽院」の二つの名が下がっている。天台宗三千院は、安永九年(1780)刊行の『都名所図会』では梶井宮円融院梨本房の名で載り、三千院と名乗るのは、明治四年(1871)門跡…
目の前に川があり、向こう岸へ渡ろうとする時、水の流れが浅ければ裸足になって渡ることも出来るが、そうすることが躊躇(ためら)われるか、身に危険が及ぶような深さの場合、舟を使うか、あるいは何がしかの金を払って屈強な者に肩車をしてもらう。そこを…
原文はポルトガル語であったとされる、フランス語の訳で1669年に出版された、リルケのドイツ語訳で有名な書簡小説『ポルトガル文(ぶみ)』は、駐留を終えて去って行ったフランスの軍人に宛てたポルトガルの尼僧の五通の恋文である。恋文であるが、中身…
京の三名水と云い伝えられている五条堀川にあった佐女牛井(さめがい)は影も形もなく、御所の縣井(あがたい)はとうの昔に涸れ、梨木神社(なしのきじんじゃ)の染井の水は、その云い伝えの通りであるとすれば、平安時代から地上に湧き出ている。梨木神社…
建武三年(1336)、自身の諱(いみな)である尊治(たかはる)の一字を許した足利尊氏に、天皇の位を取上げられた後醍醐天皇は、朝廷に偽物の三種の神器を渡して奈良の吉野に逃れ、逃れてなお己(おの)れの正統を主張し、その主張するところが自(おの…
雨か雪という天気予報の朝、晴れ間ののぞく空から吹かれ漂う小さな雪の一粒の発見があり、忽(たちま)ち空が雲に覆われ、その数の数えは最早追いつかない雪の降り現われは、雨とならない大気の冷たさの説明である。寒さの最中に熱さを思うことは、一つの逃…
油小路通(あぶらのこうじどおり)は、その西の堀川通と東の西洞院通(にしのとういんどおり)の間を南北に走り、東西に走る六角通から五条通までの堀川通の間は、醒ケ井通(さめがいどおり)が挟まり、北の紫明通(しめいどおり)から錦小路通の西洞院通の…
「嵯峨に遊びて、去来が落柿舎(らくししゃ)に至る」ではじまる芭蕉四十八歳、元禄四年(1691)の嵯峨滞在の記『嵯峨日記』に、小督局(こごうのつぼね)の遺跡を尋ねる件(くだり)がある。「松の尾の竹の中に小督屋敷といふ有り。すべて(※どれも)上…
季節は、言葉によって作られる。暦の上の一月二十日は、大寒である。探梅や枝のさきなる梅の花 高野素十。四条通の西の外れ、桂川の手前の梅宮大社(うめのみやたいしゃ)の境内の、早咲きの白梅が花をつけていた。鼻を近づけ冷たい空気と一緒にかぐと、紛れ…
「邸宅を一個の生物に例えるならば、玄関はその頭部に当り客が先ず入って来る所である。玄関の前庭は如何なる客が入って来ても無礼にならぬ程度の特に引き締った式正の格調を要求される所であった。貴人の玄関前の鋪道は正式には石を四盤、亀甲、網代、乱継…