夏目漱石が手帳に残した、明治四十年頃のものとされるメモに、次のような言葉がある。「京都へ落ちる。糺(ただす)の森の夜。烏。時計。正岡子規。」漱石の京都行きは、四十九年の生涯のうちで四度ある。明治二十五年(1892)七月、東京帝大生の漱石は、松山に帰省する正岡子規に同行し、共に京都に二泊する。明治四十年(1907)四月、就いていた教職のすべてを捨て、漱石朝日新聞社に入る、その前月の京都行きが二度目である。明治四十二年(1909)九月、第一高等中学の同級生だった南満州鉄道会社総裁中島是公の招きによる満州・韓国行きの帰り、京都に立ち寄り、その翌年明治四十三年(1910)八月、漱石は伊豆修善寺で胃から吐血し、生死を彷徨(さまよ)う。大正四年(1915)三月の、四度目の京都は、二十九日の間滞在し、翌大正五年(1916)十二月、漱石胃潰瘍出血で、小説『明暗』を途中にしたままこの世を去る。明治四十年四月九、十、十一日の大阪朝日に載った「京に着ける夕」と同年六月二十三日から十月二十九日の東京朝日に載った小説『虞美人草(ぐびじんそう)』は、朝日新聞社漱石の初仕事であるが、「京都へ落ちる。」はその筆の走りの始めに置かれた言葉である。「京に着ける夕」は、こう始まっている。「汽車は流星の疾(はや)きに、二百里の春を貫いて、行くわれをを七条のプラツトフオームの上に振り落す。余(よ)が踵の堅き叩きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱつと吐いて、暗い国へ轟(ぐわう)と去つた。唯さへ京は淋しい所である。原に真葛、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔の儘(まま)の原と川と山である。昔の儘の原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至つても十条に至つても、皆昔の儘である。数えて百条に至り、生きて千年に至るときも京は依然として淋しからう。」「唯さへ京は淋しい所である。」と書く漱石は、その淋しい理由を云っていない。「唯さへ」は極めて強い断定であるが、具体のないこの淋しさを丸呑みすることには、読む者は慎重である。この時、この「唯さへ淋しい京」は、漱石にとって二度目の場所である。「始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規と一所であった。麩屋町の柊屋とか云ふ家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映つたのは、此の赤いぜんざいの大提燈(ちょうちん)である。此の大提燈を見て、余は何故か是(こ)れが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日(こんにち)に至る迄(まで)決して動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであると余が当時に受けた第一印象で又最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだ、ぜんざいを食つた事がない。」(「京に着ける夕」)「糸瓜(へちま)の如く干枯(ひから)びて死んで仕舞った」とも書く子規の死は、漱石の事実として心の内にあるものであるが、外に点るぜんざいの赤い大提燈は、この時その心の内を照らしたのかもしれぬ。夏蜜柑を食いながら一緒に遊廓を歩いた子規は、「血を吐いて新聞屋となる。余は尻を端折つて西国へ出奔する。───子規の骨が腐れつつある今日(こんにち)に至つて、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋にならうとは思はなかつただらう。」(「京に着ける夕」)京都駅から人力車に乗り、寒い夜を南から北へ走り抜け、漱石は糺(ただす)の森にある宿に着く。「「是(こ)れが加茂の森だ」と主人(※京都帝国大学文科大学長狩野亭吉)が云ふ。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士(※第三高等学校教授菅虎雄)が云ふ。大樹を繞(め)ぐつて、逆に戻ると玄関に燈(ひ)が見える。成程(なるほど)家があるなと気がついた。玄関に待つ野明さんは坊主頭である。台所から首をだした爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚の会下(ゑか)である。そうして家は森の中にある。後(うしろ)は竹藪である。顫(ふるへ)ながら飛び込んだ客は寒がりである。」(「京に着ける夕」)風呂に入って、そのまま漱石は床に就いた。「車に寒く、湯に寒く、果(はて)は蒲団に迄(まで)寒かつたのは心得ぬ。京都では袖のある夜具はつくらぬものの由(ゆゑ)主人から承つて、京とはよくよく人を寒がらせる所だと思ふ。」(京に着ける夕」)真夜中に漱石は、部屋の置時計の音で目を醒まし、明け方の烏の声で、再び見ていた夢を破られる。メモにある「糺の森の夜。烏。時計。」である。「時計はとくに鳴り已(や)んだが、頭のなかはまだ鳴つてゐる。しかも其の鳴りかたが、次第に細く、次第に遠く、次第に濃(こまや)かに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかゝらこころの底へ浸み渡つてこころの底から、心のつながる所で、しかも心の尾(つ)いて行く事の出来ぬ、遥かなる国へ抜け出して行く様に思はれた。───此の烏はかあとは鳴かぬ。きやけえ、くうと曲折して鳴く。単純な烏ではない。への字烏、くの字烏である。」(「京に着ける夕」)翌朝の窓の外は小雨が降り、「幾重ともなく寒いものに取り囲まれてゐた。」で「京に着ける夕」は終わる。その最後に、このような句が置かれている。「春寒の社頭に鶴を夢みけり」京都の淋しさの具体は、最後まで出て来ない。死んだ子規との思い出は、漱石が京都につけた思い出に過ぎない。小雨の降る翌日から漱石は、『虞美人草』の取材に京都を巡って歩く。知恩院清水寺上賀茂神社詩仙堂銀閣寺、真如堂永観堂、御所、建仁寺、北野天満、金閣寺大徳寺東慶寺高台寺伏見稲荷三十三間堂東本願寺西本願寺、東寺、萬福寺平等院興聖寺清凉寺天龍寺、嵐山、保津川仁和寺妙心寺等持院比叡山祇園。東京朝日連載第一作の『虞美人草』は、継ぎ目の目立つ小説である。継ぎ目は、言うまでもなく欠点である。作中最も作り込んだ人物である藤尾を、漱石は小説の最後で殺して仕舞う。これは、自分で積んだ積木を壊す子どもの仕業と変わりがない。「紅を弥生(やよい)に包む昼酣(ひるたけなは)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の濃き、点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮やかに滴(した)たらしたるが如き女である。夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺めしむる黒髪を、乱るゝなと畳める鬢(びん)に上には、玉虫貝を冴々と菫(すみれ)に刻んで、細き金脚にはつしと打ち込んでゐる。静かなる昼の、遠き世に心を奪ひ去らんとするを、黒き眸(ひとみ)のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸(ぬす)んで、疾風(しつぷう)の威(い)を作(な)すは、、春に居て春を制する深き眼である。此瞳を遡(さかのぼ)つて、魔力の境を窮(きわ)むるとき、桃源に骨を白うして、再び塵寰(ぢんくわん)に帰るを得ず。只の夢ではない。糢糊(もこ)たる夢の大いなるうちに、燦(さん)たる一点の妖星が、死ぬ迄我を見よと、紫色の、眉近く迫るのである。女は紫色の着物を着て居る。」登場のはじめの藤尾という女の描写である。新聞連載の初仕事に、漱石の肩にいかに力が入っていたかが分かるような文である。異母兄甲野がいて、父親の遺産問題を兄との間に抱えた藤尾は、文学の個人教師小野との結婚を望むが、小野は、京都時代の恩師の娘との間で右往左往し、藤尾との結婚を待っていた甲野の友人宗近に不誠実を問い詰められ、藤尾を振って仕舞う。筋はこうであり、小説『虞美人草』はその描写、「心臓の扉を黄金の鎚(つち)に敲(たた)いて、青春の盃に恋の血潮を盛る。飲まずと口を背けるものは片輪である。月傾いて山を慕ひ、人老いて妄(みだ)りに道を説く。若き空には星の乱れ、若き地(つち)には花吹雪、一年を重ねて二十に至つて愛の神は今が盛(さかり)である。緑濃き黒髪を婆娑(ばさ)とさばして春風に織る羅(うすもの)を、蜘蛛(くも)の囲と五彩の軒に懸けて、自(みづから)と引き掛る男を待つ。引き掛つた男は夜光の璧(たま)を迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字萬字に、魂(たましひ)を逆(さかしま)にして、後の世迄の心を乱す。女は只心地よげに見遣(みや)る。耶蘇教(やどけう)の牧師は救はれよといふ。臨済黄檗(わうばく)は悟れと云ふ。此女は迷へとのみ眸(ひとみ)を動かす。迷はぬものは凡(すべ)て此女の敵(かたき)である。迷ふて、苦しんで、狂ふて、躍(をど)る時、始めて女の御意は目出度い。欄干に繊(ほそ)い手を出してわんと云へといふ。わんと云へば又わんと云へと云ふ。犬は続け様にわんと云ふ。女は片頬に笑(ゑみ)を含む。犬はわんと云ひ、わんと云ひながら右へ左へ走る。女は黙つてゐる。犬は尾を逆(さかしま)にして狂ふ。女は益(ますます)得意である。───藤尾の解釈した愛は是(これ)である。」に魅力を覚えるかどうかにかかっている。『虞美人草』における京都は、漱石の生まれ育った東京に対して、古い田舎の町である。太宰治に『佐渡』という短篇がある。「佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。前から、気がかりになっていたのである。私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。関西の豊麗、瀬戸内海の明媚(めいび)は、人から聞いて一応はあこがれてもみるのだが、なぜだか直ぐに行く気はしない。相模、駿河までは行ったが、それから先は、私は未(ま)だ一度も行って見たことが無い。もっと、としとってから行ってみたいと思っている。心に遊びの余裕が出来てから、ゆっくり関西を廻ってみたいと思っている。いまはまだ、地獄の方角ばかりが、気にかかる。新潟までいくのならば、佐渡へも立ち寄ろう。立ち寄らなければならぬ。謂(い)わば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由も無く、佐渡にひかれた。私は、たいへんおセンチなのかも知れない。死ぬほど淋しいところ。それが、よかった。お恥ずかしい事である。」太宰は正直である。「京に着ける夕」の漱石は、子規を失くした己(おの)れの感傷、センチメンタルを京都に擦(なす)りつけ、気取っているのである。京都は、淋しいところである。佐渡は、淋しいところである。東京は、淋しいところである。福島、は淋しいところである。

 「人ハ自分に相談シテ言動セズ。故(ゆえ)ニ気ニナラヌ者ナリ。若(も)シ之(これ)ヲ忌(い)マバ自己の標榜(ひょうぼう)ト他トヲ一致セシメザルベカラズ 或(ある)程度迄出来る。(感化的形式的ニ)然(しか)シ他ノ立場ヲ考ヘナイ場合若(もし)クハ考ヘテモ理解デキナイ場合ハ全知ノ特権ヲ有(も)ツテ居ナイ場合トテモ取除ク訳ニ行カナイ」(夏目漱石の手帳、大正四年の断片『漱石全集 第二十巻』岩波書店1996年)

 「福島県産米規制を12月解除 EUの食品輸入、水産物の一部も」(平成29年11月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)