南無阿弥陀仏を口で唱えることをすることだけで、極楽浄土に誰でも往生出来る、と法然は説き、その「誰でも」は挙(こぞ)ってその念仏を唱え始めた。十二世紀末のその「誰でも」は皆、極楽往生を望んでいたのである。が、その「誰でも」の範疇に入らない皇族貴族の金で寺を建て仏像を作り、手の届かない教義を重んじてきた比叡山の天台真言、あるいは南都旧仏教から、激しい攻撃を受け、法然は讃岐に流罪になる。この法然の教えの元(もとい)は、叡山黒谷の経蔵で読んだ、中国善導の「観無量寿経」の注釈書『観無量寿経蔬(かんむりょうじゅきょうしょ)』の内にあった一言「一心専念弥陀名号」の発見である。「観無量寿経」は、「無量寿経」「阿弥陀経」と共に浄土三部経典の一つであり、実の子に幽閉され、その運命を嘆く母親に仏世尊が、浄土へ導くための法を説く経である。王舎城の太子阿闍世(あじゃせ)は、悪友調達(ちょうだつ 提婆達多、調婆達多ちょうばだった)の唆(そそのか)しで父王頻婆娑羅(びんばしゃら)を幽閉して王の位を奪い、秘かに身体に食い物を塗って父王に与えていたその夫人である母親韋提希(いだいけ)を殺そうとするが、家臣の説得で父王と同様に幽閉して仕舞う。悲しみやつれた母親韋提希が、救済を欲して世尊の弟子阿難(あなん)と大目犍連(だいもくけんれん)の出現を願うと、この弟子らと共に仏世尊が目の前に姿を現わし、韋提希は世尊にこう訴える。「「世尊よ、我れ宿(むかし)に何の罪ありてか、此(こ)の悪子を生めるや。世尊は復(また)何等の因縁有りて、提婆(だいば)達多と共に眷属(けんぞく)と為(な)るや。唯願わんは世尊よ、我が為(ため)に広く憂悩無き処を説かれんことを。我れ当(まさ)に往生すべし。閻浮提(えんぶだい ※人間世界)の濁悪(じょくあく)の世を楽(ねが)わざるなり。此の濁悪の処には、地獄・餓鬼・畜生盈満(えいまん)し、不善の聚(ともがら)多し。願わくは我れ未来に、悪声を聞かず、悪人を見ざらんことを。今、世尊に向かいて、五体投地し、哀れみを求めて懺悔(ざんげ)す。唯願わくは仏日(ぶちにち)よ、我れをして清浄業(せいじょうごう)の処を観せしめよ」爾(そ)の時、世尊は眉間の光を放つ。其(そ)の光は金色にして、十方無量(※無限)の世界を徧(あま)ねく照らし、還りて仏の頂に住(とど)まり、化して金の台(うてな)と為る。須弥山(しゅみせん ※世界の中央にあるという山)の如し。十方の諸仏の浄妙の国土、皆中に於(お)いて現わる。或(あるい)は国土有り、七宝もて合成す。復(また)国土有り、純(もっぱ)ら是(こ)れ蓮華なり。復国土有り、自在天宮の如し。復国土有り、玻瓈鏡(はりきょう)の如し。十方の国土、皆中に於いて現わる。是(かく)の如き等(ら)の無量の諸仏国土有り、厳顕観る可(べ)し。韋提希をして見せしむ。」悪のない清浄な場所を見せてくれと云う韋提希の願いに、世尊は様々な荘厳清浄な仏国土を見せたのである。が、韋提希は猶(なお)もこう云う。「世尊よ、是(こ)の諸仏土は、復(また)清浄にして皆光明有りと雖(いえど)も、我れ今、極楽世界、阿弥陀仏の所に生まれんことを楽(ねが)う。唯願わくは世尊よ、我れに思惟を教えよ、我れに正受を教えよ」世尊は応える。「彼(か)の国に生まれんと欲する者は、当(まさ)に三福を修むべし。一(いつ)は、父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業(※十善戒 不殺生・不偸盗(ちゅうとう)・不邪婬・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不食欲・不瞋恚(しんい ※憎悪しない)・不邪見)を修む。ニは、三帰(※三帰依 仏・法・僧)を受持し、衆戒(※多くの戒律)を具足し、威儀を犯さず。三は、菩提心を発(おこ)し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す」この三種の行いこそが、諸仏の修行の唯一の根本であると世尊は云う。韋提希は世尊にこう云わせて、一歩踏み込む。「世尊よ、我れの今者(いま)の如きは、仏力を以(もっ)ての故(ゆえ)に、彼の国土を見ん。仏の滅するの後の若(ごと)きは、諸もろの衆生等は、濁悪不善にして、五苦(※生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦)の逼(せま)る所となるに、云何(いかん)ぞ当(まさ)に阿弥陀仏の極楽世界を見るべきや」この問いが、この「観無量寿経」の主題である十六観、極楽往生のための、十六の対象を見て惟(おも)う方法を世尊から導き出すのである。世尊の云うその一つは、西に沈む太陽を観て、その形を再び心に想うことである。その二は、水を観て、水の光を想うことである。その三は、先の二つを極め、心に浮かぶ仏国土を想うことである。その四は、宝石が施されて瑠璃色に輝く宮殿が幾つもある宝樹の幹、枝葉、花果を詳しく観て想うことである。その五は、如意珠王(※宝石の王)から流れ出た水の調べを湛(たた)える池を観て、仏の教えを想うことである。その六は、無数の宝石で出来た楼閣と、そこに住む天人の演奏を観て、中空の響きに念仏の教えを想うことである。その七は、宝石の光を放つ蓮華とその花弁の一つ一つの様を観て、その光の変化に仏の様を想うことである。その八は、蓮華の上の仏と、先に観た宝石で輝く大地、水、樹木を再び観て、仏の左右に観世音と勢至菩薩の姿を想うことである。その九は、無辺の身体、八万四千の相を持つ無量寿仏の一つ一つの様を観て、無数の諸仏を想うことである。その十は、無限の身体を持ち、五百の諸仏を従えた観世音菩薩を観て、その八万四千の宝石の輝きに無数の仏侍者を想うことである。その十一は、十方を知恵の光で照らす勢至菩薩を観て、その動作の一つにすら無上の力が及ぶのを想うことである。その十二は、極楽世界の蓮華に座る己(おの)れを観て、一旦閉じた花が開き、己れを五百色の光が照らすその時、仏を見る己れの眼が開けたことを想うことである。その十三は、水が光る池の畔(ほとり)に一丈六尺の仏の像を観て、その阿弥陀仏に寄り来る観世音、勢至菩薩を想うことである。その十四から十六は、浄土往生のための行業と来迎の様を、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)の九品(くほん)段に分けて説き、その上品上生は、その衆生は真実を想い、その心を深く信じ、往生のための善行の功徳を誓い、慈悲の心で殺生をせず、戒律を守り、大乗経典を読唱し、仏・法・僧・戒・捨・天を思う六念の法を修め、廻向発願(※善行功徳を他の一切衆生に振り向ける)し、浄土に生まれんことを念願して、この善行功徳が一日ないし七日に及べば、直(ただ)ちに往生することが出来るとし、浄土に生まれんとする時、阿弥陀如来が観世音、勢至菩薩他の無数の仏を伴って現れ、手を差し伸べる。その導かれた浄土で仏、諸菩薩の優れた様を観て、宝石の光を放つ樹木のさざめきに仏の教えを聞き、無生法忍(むしょうぼうにん ※すべてにおいて生もなく滅もない)を悟る、とするのである。次に来る上品中生以下の階級は、修行意識が緩やかになり、来迎の規模も小さくなっていき、下品上生の衆生は、罪悪をなして心に恥ることがない者であるが、大乗十二部経の題目を唱えて罪悪を消し去り、浄土に再び生まれ、観世音、勢至の二菩薩の教えを理解した後には菩薩のはじめの位階に加わることが出来、「下品下生とは、或(あるい)は衆生有りて、不善の業、五逆・十悪を作(な)し、諸もろの不善を具(ともな)う。此(かく)の如き悪人は、悪業の故を以て、応(まさ)に悪道に堕(お)ち、多却(たこう ※永遠)を経歴し、苦を受くること窮まり無かるべし。此(かく)の如き愚人は、命の終わる時に臨み、善知識(※高徳の人)に遇(あ)い、種々に安癒し、為(ため)に、妙法を説き、教えて念仏せしむ。此(こ)の人、苦逼(せま)りて、念仏するに遑(いとま)あらず。善友、告げて言う、「汝、若(も)し、念ずること能(あた)わざれば、応(まさ)に、(帰命)無量寿仏を称(とな)うべし」と。是(かく)の如く、至心に、声をして絶たざらしめ、十念を具足し、南無阿弥陀仏と称う。仏の名を称うるが故に、念念の中に於(お)いて、八十億劫の生死の罪を除く。命終わるの時、金蓮華の、猶(なお)日輪の如くなるもの、其の人の前に住(とど)まるを見る。一念の如き頃(あいだ)に、即ち極楽世界に往生するを得たり。蓮華の中に於いて、十二大劫(※世界の生滅にかかる時間)を満たして、蓮華方(はじ)めて開く。観世音・大勢至は、大悲の音声を以て、其の為に諸法の実相と、罪を除滅するの法を広説す。聞き已(お)わりて歓喜し、時に応じて即ち菩提の心を発(おこ)す。是(こ)れを下品下生の者と名づく。」戦乱の絶えないあの時代に、法然はこの「観無量寿経」を根拠に、念仏を唱えれば誰でも極楽往生出来ると説いた。法然の弟子親鸞は、その「誰でも」が悪人であると云い、そのために、あるいはそれ故に阿弥陀如来は存するのであるとしたのである。十一月のひと月、真如堂で「観無量寿経」を絵にした「観経曼荼羅」、浄土変相図を見ることが出来る。「観経曼荼羅」は、本堂祭壇の左側に天井から垂れ下がっている。縦五メートル、幅四・四メートルの金糸を使った大刺繍である。「観経曼荼羅」の図の大部分を占めるのは、極楽浄土の住人である阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の大姿と、彼らを取り巻く無数の諸々の仏たちであり、背後にある彼らの住む楼閣と、庭の池辺に生まれた新しい住人である往生者と蓮華の花々、空中で楽器を奏でながら舞う飛天の姿である。「観無量寿経」の内容である、王舎城の太子とその母親韋提希の話と十六観法は、この浄土を縁取るよに、その両脇と下に、添え物の紙芝居の如くに並べられている。十一月五日のその日、真如堂は十夜念仏法要の初日に当たり、若僧数人が、「観経曼荼羅」の裏の祭壇で、図面のコピーを手に檀の幾つもの仏具の位置を、離したり戻したりしていた。その者らの裏でのやり取りを目にして目を戻すと、「観経曼荼羅」は忽(たちま)ちにその荘厳さを失い、巨大な双六(すごろく)の様(さま)に成り下っている。宗教は気分である。そうであれば、この浄土変相双六では、骰子(さいころ)は盤の外で振られ、そのコマのどこからでも上がりである極楽浄土へ行くのには、誰でも念仏を唱えればよいのである。

 「おまえが戦争中の自分の住所へ、戦争中の自分自身へと戻るために、雪の上の足跡やトラックのタイヤ跡を越え、暗闇の中を自分ひとりで作って歩まねばならない道へと。好むと好まざるとにかかわらず、どのような海を渡ってきたにせよ、家へ帰る道を……。」(トマス・ピンチョン 越川芳明他訳『重力の虹国書刊行会1993年)

 「「国が第2原発廃炉を」 内堀福島県知事が全国知事会議で要請」(平成29年11月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)