「武蔵国御家人、熊谷の次郎直実(なおざね)は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善(前世でおこなった良い行い、現世で良い果報を受けるという)のうちにもよをしけるにや、幕下将軍(源頼朝)をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して、蓮生(れんせい)と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたづね申けるに、さやうの事は法然上人に、たづね申べしと申されければ、上人の御庵室に参じにけり。罪の軽重をいはず、たゞ念仏だにも申せば往生するなり、別の様なしとの給(たまう)をきゝて、さめざめと泣ければ、けしからずと思たまひてものも給はず、しばらくありて、なに事に泣給ぞと仰られければ、手足をもきり命をもすてゝぞ、後生はたすからむずるとぞうけ給はらむずらんと、存ずるところに、たゞ念仏だにも申せば往生はするぞと、やすやすと仰をかふり侍れば、あまりにうれしくて、なかれ侍るよしをぞ申ける。まことに後世を恐れたるものと見えければ、無智の罪人の念仏申て往生する事、本願の正意なりとて、念仏の安心こまやかにさづけ給ければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかへたてまつりけり。」(『法然上人行状絵図』(『四十八巻伝』)第二十七巻)熊谷直実法然上人の前でさめざめと泣いた。大の大人が人目もはばからず泣いたのは、私のような者は手足を切り捨て腹を掻(か)っ捌(さば)かなければ往生出来ないと思っていたのに、ただ南無阿弥陀仏と唱えればいいと云ってもらえたことが嬉しかったからだと云うのである。「幕下将軍をうらみ申事ありて、心ををこし、出家して蓮生と申けるが」は、この前年、建久三年(1192)の十一月二十五日と日付のある『吾妻鏡』にこう書かれている。「建久三年十一月小廿五日甲午。白雲飛び散り、午以後霽(はれ)に属す。早旦、熊谷次郎直実と久下権守直光、御前に於て一決を遂ぐ。是、武蔵国熊谷と久下の境相論の事也。直実武勇に於ては、一人当千之名を馳せると雖(いへど)も、対決に至りては、再往知十之才に足らず、頗(すこぶ)る御不審を胎するに依りて、将軍家度々尋ね問はしめ給ふ事有り。時に直実申して云はく。此の事、梶原平三景時、直光(直実の叔父、養父)を引級するの間、兼日道理の由を申し入るるか。よつて今直実頻(しき)りに下問に預る者なり。御成敗の処、直光定めて眉を開くべし。其の上は理運の文書無し。左右(とこう)に能(あた)はずと称し、こと未だ終へざるに、調度文書等を巻き、御壺の中に投げ入れて座を起つ、猶忿怒(ふんぬ)に堪へず。西の侍に於て、自ら刀を取り髻(もとどり)を除(はら)い、詞(ことば)を吐て云はく。殿ノ御侍ヘ登リハテと云々。則(すなは)ち南門を走り出で、私宅に帰るにおよばず逐電す。将軍家殊(こと)に驚かせしめ給ふ。或説に、西を指し駕を馳せる。もしや京都の方へ赴くかと云々。則ち雑色等を相模、伊豆の所々ならびに箱根、走湯山へ馳せ遣はす。直実の前途を遮りて、遁世の儀を止めるべしの由、御家人及び衆徒の中に仰せ遣はし被ると云々。直光は、直実の姨母(いぼ、おば)の夫なり。其の好(よしみ)につき、直実、先年直光の代官と為し、京都大番に勤仕せしめる時、武蔵国の傍輩等同じ役を勤め在洛す。此の間、各(おのおの)、人の代官を以て、直実に対し無礼を現す。直実其の鬱憤を散らさん為、新中納言(知盛卿)に属し多年を送りおわんぬ。あからさまに関東へ下向の折節、石橋合戦あり。平家の方人と為し、源家を射ると雖(いへど)も、其の後また、源家に仕へ、度々の戦場に於て勲功を抽(ぬき)んずと云々。而(しかう)して直光を棄(す)て、新黄門の家人に列するの条、宿意(すくい)の基(もと)と為し、日来(ひごろ)境の違乱(いらん)に及ぶと云々。」雲の動き早く、午後晴る。朝早く、御前で熊谷次郎直実と久下権守直光の対決があった。武蔵国の熊谷と久下は境界を巡って訴訟を起こしていたのである。直実は一人で千人を相手にするほどの武勇者であるが、裁判での言葉のやり取りが覚束なく、伝わりにくいところが何度もあったので頼朝様も何度も聞き返すことがありました。すると直実はこのようなことを申した。「このようにこちらの言い分が通じないのは、担当の梶原平三景時が直光に味方をしてあらかじめ直光の言い分の方が正しいと申し入れているからではないのか。だから私ばかりが質問攻めにあっているんだ。どうせ判決は直光が喜ぶことになるんだ。そうであれば証拠の文書なんかに意味はないし、もうどうすることも出来ない。」と云って、判決も待たずにその証拠の文書を丸めて庭に投げ捨て、座を立って、ますます怒りが治まらず西にある侍の詰め所で髻を自分の刀で切り落とし、「殿の侍にまで出世したのにこれだ━━」と吐き捨てた。それから直実は南門を走り出て、自宅へも戻らず行方をくらましてしまった。頼朝様はひどく驚かれたました。ある者は直実は西へ馬を走らせた、京都へ向かったのではないかと云う。すぐに頼朝様は雑色らを相模や伊豆や箱根や走湯山を向かわせ、御家人や衆徒に直実の出家を止めさせるよう指示を出しました。直光は直実の叔母の夫で、その縁で前に直光の代理で京都の警護に就いていた時、同郷からも何人か同じ勤めに来ていて、その者らから直実が代官(代理)の身分であることをからかわれ、直実は理不尽な鬱屈を晴らすため知盛卿のところに身分を移して数年の勤務を終え、関東に戻る途中で石橋山の合戦がはじまると、平家方について源氏方に弓を弾いたのであるが、後に源氏に仕え、合戦の度に抜きんでた手柄を立てたという。このような経緯があり、直光から離れ平知盛の家来になったことが恨みを買うもととなり、直実と直光はことあるごとに境界争いをするようになったという。源頼朝の前で行われた叔父直光との領地境をめぐる裁きのさ中、うまく弁明出来なかった直実は座を蹴って髻(もとどり)を切り捨て、出家まで一足飛びに気持ちが昂り止まず、走湯山の妙真尼の口からその名が出たという法然の前で膝を屈して泣くのである。「心ををこし、出家して蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、往生菩提の事をたづね申けるに、さやうの事は法然上人に、たづね申べしと申されれば、上人の御庵室に参じにけり。罪の軽重をいはず、たゞ念仏だに申せば往生するなり、別の様なし」この「罪の軽重」とは、直実が法然に己(おの)れの罪の告白をしたということである。この直実の「罪」の意識は、叔父との領地争いのことではなく、平敦盛の首を斬ったことへの「罪」である。「熊谷の次郎直実は、「よからん敵がな、一人」と思ひて待つところに、練貫に鶴ぬうたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂に鎧着て、連銭葦毛なる馬に乗つたる武者一騎、沖なる船に目をかけて、五段ばかり泳がせて出で来たる。熊谷これを見て、扇をあげ、「返せ。返せ」とまねきけり。とつて返し、なぎさへうちあぐるところを、熊谷、願ふところなれば、駒の頭を直しもあへず、おし並べて組んで落つ。左右の膝にて敵が鎧の袖をむずと押さへ、「首を掻かん」と兜を取つておしのけ見れば、いまだ十六七と見えたる人の、まことにうつくしげなるが、薄化粧して鉄漿つけたり。熊谷、「これは平家の公達にてぞましますらん。侍にてはよもあらじ。直実が小次郎を思ふ様にこそ、この人の父も思ひ給はめ。いとほしや。助けたてまつらん」と思ふ心ぞつきにける。刀をしばしひかへて、「いかなる人の公達にておはするぞ。名のらせ給へ。助けまゐらせん」と申せば、「なんぢはいかなる者ぞ」と問ひ給ふ。「その者にては候はねども、武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実と申す者にて候」と申せば、「なんぢがためには、よい敵ごさんなれ。なんぢに合うては名のるまじきぞ。ただ今名のらねばとて、つひに隠れあるべきものかは。首実検のあらんとき、やすく知られんずるぞ。急ぎ首を取れ」とぞのたまひける。「あはれげの者や。ただ今この人討たねばとて、源氏勝つべきいくさに負くべからず。討ちたればとて、それによるまじ」と思ひければ、「助けたてまつらばや」と、うしろをかへりみるところに、味方の勢五十騎ばかり出で来たる。「直実が助けたりとも、つひにこの人のがれ給はじ。後の御孝養をこそつかまつらめ」と申して、御首掻いてんげり。のちに聞けば、「修理大夫経盛の末の子に、大夫敦盛」とて、生年十七歳にぞなられける。御首つつまんとて、鎧直垂をといて見れば、錦の袋に入れたる笛を、引合せに差されたり。これは、祖父忠盛笛の上手にて、鳥羽の院より賜はられたりけるを、経盛相伝せられたりけるを、名をば「小枝」とぞ申しける。熊谷これを見て、「いとほしや。今朝、城のうちに管弦し給ひしは、この君にてましましけるにこそ。当時、味方に、東国よりのぼりたる兵、幾千万かあるらめど、合戦の場に笛持ちたる人、よもあらじ。何としても、上臈(じやうらふ)は優にやさしかりけるものを」とて、これを九郎御曹司(源義経)の見参に入れたりければ、見る人、聞く者、涙をながさぬはなかりけり。それよりしてぞ、熊谷が発心の思ひはすすみける。「狂言綺語のことわり」といひながら、つひに讃仏乗の因となるこそあはれなれ。━━あまり思ひのかなしさに、「敦盛の御形見、沖なる御船にたてまつらばや」とて、最後のとき召されたる衣裳、鎧以下の兵具ども、ひとつも残さず、御笛までもとりそへて、牒状を書きそへ、使ひに受け取らせ、小船一艘したてて、御船、修理大夫殿へ奉りけり。その牒状にいはく、直実謹んで申す。不慮にこの君に参会したてまつり、呉王、勾践がたたかひを得、秦王、燕丹が怒りをさしはさみ、直に勝負を決せんと欲するきざみ、にはかに怨敵の思ひを忘れ、すみやかに武威の勇みをなげうち、かへつて守護を加へたてまつるのところに、雲霞の大勢襲ひ来りて、落花の過ぐるときをなす。たとひ直実、源氏をそむき、初めて平家に参ずといふとも、彼は大勢、これは無勢なり。燓噲(はんくわい)かへつて養由が芸をつつしむ。ここに直実たまたま生を弓馬の家に受け、はかりごとを洛西にめぐらし、怨敵旗をなびかし、天下無双の名を得たりといへども、蚊虻むらがつて雷をなし、蟷螂あつまつて隆車くつがへすがごとし。なまじひに弓をひき、矢を放ち、剣を抜き、楯をつき、命を同朋の軍士にうばはれ、名を西海の波に流すこと、自他、家の面目にあらず。なかんづく、この君の御素意を仰ぎたてまつるのところに、「ただ御命を直実にくだし賜はりて、御菩提を弔ひたてまつるべき」よし、しきりに仰せ下さるるのあひだ、はからず落涙をおさへながら、御首を賜はり候ひをはん。うらめしきかな、いたましきかな、この君と直実、怨縁を結びたてまつり、嘆かしきかな、悲しきかな、宿縁はなはだ深うして、怨敵の害をなしたてまつる。しかりといへど、これ逆縁にあらずや。なんぞたがひに生死のきづなを切り、ひとつ蓮の身とならざらんや、かへつて順縁に至らんや。しかるときんば、閑居の地を占め、よろしく彼の御菩提を弔ひたてまつるべきものなり。直実が申状、真否さだめて後聞にその隠れなからんや。この旨をもつて、しかるべき様に申し、御披露あるべく候。誠惶誠恐、謹言。寿永三年(1184)二月八日 丹治直実。進上伊賀の平内左衛門尉殿(経盛の取次者)」(『平家物語』巻第九・第八十九句「一の谷」)直実は、「身分のよい平家の敵が一人でも現れてくれれば」と思って待機していると、絹の練貫に鶴をあしらった直垂に萌黄のぼかしの鎧を着け、まだらの葦毛に跨(またが)りやって来たひとりの武者が沖に浮かぶ船をめがけ五百メートル余を、波の中を走り泳がせて行く。敵に背を向ける卑怯に直実は扇を大きく広げ、「こっちに戻れ、戻れ」と大声で叫ぶと、馬は取って返し、波打ち際まで戻って来た。直実は待ってましたとばかりに自分の馬を寄せて並ぶとすかさず襲いかかって相手を馬から落し、両膝を使って相手の鎧の袖を押さえ、すぐさま首を斬ろうとして兜を無理やり取り払うと、まだ十六七の面立ちをした器量のよい上に薄く化粧までしていて歯を黒く染めている。直実は、この者は平家のご子息であらせられよう、侍のような身分の者とはとても思えない。自分の息子の小次郎がもしいまと同じようなことになったことを思えば、この者の父親もいまの自分と同じ思いであられよう。お気の毒だ、助けて差し上げよう、と思い直し刀に手を掛けたまま抜かずに、「どなた様のお子でいらっしゃいますか、お名乗り下さい。お助けいたします」と云うと、「お前は何者である」とお訊きになった。「名乗って、それですぐに知れるほどの者ではありません。武蔵を治める熊谷次郎直実と申します」と応えれば、「お前にとっては上等な、もったいない相手だぞ。お前は、こちらが名乗るような身分の者ではないが、名乗らなくても隠し通すことは無理であろう。この首を晒せばすぐに分かる。ぐずぐずしないでこの首を取れ」とおっしゃられた。健気(けなげ)なお方であることよ。いまこのお方ひとりを討ち取らなかったとしても源氏のこの勝ち戦がよもや負けるはずはない。であれば討ち取っても討ち取らなくても同じではないか、と思うと、「お助け申し上げたい」と咄嗟(とっさ)にそう思ったのであるが、気配で後ろを振り向くと味方の軍が五十騎ほどもやって来るのが見え、直実は思いを変える。わたしがいま見逃したとしてもこのお方はもはや逃れることはお出来になるまい。であれば、わたしが討ち取り、「必ずあなた様のご供養をいたしますから」と云い、その首を討ち取ったのである。後に知るところは、修理大夫経盛の末の子、大夫敦盛で、わすか十七歳であった。その御首を包むために、鎧と直垂の紐を解いてみると、脇を結ぶ引き合わせに錦の袋に入った笛が差してあった。これは笛の名手だった敦盛の祖父忠盛が鳥羽院から賜り、父経盛が譲り受けた「小枝」と申す笛である。直実はその笛を見て、「何とおいたわしいことだ。今朝、一の谷の城の内から聞こえていた演奏はこのお方でいらっしゃったのだ。いま、東国からやって来ている兵たちが何千何万いるのか見当がつかないが、合戦のさ中に笛を携えている者など間違ってもいまい。高貴な身分のお方は何と優雅であることよ」と云って、この笛を源義経との面会の時に持って上がったところ、見る者聞く者涙を流さぬ者はなかった。このことがきっかけで直実は出家をするのである。笛が奏でるような「音楽」は仏の教えに背くようなものとされているにもかかわらず、直実がこの笛に関わって出家したのは皮肉であり、だからこそ胸打たれるのである。━━直実は救いようもなく深く悲しんだので、「敦盛様の御形見を、沖に浮かぶ平家の御船にお届け申し上げたい」と思い、敦盛が身につけていた衣裳や鎧などの兵具もすべて残らず、それからあの笛ももちろん、書状を添え、使いの者に渡し、小船を一艘仕立てて修理大夫殿の元にお届けした。その書状にはこう書かれていた。私直実、謹んで申し上げます。はからずもあなた様のご子息敦盛君に相まみえ、中国の呉王と勾践のように仇敵と戦うということになってしまい、秦王と燕丹のように怒りにまかせ直ちに勝負を決めようと一旦は思ったのですが、どうしたわけかすぐに怨む心が失せ、敵を討つ気持ちなどどこかにいって、それどころかお守り申し上げようとまで思いましたところに、味方の軍が雲霞のごとく大勢で押し寄せて来て、花を吹き散らす風が過ぎるのを待つような状態になってしまいました。いまここで私直実が源氏に背いて平家に味方をしたとしても、多勢に無勢でしかなく、中国の燓噲という豪傑も養由もこのような時には人に秀でた自分の腕を慎むといいます。私直実もたまたま弓馬使いの家に生まれ、計略を一の谷にめぐらし平家を降伏させ、天下無双の名を得たからと云って、蚊虻が群がって雷のような音を響かせ、蟷螂が集まって車を倒してしまうのにはかなうわけがありません。なまじ弓を弾いて矢を放ち、剣を抜いて、楯ついて、命を味方の兵に奪われ、汚名を西海の波に流しても誰の面目にもならないということなのです。どうしても申し伝えたかったことは、あの時敦盛様のお気持ちをお尋ね申し上げたところ、「私の命をお前に下げ渡すから、菩提を供養せよ」とのお言葉を繰り返しおっしゃっていただく間に、思わす零しそうになった涙を堪え、御首を頂戴いたしてしまいました。うらめしいことです。いたましいことです。敦盛様と私直実が怨縁をお結びいたしてしまったこと、本当に嘆かわしく、悲しい限りです。恐らくは前世の因縁が深かったことが敦盛様を敵としてお命をお奪いいたしてしまったのです。しかしたとえそうだとしても人の命を奪ってこれを機に仏の道に入ることは逆縁ではないのか、どうして互いにこの世の生死の縁を絶って、極楽に咲く蓮のような身になることは出来ないのでしょう。このことが逆に真っ当な仏縁にはならないのでしょうか。しかしもしそうなるためであればひとり静かな庵を結び、敦盛様の菩提を供養申し上げるのは当然のことです。私直実のこの申状にお書きいたしましたことことがうそであるかまことであるかは、後々人の知るところとなるはずです。このような思いが曲ることなくお伝え出来れば幸いに存じます。哀心からかしこみ畏れつつ謹んで申し上げる次第。一の谷の戦いで海へ敗走する平家軍からはぐれたように、源氏方熊谷直実の目の前に現れた武者一騎は、背を向けた卑怯から呼び返されところを直実に組み伏せられ、後に平清盛の弟経盛の子、敦盛と分かるその者はまだ若く、己(おの)れの子と同じ年ごろであると思い、勝負の大勢が決まってしまっているようなこの時直実は身分のあるこの者を一瞬逃すことを思うが、やって来た味方軍を見、この者に逃げ道はないと思い、必ず供養をすると誓って殺害し、後にその遺体形見と共に父経盛に宛てた書状には、庇って抵抗したとしても命は守れず、自分も汚名に染まるだけでありそうするほかになかった、と書き送る。最早敦盛を殺す理由がないと思ったにもかかわらず直実はその首を刎ねた。高野山蓮華谷で敦盛を供養した直実が法然の前でうれし泣きをするのは、この九年後のことである。黒谷金戒光明寺の御影堂の前に、熊谷直実の「鎧掛けの松」と札の立つ松がある。寺が立てたその駒札にはこう書いてある。「熊谷次郎直実(1141~1208)は建久四年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗い、この松の木に鎧を掛け出家した。庵は蓮池の畔に建てられ、現在の蓮池院(熊谷堂)である。供養塔は法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられている。平成二十五年九月に二代目の古樹が枯れ、現在は三代目となります。平成二十六年三月。」熊谷直実がわざわざ血のついた鎧姿でやって来て法然に会う理由がないことを思えば、この新しく植え直されたという「鎧掛けの松」は幾重にも不思議な松である。直実の書状を読んだ敦盛の父経盛はこう直実に返信を送っている。「返牒にいはく、今月(二月)七日、摂州一の谷において討たるる敦盛が首、並びに遺物、たしかに送り賜はり候ひをはん。そもそも花洛の故郷を出で、西海の波の上にただよひしよりこのかた、運命尽くることを思ふに、はじめておどろくべきにあらず。また戦場に臨むうへ、なんぞふたたび帰らんことを思はんや。生者必滅は穢土のならひ、老少不定は人間のつねのことなり。しかりといへども、親となり、子となることは、前世の契り浅からず、釈尊すでに御子羅睺羅尊者(らごらそんじゃ)をかなしび給ふ。応身の権化、なほもつてかくのごとし。いはんや底下薄地の凡夫においてをや。しかるときんば、去(さ)んぬる七日、うち立ちし朝より、今日の夕べに至るまで、その面影いまだ身を離れず。燕来たりてさへづれども、その声を聞くことなし。雁飛んで帰れども、音信を通ぜず。必定討たるるよし、承るといへども、いまだ実否を聞かざるのあいだ、いかなる風の便りにも、その音信を聞くやと、天にあふぎ、地に伏し、仏神に祈りたてまつる。感応をあひ待つところに、七か日のうちにかの死骸を見ることを得たり。これ、しかしながら仏天の与ふるところなり。しかれば、内には信心いよいよ肝に銘じ、外には感涙ますます心をくだき袖をひたす。よつてふたたび帰り来たるがごとし。またこれ甦るにあひ同じ。そもそも貴辺の芳恩にあらずんば、いかでかこれを見ることを得んや。古今いまだそのためしを聞かず。貴恩の高きこと、須弥山(しゅみせん)すこぶる低し。芳志の深きこと、滄溟海かへつて浅し。進んでむくはんとすれば、過去遠々たり。退いて報ぜんとすれば、未来永遠たり。万端多しといへども筆紙に尽くしがたし。しかしながらこれを察せよ。恐々、謹言(つつしんでまうす)。寿永三年二月十四日 修理大夫経盛、熊谷の次郎殿 返報。」(『平家物語』巻第九・第八十九句「一の谷」)今月七日に摂州一の谷で討ち取られた敦盛の首を、それから遺物の品々確かにお送りいただきました。あの時から京の町を出て西海の波の上を船で漂うようになってからはもはや運命も尽きたと思っていたので、今度のことはいまさら驚くようなことでもありません。あるいは戦場に出ることを思えば、どうして再び戻って来るようなことを期待しましょうか。生者必滅はこの世の習い、こうして子が親より先に死んでしまうようにこの世に人の死ぬ順序などはないのです。そうは云っても親となり子となるということは、前世からの契りが浅からずあったと云うことです。お釈迦様は子の羅睺羅尊者をお愛おしみなられました。衆生を救うために身を変えてこの世に現れたお釈迦様ですらそうでありますから、まして卑しい俗なこの世のただ人は云うまでもありません。そうであればこの七日の間、出陣した朝のあの時から今日の夕べに至るまで、敦盛の面影はありありと眼裏に残っていたのです。燕がやって来て鳴き交わしても敦盛の声を聞くことはもう出来ないし、雁が飛び去って行ってもあの子に便りを出すことも出来ません。間違いなく討ち取られてしまったことを承知したと応えても、本当に事実かどうかを聞かないうちはどんなかすかな風聞でもいいからわが子の消息を聞かせてくれと、天を仰ぎ地に伏して神仏にお祈り申し上げておりました。そのお示しを待っていたところ七日目にあのような遺骸(なきがら)を目にすることが出来たのです。これは間違いなく仏天がお与え下さったのです。そうであれば心の中ではますます信心を肝に銘じるのですが、一方では親心が痛んで涙が止りません。敦盛の遺骸をお送りいただいたことは、わが子が帰って来たことと同じなんです。いや甦ったようなことなんです。あなた様のお心遣いがなければ私はあの子の遺骸を目にすることはきっと叶いませんでした。いままでこのような例を聞いたことがありません。あなた様の恩の高さに比べれば、須弥山の方がずっと低いくらいです。あなた様の志の深さに比べれば、滄溟海などずっと浅いと云わざるを得ません。御恩をお返ししようと思っても、過去の因果は遙か遠くに思え、未来にその機会を得ることもまたいつの日を期すべきか分かりません。書くべきことが多すぎて到底手紙では書き尽すことが出来ません。私の千々の思いをお察し下され。恐る恐る謹んで申し上げる次第。金戒光明寺の山門前や石段の途中や墓地の上り口に咲いている桜は、ことさら懐かしさを催させる。その懐かしさは数年数十年のような懐かしさではなく、数百年前に見たことがあるような思いにさせる懐かしさである。それはたとえば、経盛の「進んでむくはんとすれば、過去遠々たり。退いて報ぜんとすれば、未来永遠たり。」という言葉を思い起こさせる。

 「噛まなくちゃいけねえぜ、よく噛めよ。私は臥したまま頬杖を突いて眺めていた。手を出して猫の腹を撫でてみると、消化しない煮干のためにごつごつしているような気がする。それだけの話で、うとうとっとするとまた身体が重いので寝返りをうつ。そんなことをくりかえしているうち、ひょいと眼をさますと猫は居なくなっている。その雄ばかりでなく、いろいろな成猫が晩ごと入ってくるようになった。純粋の野良猫ばかりで、はじめて入ってくるような気色ではないから、私の留守中は自由に出入りしているのであろう。かといって居続けをするわけではない。ひと休みしてまた出ていくという按配で、私と同じように、不意に、ドサッと出窓に飛びつき、障子の隙間と鉄格子をすり抜けて、すうっと入ってくる。」(『生家へ』色川武大 中公文庫1980年)

 「政府、数十年かけ風評対策、処理水海洋放出方針、基金積み増しも」(令和4月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)