嵐山の方から渡月橋を渡り長辻通を北に下って、JR嵯峨野線の線路を越え、そのまま突き当たるところに嵯峨清凉寺がある。その元(もとい)は『源氏物語』の人物光源氏のモデルともいわれている嵯峨天皇皇子、左大臣源融(みなもとのとおる)の別業棲霞観(せいかかん)にその没後(寛政七年(895)源融没)建てられた阿弥陀堂、棲霞寺にはじまり、天慶八年(945)に醍醐天皇皇子、式部卿源重明が正室の死に際し新たな釈迦像を安置する堂を建て、宋の仏聖地五台山から戻った東大寺の僧奝然(ちょうぜん)が愛宕山比叡山に並ぶ大伽藍大清凉寺の建立の野望を果たせず長和五年(1016)に没し、その弟子盛算が奝然が持ち帰った栴檀釈迦如来を新たな釈迦堂に安置したのが清凉寺のはじまりで、室町中期に流行の融通念仏の大道場として棲霞寺よりも清凉寺の名が知れ渡るようになったという。浄土宗清凉寺の通称は嵯峨釈迦堂(さがのしゃかどう)である。源融と源重明は『今昔物語集』の中に話を残している。「川原院の融左大臣の霊を宇陀院見給ふ語(こと)、第二。今は昔、川原院は、融左大臣の造りて住み給ひける家なり。陸奥国塩竃の形を造りて(景色を真似て)、潮の水を汲み入れて、池に湛へたりけり。様々に微妙(めでた)く可咲(おか)しき事(風流に凝った)の限りを造りて住み給ひけるを、其の大臣(おとど)失せて後は、其の子孫にて有りける人の、宇陀院(宇多法皇)に奉りたりけるなり。然(しか)れば、宇陀院、其の川原院に住ませ給ひける時に、醍醐天皇は御子に御(おは)しませば、度々(どど)行幸有りて微妙(めでた)かりけり。然(さ)て、院の住ませ給ひける時に、夜半許(ばかり)に、西の台の塗籠(ぬりごめ、妻戸を切った四方が壁の寝室)を開きて、人のそよめきて参る(衣ずれの音をさせて来る)気色の有りければ、院遣らせ給ひけるに、日の装束(昼の束帯)直(うるは)しくしたる(正式に着た)人の、大刀帯(は)きて笏取り、畏(かしこま)りて、二間許(ばかり)去(の)きて居たりけるを(跪いているのを)、院「彼(あ)れは何人ぞ」と問はせ給ひければ、「此の家の主(あるじ)に候ふ翁なり」と申しければ、院、「融大臣か」と問はせ給ひければ、「然(さ)に候ふ(そうでございます)」と申すに、院、「其れは何ぞ(何の用か)」と問はせ給へば、「家に候へば(私の家でございますから)住み候ふに、此(か)く御(おは)しませば(このようにしていらっしゃられると)、忝(かたじけな)く所せく思ひ給ふるなり(恐れ多く気づまりに存ずるのでございます)。何が仕(つかまつ)るべき(いかがいたしましょうか)」と申せば、院、「其れは、糸異様の事なり(いかにも妙なことを云う)。我れは人の家をやは押し取りて居たる(ひと様の家を勝手に奪ったとでも云うのか)。大臣の子孫の得させたればこそ、住め(お前の子が献上したから私は住んでいるのだ)。者の霊なりと云へども、事の理(ことわり)をも知らず、何(いか)で此(か)くは云ふぞ(何という云い草だ)」と、高やかに仰せ給ひければ(威厳をもって一喝されると)、霊掻消つ様に失せにけり。其の後、亦(また)現はるる事無かりけり。其の時の人、此の事を聞きて、院をぞ忝(かたじけな)く申しける。「猶、只人には似させ給はざりけり(並の人とはどこか違っておられる)。此の大臣に霊に合ひて、此様(かやう)に痓(すく)やかに異人は否(え)答へじかし(他の者ならこれほどきっぱりと云い返すことはできないだろ)」とぞ云ひけるとなむ、語り伝へたるとや。」(巻第二十七)生きていた時も変わり者と思われていた源融が死んでからも己(おの)れの住まいに執着するように現れ、宇多法皇に一喝されたという。「民部卿忠文の鷹、本の主を知れる語(こと)、第三十四。今は昔、民部卿藤原忠文と云ふ人有りけり。此の人宇治に住みければ、宇治の民部卿となむ世の人云ひける。鷹をぞ極めて好みけるに、其の時に式部卿の重明親王と云ふ人御(おは)しけり。其の宮も亦(また)鷹を極めて好み給ひければ、「忠文民部卿の許に吉(よ)き鷹数(あま)た有り」と聞きて、其れを乞はむ(譲り受けよう)と思ひて、忠文の宇治に居たりける家に御(おは)しにけり。(前触れもなくやって来たため)忠文驚き騒ぎて、忩(いそ)ぎ出で会ひて(出迎えて)、「此は何ごとに依りて(どんな御用で)思ひ懸けず渡り給へるぞ(思いもよらずお越しになられたのですか)」と問ひければ、親王、「鷹数(あま)た持ち給へる由を聞きて、其れ一つ給はらむと思ひて参りたるなり」と宣(のたま)ひければ、忠文、「人などを以て仰せ給ふべきことを(使いを寄こしてそう仰しゃればよろしかったのに)、此(か)く態(わざ)と(わざわざ)渡らせ給へれば(お越しいただいたのですから)、何(いか)でか奉らぬ様は侍らむ(どうして差し上げないことがありますか)」と云ひて、鷹を与へむと為(す)るに、鷹数(あま)た持たる中に、第一にして持たりける鷹なむ、世に並無く賢(かしこ)かりける鷹にて、雉(きじ)に合はするに(向かわせると)必ず五十丈が内を過ぐさずして(百五十メートルも飛ばないうちに)取りける鷹なれば、其れをば惜みて、次なりける鷹を取り出でて与へけり。其れも吉(よ)き鷹にては有りけれども、彼の第一の鷹には当るべくも(匹敵するものでは)非(あら)ず。然(さ)て親王、鷹を得て喜びて、自ら居(す)ゑて(肘にとまらせて)京に返り給ひけるに、道に雉(きじ)の野に臥したりけるを見て、親王、此の得たる鷹を合はせたりけるに、其の鷹弊(つたな)くて鳥を否(え)取らざりければ、親王、「此(か)く弊(つたな)き鷹を得させたりける(こんな無能な鷹を寄こしやがって)」と腹立ちて、忠文の家に返り行きて、此の鷹をば返してければ、忠文鷹を得て云はく、「此れは吉(よ)き鷹と思ひてこそ奉りつれ。然(さ)らば異鷹を奉らむ」と云ひて、「此(か)く態(わざ)と御(おは)したるに」と思ひて(わざわざお越し下さったのだからと思って)、此の第一の鷹を与へてけり。親王、亦(また)其の鷹を居(す)ゑて返りけるに、木幡の辺にて試みむと思ひて、野に狗(いぬ)を入れて雉を狩らせけるに、雉の立ちたりけるに彼の鷹を合はせたりければ、其の鷹亦(また)鳥を取らずして飛びて雲に入りて失せにけり。然(しか)れば其の度は親王、何も宣(のたま)はずして京に返り給ひにけり。此れを思ふに、其の鷹、忠文の許にては並(ならび)なく賢(かしこ)かりけれども、親王の手にて此(か)く弊(つたな)くて失せにけるは、鷹も主(あるじ)を知りて有るなりけり(誰が飼い主であるかを知っているのである)」。然(しか)れば、智(さとり)無き鳥獣なれども、本(もと)の主を知れる事此(か)くの如し。況(いはん)や心有らむ人は、故(ゆゑ)を思ひ、専(もは)らに親しからむ人の為には吉(よ)かるべきなりとなむ(自分を信頼している人のためには最善を尽くすべきであると)、語り伝へたるとや。」(巻第二十九)式部卿重明がだしぬけに立ち寄った民部卿忠文の鷹を欲しがり、はじめに貰った鷹は雉を取らず無能だと思って返し、再び貰った鷹は優秀であったが故に誰が主か知っていたため、重明が放した隙に逃げて行ったのである。四月のこの時期、清凉寺の境内の西に建つ狂言堂の二階の舞台で保存会が演じる嵯峨大念仏狂言が催される。九日、土曜日のはじめの回の出し物は「釈迦如来」と題する狂言である。公演の時間になると、木蔭や便所の軒下にいた者らが正面の日当たりに並べられた椅子に腰を下ろした。笛鉦太鼓のお囃子の中、一体の釈迦如来を両側から抱えるように坊主と脇差を差した寺侍が舞台の左手から入って来て、恭(うやうや)しくそれを据え、信心の手を合わせているところへ、ある母娘がお参りにやって来る。が、はじめ坊主と寺侍はこの親子の参拝を許さない。が、母親が懷から大きな「御布施」を差し出すと一変釈迦の元に招かれ、母親が釈迦をさすり柄杓で水を掛け手を合わせると、突然釈迦は「ガッテン、ガッテン」と身体を曲げてお辞儀をし、坊主と寺侍はそれを見てひっくり返る。幼い娘も母に倣って手を合わせるが、釈迦はくるりと背中を向けてしまい、娘は泣いて柄杓で釈迦を叩くと、親子は寺侍から蹴り出されてしまう。坊主と寺侍が手を尽くしても釈迦は正面を向いてくれず、寺侍が先ほどの母親を呼び戻し手を合わせてもらうと、釈迦はまた「ガッテン、ガッテン」と身体を曲げ、今度はあろうことか母親の肩を借りるように手を掛け、驚いて腰を抜かした坊主と寺侍が引き戻そうとしても釈迦と母親はお堂から出て行ってしまう。がらんとしたお堂を見渡し思い悩んだ坊主は自ら釈迦の姿を真似て右手を上げ「お釈迦様」に成り変わる。それを見つけて驚いた寺侍は慌てて手を合わせるが、「お釈迦様」は寺侍の「信心」を見抜いたように背中を向けてしまい、困った寺侍はさきほどの親子の幼い娘の方を連れて来て拝ませると、「お釈迦様」は「ガッテン、ガッテン」をし、娘の肩を借りてまたお堂から出て行ってしまう。お堂にひとり取り残された寺侍は何を思ったか自分も釈迦の姿を真似て右手を上げる。が、いつまでたっても自分を拝みに来る者は来ず、とうとう逃げるようにお堂から走り去る。演者は無言でこう演じる。時折シジュウカラが鳴き、風が吹くと辺りに残っていた桜の花びらが舞台の前で舞っていた。奝然(ちょうぜん)が宋がら持ち帰った釈迦如来像は、釈迦の生き姿を写したというインド伝来の「優塡王思慕像(うでんおうしぼぞう)」を見て感激し、その写しを現地の兄弟仏師にひと月で彫らせたものであるという。この釈迦如来像には、胎内に絹に綿を詰めて作った五臓六腑が納められていた。それはこの世で生きるための生身の証拠であり、生身であるがゆえに狂言の釈迦如来は母親に連れられる如くに滑稽であわれで切実に寺を捨てて出て行ったのである。見てゐるは里人ばかり嵯峨念仏 五十嵐播水。

 「ぼくは山椒魚に取り憑かれていたことがある。植物園にある水族館に出かけて行っては、何時間も山椒魚を眺め、彼らがかすかに身動きしたり、じっとうずくまっている様子を観察したものだ。今では、そのぼくが山椒魚になっている。」(「山椒魚」フリオ・コルタサル 木村榮一訳『遊戯の終り』国書刊行会1977年)

 「待ってた全域「再開通」 富岡・夜の森「桜のトンネル」」(令和4年4月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)