花筏(はないかだ)水に遅れて曲りけり ながさく清江。琵琶湖疏水の水は東からやって来て蹴上で分かれ、一方は南禅寺の中空を横切り、哲学の道が沿う流れとなって白川に注ぎ、もう一方は動物園、平安神宮一の鳥居の前を真っ直ぐ、ひと折れふた折れして鴨川に注ぐ。哲学の道にも岡崎の側にも桜が植えられているが、岡崎疏水には花の時期に遊覧船が出る。遊覧船は琵琶湖側から出るのもあり、その疏水船はトンネルを潜って山科の桜の中を通る。花の雲は雲にあらず、空が曇れば花曇りで、夜に出くわすのは花明り、花朧とは朧に花が失せゆくこと、思わぬ花冷えに一枚羽織り、東北の花の便りはいつも遅く、見れば桜は散り時で、花の主は花を惜しみ、その足元には花の屑、岡崎疏水も早やしな垂れた枝の先から花吹雪が舞い、満員の十石船が過ぎれば濁る水に浮かんでいた花びらが片寄せられ、長い花筏となってゆらゆら漂いその先が見えぬほどいまひと繋がりになる。花筏水に遅れて曲りけり。「水に遅れて曲りけり」という云いは、物理的な事実を無視し「そう見え、そう思わせる」ような「隙」を覚えさせる巧みな詠みである。が、水はつねに花に先んじている。土から根を通り花に先んじて枝を曲るのが水の道理であろう。

 「反対に、おのれの蝶番から外れてしまった時間は、発狂した時間を意味している。発狂した時間とは、神が時間に与えた曲率の外に出て、おのれの単純すぎる循環的な形態から自由になり、おのれの内容をつくってくれたもろもろの出来事から解放され、おのれと運動との関係を覆(くつがえ)してしまうような、そうした時間であって、要するに、おのれを空虚で純粋な形式として発見する時間なのである。」(『差異と反復』ジル・ドゥルーズ 財津 理訳 河出書房新社1992年)

 「弁護団「国も倍書責任」 原発事故訴訟、過失前提の基準策定目指す」(令和4年4月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)