東山蓮華王院、三十三間堂の南大門道を挟んだ東側に法住寺と養源院がある。車も通る二階のない平構えの南大門の片側に立つ築地塀は太閤塀と呼ばれている。これは道を北に上(あが)って七条通を越えた京都国立博物館の先にある方広寺の塀の名残りで、豊臣秀吉は奈良の東大寺に対抗する大仏殿のため辺り一帯を容赦なくこの土塀で囲んだのである。法住寺は永延二年(988)に右大臣藤原為光が己(おの)れの娘の菩提寺に建て、その寺が長元五年(1032)に焼き失せた後、永暦二年(1161)後白河上皇が御殿、法住寺殿を造り、上皇の勅願に応え長寛二年(1164)平清盛が千躰観音堂三十三間堂を建てるのである。通りからは見えないが番小屋の立つ囲いの厳(おごそ)かな後白河天皇陵が法住寺の裏にある。明治維新の前まで陵守をしていた法住寺は陵の管理が宮内省に移ると敷地を割られ大興徳院と名を変え、昭和三十年(1955)に再び法住寺に名が戻ったという。護摩法要の四角い砂場を中心に据えた狭い境内の築地のそばで山桜が咲いていた。何ものが死んでこの墓山桜 正岡子規。養源院の門前には血天井と書かれた駒札が立っている。「桃山御殿、血天井俵屋宗達、杉戸絵(白象、唐獅子)、襖絵(松図)。当院」慶長五年(1600)、意に従わぬ会津上杉景勝を討つため大坂城を出た徳川家康伏見城に寄り、十代から己(おの)れの側で仕えていた鳥居元忠に城を守らせる。が、大坂を離れた家康に隙を見た石田三成らの軍は千八百余の兵で守っていた伏見城を十三日で落城させ、命の残った徳川軍三百余人はその場で自害する。豊臣秀吉正室淀が文禄三年(1594)、織田信長軍に破れ自害した父浅井長政とその一族の菩提寺として養源院を建てた。が、元和五年(1619)に焼け失せ、淀の妹徳川秀忠正室江が元和七年(1621)に寺を再興の折り、血の染みた伏見城の床板を本堂の廊下の天井に張ったのが血天井である、とラジカセのスイッチを入れ、髪の短い小柄な作務衣姿の初老の女の係がその声に説明を加える。長い竿で指したところが鳥居元忠の目鼻、胴、折った膝であると。昔神社の境内に立った見世物小屋の「身の丈六尺のオオイタチ」は「大板血」であった。が、この血天井下の廊下の杉戸絵は国宝、俵屋宗達の「白象」である。切り絵のデザインのようなのっぺりとした頭の、様子の違う二頭の象が二枚の戸に描かれている。太い足先に爪があり、鼻は長く、大きな両耳が垂れ、二本の牙が口元から反り出している。確かに象の姿である。この絵の向こう、表に近い戸の絵は二頭の麒麟である。麒麟は馬の面(つら)に角を生やせ、背中に甲羅のようなものを載せている。この裏、寺の客がはじめに開ける戸の表には二頭の見慣れた顔つきの唐獅子が描いてある。天正二年(1574)あるいは慶長二年(1597)慶長七年(1602)に象がやって来たという記録があるというが、象も麒麟も唐獅子もこの世のものとは思えぬ生きものである。血天井の下には草木や野山の鳥獣ではなく、この世のものと思えぬものだけを描いているのである。そのことの理由は係の者が回すカセットテープからも係の口からも出て来ない。象は普賢菩薩の乗り物で、獅子には文殊菩薩が乗り、麒麟が現れるのは聖人がこの世に姿を現す時である。係の者の話では、血天井は血を流して死んだ者への供養であるという。天井が「天上」であれば、見れば辺りにはこの世ならぬものが住んでいる。自害し果てた者らはこの世を彷徨(さまよ)いながら己(おの)れがあの世に来たことをこの絵で知るのである。養源院の山門を潜った参道のもみじが枝に若葉をひろげている。その色は潜った時に見た時よりも、帰り際の眼に濃く映った。吹入るる窓の若葉や手習い子 廣瀬惟然。

 「そうして三十年という歳月が経った。三十代が過ぎ四十代も過ぎ、五十代も尽きた。━━中頃までは世間に背を向ける緊張もあっただろう。よくよくの覚悟、静まり返った拒絶であったはずだ。何を境にして、意地が絶えたのか。銭湯へ通うほかはろくに外へ出なくなったのか。窓に鉢植を見なくなってからもひさしい。」(「背中ばかり暮れ残る」古井由吉『陽気な夜まわり』講談社1994年)

 「海側の作業4月25日にも着手 処理水放出、放水口設置へ海底掘削」(令和4年4月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)