西大路通平安京の野寺小路にほぼ重なるという。野寺小路は平安京の中心を南北に貫く朱雀大路から西に七つ目の通りである。が、その西半分はそもそも水捌けが悪く人の住まざる土地として長らく田畑や野っぱらであり続け、豊臣秀吉はこの通りのすぐ東を流れる紙屋川に沿って高さ三メートル余の御土居を築き、その外は洛外となった。国鉄山陰線の二条駅が記されている明治四十二年(1909)の京都市実地測量地図にあっても、桂川に至るまでの一帯は田を示す記号で占められている。西大路通がいまの姿に整備されたのは昭和十四年(1939)である。JR嵯峨野線の下で大きく沈む西大路通を、その線路の下を抜けて南に上って行くと、二つ目の交叉点の左手東側に「西大路太子道」という表示が見えてくる。が、ひとつ手前の交叉点にも、南から北に向かって左手西側の中空にまったく同じ「西大路太子道」と記した表示が掲げられていて、ここで交叉する「太子道」は車一台の幅でゆるゆると東西に延びている。明治四十二年の二条駅付近より西のその実測図には、南を走る三条通とその上を走る道が一本、北に広がる何もない田圃の先を西に曲がって延びる山陰線の下、平行して田圃の中を西に走る道が一本ある。この田圃道が道幅の狭い方の「太子道」である。「太子道」の東のはじまりは、道筋が朱雀大路に重なる千本通である。そのはじまりの、千本通を挟んだ向こう側には平成二十四年(2012)に移転するまで出世稲荷があった。出世稲荷は豊臣秀吉聚楽第の邸の内に己(おの)れの出世祈願のために建て、寛文三年(1663)に聚楽第が取り壊された後、千本通に移されたものである。この稲荷に手を合わせ、踵を返して振り返り、そのままうねうねと曲りながら田圃の中を西へ進む「太子道」は、御室川の手前で一旦南に折れて広隆寺に辿り着く。広隆寺は、聖徳太子からその本尊となる弥勒菩薩を泰河勝が貰い受け安置した蜂岡寺が元(もとい)であり、太子堂とも呼ばれていた。「太子道」は広隆寺まで三・四キロのお参り道なのである。「━━いったん新二条通に出て奥畑町・池田町から(太子)道は南に振り、再び西へ。今は大阪に移転したイマジカの名を町内案内板に見つけたりすると、映画の町・太秦が近づいてきたなと思う。」(「太子道」樋爪修『続京都の大路小路』小学館1995年刊)ここに出て来る「新二条通」が、「西大路太子道」のもうひとつの二車線道路の「太子道」である。が、この書き手はこの「新二条通」を「太子道」とは呼んでいない。「千本通から太子道つまり旧二条通に入る。朱雀二条商店街の賑やかな通りを抜け、山陰線の踏切を渡る。」(「太子道」樋爪修『続京都の大路小路』)明治の実測図の中でくねる「太子道」は「旧二条通」とも云い、道の名としては「旧二条通」の方が実は古く、「太子道」となったのは昭和に入った辺りからであるという。二条通の西の末は徳川家康が築いた二条城の正面前である。が、二条通とほぼ重なる平安京の二条大路は、西の果ての西京極小路まで延びていた。が、その道筋は「旧二条通」の「太子道」の位置よりもかなり南であり、明治の実測図にはその辺りには何も記されていず、いま手許の平成二十六年(2014)版の地図を広げ二条城で途切れる二条通の続きを西に辿ってみれば、一本の通りが西ノ京中学の裏を通り、朱雀四小の南を進み、島津製作所の北を抜け、蚕ノ社に出る。ここから真っ直ぐ広隆寺までの道は、いまは南から大きく曲がって北上してくる三条通となっているが、「旧二条通」の「太子道」とも重なっているのである。いま二条城の西側から辿ってきたこの道は上押小路通と名がつけられているが、恐らくは二条大路の名残りであり、蚕ノ社から広隆寺までの道筋が重なる田圃道が「旧二条通」と呼ばれるようになったのは恐らくはこの理由からであろうと思われる。「新二条通」は「旧二条通」が「太子道」となった後に、狭くて勝手の悪い「太子道」の南に沿って造られ「新二条通」となった。が、「新二条通」を「太子道」と呼ぶ理由は詳(つまび)らかでない。が、誰かが、その途中で「旧二条通」の「太子道」と交わる「新二条通」を「太子道」と呼んだのである。この「話」はそうでなければならず、それを聞いた者も別の者の前で「太子道」と口に出した。それからまた別の者も「新二条通」に「太子道」の名を使うようになり、そうなればあるいはそうなってしまえば、この辺りに住まう者らはもはや誰がどちらの道を「太子道」と呼んでも、むきにどちらが「違う」とは口に出したりしない。という想像が確かであれば、これが京都人の「らしさ」であり、二つの交叉点の名が共に「西大路太子道」なのである。「━━(太子)道沿いに長く続く安井商店街に入る。衣類などの日用品を売る店、昔ながらの荒物屋、先程の感慨も重なり、一挙にタイムスリップする。大規模店舗が進出する前の活気あふれる商店街。昔、そこへ行けば何でも揃った。母親に手を引かれて買い物に行ったときの懐かしさがこみあげてくる。」(「太子道」樋爪修『続京都の大路小路』)このような「昭和」の匂うところは京都のそちこちにある。安井商店街はいまは半ば住宅に建て替わり、あるいはシャッターが下りたままの店が並んでいるのであるが、たとえば太秦安井東裏町、春日町、馬塚町、藤ノ木町が角を合わせる「旧二条通」の「太子道」のほんの一角は、ときわ衣料品、谷口酒店、もりかわ帽子、シャッターの下りた西川洋品のそれぞれが道の交わりが枝のようにずれている角にあって、はじめてここを通った時見たはずのない景色に胸迫る「昭和」が匂い立って来たのである。

 「「下鉢(あはつ)法。身を挙げ安詳(あんしよう)として定より起立し、身を転じて右廻し、掛搭単(かたたん、修行僧の名を記した札)に向いて合掌低頭す。略問訊し訖(おわ)りて鉢(はつ)を取るに、左手もて鉢に提(ひつさ)げ、右手もて鉤(こう)を解き、両手もて鉢を托(ささ)う。太(はなは)だしく高く、太だしく低きことを得ず。胸に当て、身を上肩に転じて曲躬(きょつきゅう)し、将(まさ)に坐せんとして盋盂(ほう)を上肩の背後に放(お)く。腰背肘臂(ようはいちゆうひ)を将(もつ)て隣位に撞著(どうちやく)することを得ず。袈裟(けさ)を顧視(こし)して、人の面(おもて)を払わしむることを得ず。」鉢の下ろし方。身のこなしを穏やかに、しっかりと立ち、身を右まわりに転じて掛搭単に向かい、合掌して頭を下げる。合掌して浅く頭を下げたら鉢を取るのだが、まず左手で鉢の包を吊るすように持ち上げ、右手で鉤を外し、両手で鉢をささえ持つ。高すぎても低すぎてもいけない。ちょうど胸の前にして身を左に転じ、屈んで坐りながら鉢を左うしろに置く。このとき、腰・背・腕で隣位の者を突いてはならない。また、袈裟に十分注意して、他人の顔をなでることのないようにする。」(「赴粥飯法(ふしゆくはんぽう)」道元 中村信幸訳『典座教訓(てんぞきようくん)・赴粥飯法』講談社学術文庫1991年)

 「第1原発、処理水満杯は来夏~秋の見通し 東電、春放出の変更なし」(令和4年4月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)