千本通は平安京の朱雀大路に重なる道筋で、羅城門から大極殿正門の朱雀門までのこの道筋を北へ、大内裏を貫いて通りの尽きるところは鷹峯(たかがみね)と呼ばれ、今宮通から先は鷹峯街道とも呼ばれている。この鷹峯街道の西を並ぶように金閣寺参道前から大文字山に沿う鏡石通があり、途中からは山との間に紙屋川が流れ、千本通、鷹峯街道が突き当たる府道三十一号に鏡石通を逸れて入る上り坂は、手元の地図に二十一パーセントの急勾配の注意書きがあり、胸突く坂である。この「坂」を上り切った鷹峯は、本阿弥光悦が徳川家康から貰い受けた場所であり、法華信徒の本阿弥一族、職工を伴い光悦村が出来、その名残りが庭に七つの茶席を持つ光悦寺である。狭いモミジの参道から山門を潜り現れる光悦寺はおよそ寺の様子ではなく、その七つの茶席の建物は庭内にちらばり、それぞれは植えられている草木の間を縫う小径を辿らねば行き着くことが出来ず、その最も奥の茶席に至ると南に視界が開け、鷹峯、鷲峯、天峯の三山と下を流れる紙屋川が見え、改めていまいる高さを知ることになる。光悦寺と府道三十一号を挟んだ向こう、千本通、鷹峯街道の終るところに、京都では珍しい曹洞宗の源光庵がある。紅葉の時期本堂の円窓から見える庭の景色を見たさに人が押し寄せる寺である。この本堂裏の庭に面した書院の襖絵はいわゆる山水画で、山口雪渓という絵師の手になるものであるという。三面の襖のところどころに山の稜線があり、木の繁りがあり、藁葺き屋根の人家があり、谷に川が流れ、小さな人の姿がある。その正面の襖に、大きな人家の手前に立つ小さな掘立小屋があり、中の壁に凭れ曲げた膝を抱えて座るひとりの老人が見える。やや顎を上げ、顔を外に向けている。部屋にあるものは何も載っていない膳が一つだけである。本堂の円窓は「悟りの窓」と呼ばれ、その隣りの障子窓は「迷いの窓」と呼ばれているというが、ゆったりとした白い着物を着た老人は、そのどちらの心境のようでもない。それをただ佇んでいるだけである、と云ってしまえば、白い鬚をはやした老人は筆と墨で描いたこの山水画から立ち現れて来ない。膝を抱えた老人は壁に凭れながらやや上目遣いで確かに何かを見ている、源光庵の建つこの鷹峯と呼ばれる場所が数百年前の昔にはそうであったかもしれぬ山の奥の木を掃って建てた掘立小屋の部屋の中から、たとえばこちらの方を。
「座蒲団 土の上には床がある 床の上には畳がある 畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ 楽の上にはなんにもないのであらうか どうぞおしきなさいとすゝめられて 楽に坐ったさびしさよ 土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに 住み馴れぬ世界がさびしいよ」(「座蒲団」(『思弁の苑』より)山之口獏『山之口獏全集 第一巻全詩集』思潮社1975年)
「海洋放出の風評被害賠償「業種、地域限定せず」 東電社長考え示す」(令和4年9月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)