西大路通四条通の交差点、西大路四条には阪急京都線西院駅(さいいんえき)と嵐電嵐山本線の西院(さい)があり、通りは繁華である。この交差点の西大路通を挟んだ四条通の北側の町名は、西院東淳和院町と西院西淳和院町といい、交差点東角にある高山寺の門前には、淳和院址の石碑が建っている。淳和院は淳和天皇仁明天皇に譲位後の後院で西院とも呼ばれたのである。淳和天皇は第五十代桓武天皇の第三皇子で、第一皇子平成天皇、第二皇子嵯峨天皇の後を受け、第五十三代天皇となった。異母兄二人は、女官藤原薬子とその兄仲成の口車に乗った上皇天皇として争い、平城で「ニ所朝廷」を構える平城上皇は平城への還都を進めようとするが、嵯峨天皇の命を受けた坂上田村麻呂に制圧され、叶わず、以後平安京明治維新まで千年続くことになる。世に波風立てず在位十年を区切りに淳和天皇が兄嵯峨天皇の第二皇子の仁明天皇に譲位したのは、恐らくは二人の兄の争い事を目の当たりにしたからである。この淳和院のおおよその大きさを示す東西淳和院町の、西側に沿って東西に走る佐井通(あるいは春日通)を四条通電気屋と信用金庫の間から入って行くと、左手に西院春日神社の一の鳥居が見えてくる。道端より高くなった石畳の短い参道を進み、二の鳥居を潜って右手、北の方角を向けば拝殿本殿の前に構える朱塗りの中雀門が目に入る。背後に樹木が繁る白砂の奥行の景色は格式をなぞる姿で、月に三日公開する疱瘡石は、淳和天皇の崇子内親王を悩ませた疱瘡がこの石に乗り移って癒えたものであるといい、その石の存在は、千年以上前の天皇の娘に起きた「奇蹟」を曰く言い難く、掃除の行き届いた日の当たる境内に「虚実の被膜」を醸し出す。本殿を囲む樹木の裏は西院小学校である。建て替え工事のプレハブ校舎のせいで面の詰まった校庭で、一年生と思しき児童が体育の授業を受けていた。ジグザグに置かれた地面の輪を片足でとび跳ね、行く手を阻む二本のゴム紐を越え、平均台を渡り、ゴールまで半周する。これが運動会の練習なのか評価の下るテストなのか分からない。が、足の早い者は足が早いと評価が下り、そうでない者はそうでない評価が下る。外からそうでない者の「奇蹟」を願っても「奇蹟」は起こらず、教員はそうでない者を早く走らせる指導に時間を割くこともなく、そうでない者はそうでないまま授業の終りを告げるチャイムが校庭に響く。縄とびの縄を抜ければ九月の町 大西泰世。

 「さて鷗外が『澀江抽斎』で描こうとした人間像の、およそどのようなものであるかは予(あらかじ)めわかるといってもいい。それが、「人間」であるかぎりは、普賢(ふげん)や文殊であってはならず、そうかといって植木屋の内儀や喜助のような「本能的人物」であってもいけないだろう。それは、どんな種類の束縛を受けていても、これに全く屈することのない反抗の精神をその行蔵に磅礴(ほうはく)とさせながら、しかも他面悠々として拘束裡に自由の境界を造立しうるような人間でなければならぬ。」(「森鷗外高橋義孝『昭和文学全集33』小学館1989)

 「冠水工法「気中より利点」 福島第1原発、更田規制委員長見解」(令和4年9月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)