大寒ややおら銀屏風起ちあがる 佃 悦夫。大寒に入ったある日、呼ばれ誘いを受けたその家の畳の上に銀屏風がおもむろに広がり披露され、暖房のない日本家屋のその室の寒さが一層肌身に感じる。か、大寒の時の寒さというのはまるで開いた銀屛風が目の前に現れたような寒さであるということなのかもしれない。大寒に入った一月二十一日、千の露店が並ぶ東寺の弘法市、初弘法が境内に立った。東寺、教王護国寺弘仁十四年(823)に弘法大師空海が第五十二代嵯峨天皇から貰い受けた寺である。『宇治拾遺物語』に東寺にまつわるこのような話が載っている。「今は昔、七条に薄打あり、御嶽詣(みたけまうで)しけり。参りて、金崩(かなくづれ)を行いて見れば、まことの金のやうにてありけり。嬉しく思ひて、くだんの金を取りて、袖に包みて、家に帰りぬ。おろして見ければ、きらきらとして、まことの金なりければ、「不思議のことなり。この金取るは、神鳴、地振、雨降などして、すこしもえ取らざんなるに、これは、さることもなし、こののちも、この金取りて、世の中を過ぐべし」と、嬉しくて、秤(はかり)にかけて見れば、十八両ぞありける。これを薄に打つに、七八千枚に打ちつ。これをまろげて、みな買はん人もがなと思ひて、しばらく待ちたるほどに、「検非違使なる人の、東寺の仏造らんとて、薄を多く買はんと言ふ」と告ぐる者ありけり。悦びて、懷にさし入れて行きぬ。「薄や召す」と言ひければ、「いくらばかり持ちたるぞ」と問ひければ、「七八千枚ばかり候ふ」と言ひければ、「持ちて参りたるか」と言へば、「候ふ」とて、懷より紙に包みたるを取り出したり。見れば、破れず、広く、色いみじかりければ、広げて数へんとて見れば、小さき文字にて、「金の御嶽金の御嶽」と、ことごとく書かれたり。心も得で、「この書付は、何の料の書付ぞ」と問へば、薄打、「書付も候はず、何の料の書付かは候はん」と言へば、「現にあり、これを見よ」とて見するに、薄打見れば、まことにあり。あさましきことかなと思ひて、口もえあかず。検非違使、「これは、ただごとにあらず、やうあるべし」とて、友を呼び具して、金を看督長(かどのをさ)に持たせて、薄打具して、大理のもとへ参りぬ。くだんのことどもを語り奉れば、別当驚きて、「早く河原に出で行きて問へ」と言はれければ、検非違使ども、河原に行きて、よせばし掘り立てて、身をはたらかさぬやうにはりつけて、七十度の勘(かう)じをへければ、背中は、紅の練単衣(ねりひとへ)を水に濡らして着せたるやうに、みさみさとなりてありけるを、重ねて獄に入れたりければ、わづか十日ばかりありて死にけり。薄をば金峯山(きんぶせん)に返して、もとの所に置きけると語り伝へたり。それよりして、人怖(お)ぢて、いよいよくだんの金取らんと思ふ人なし。あな恐ろし。」(二十二 金峯山(きんぶせん)薄打の事)昔、七条通にひとりの薄打職人がおり、ある日、奈良吉野の金峯山を詣でた折り、金崩と呼ばれている場所を試しに掘り返してみると、本物の金のように光るものが現れ、興奮してそのまま掘り出し、袖に仕舞って家に帰り、砕いて粉に擦りおろしてみると、そのまばゆい様は本物の金に間違いないと思いました。「しかしよくよく考えれば、今度のことは不思議な気がする。あの金崩で金を掘ったりする者には必ず雷が落ち、地震が起こり、大雨に降られ、誰も金を手に入れたことがないというのに、私の時にはそんなこともまったく起きなかった。そうであれば、これからはあの金崩の金を掘って暮らしていこう」と思うと嬉しさがこみ上げて来るのでした。ためしに手に入れた金を計ってみると十八両もあり、薄に打つと七八千枚にもなりました。この金箔をそっくり全部買い取ってくれる者はいないだろうかと思いながら日を過ごしていると、「いま検非違使が、東寺が新しく造る仏像のため金箔をいくらでも買い上げる」と云っていると教えてくれる者がいて、薄打職人はまってましたとばかり悦びいさんで金箔を懷に入れ、出掛けました。そして検非違使に「金箔を買い取って頂けますか」と訊けば、「どれくらい持っているのだ」と問われ、「七八千枚ほどでございます」と応え、「いま、持っているのか」と訊かれると、「お持ちしております」と応え、懷から紙に包んだ金箔を取り出します。検非違使がそれをあらためると、破れもなく、質も均一で、色つやも申し分がなかったので、手元に並べて枚数を数えようとすると、その一枚一枚に小さな字で「金の御嶽、金の御嶽」と書いてあるではないか。検非違使はこの意味が分からず、「何のためにこんな字を書きつけたのだ」と問う。薄打職人は「書きつけなどしたおぼえはございませんので、何のために書きつけたのかとおっしゃられても応えようもございません」と応えると、「現にあるではないか。これを見ろ」と云われ見れば、その通り書きつけてあります。職人はただ驚いて口をきくこともできません。検非違使は「これは只事ではない」と云って同僚を呼び寄せると、金箔を看督長に持たせ、薄打職人を長官の元へ連れて行かせました。その申し述べる経緯を聞いた長官は驚き、「いますぐ河原に連れて行ってその者を問い質せ」とおっしゃれば、検非違使たちはただちに賀茂の河原に行き、寄せ柱を立て、身動き出ないように薄打職人をその柱に縛りつけ、七十回もの拷問を加えたので、職人の背中は、水に濡れた紅の練絹の単衣を着せたように血でびしょびしょになっていましたが、そのまま牢屋に閉じ込められ、わずか十日ばかりで薄打職人は死んでしまいました。薄打職人が打った金箔は金峯山の金崩の、掘り出した元の場所に懇(ねんご)ろに埋め戻されたと語り伝えられています。このことがあってからは人は恐れをなし、当然金崩の金に手をつけようとする者はなくなりました。ばちが当たるということは本当に恐ろしいことです。検非違使という治安維持の役人が、東寺に収まる仏像のために金箔を買い上げていたという、当時の朝廷と東寺の関係を物語る話である。盆栽、古着、喰い物、漬物、野菜、乾物、食器、束子(たわし)、骨董、白蛇皮財布端切れ手提げなどの雑貨を見て回り買い求める者が波のように押し寄せ、子どもが光って回るおもちゃと串に刺した揚げ物を両手に親の後を必死について歩く混沌とした初弘法の市の中でいかにも大寒を思わせるのは、ひっそりと高野槇を売る店である。太くて長い針のような葉を無数につけた高野槇の切り揃え並べられた枝にはどこか粛然とさせる冷たさがあった。高野槇高野山に多く生えていたことからついた名であり、高野山空海がこれも嵯峨天皇から貰い受けた山である。盂蘭盆の時期六道珍皇寺では鐘を撞いて迎えた先祖の霊を高野槇の枝に移して持ち帰る。その六道珍皇寺の井戸を通って夜な夜な閻魔大王の書記をしていたという小野篁(おののたかむら)は嵯峨天皇に仕えていた官吏である。大寒の残る夕日を市の中 石橋秀野。

 「━なにしろ伝令がはこんでいった、伝令が通達するはずだった命令というのがそもそもどれもこれも後退命令だったし、その命令が伝達される部隊がいるはずの地点そのものだって後退地点だったからなんだが、ところがその地点にさえどうやらだれもたどりつけなかったらしく、そこで伝令たちがもっと前線まで、つまりその前の後退地点まで道をつづけてもやはり道路の左右に見えるのはただあのめったやたらにからみあった、単調でしかもなぞめいた、大敗戦のあとの残骸ばかり、つまりすでにトラックとか、焼けた荷車とか、男とか、子供とか、兵隊とか、女とか、馬の死体とかでさえなくなったただのがらくた━」(『フランドルへの道』クロード・シモン 平岡篤頼訳 白水社1979年)

 「東電旧経営陣、二審も無罪 原発事故強制起訴、大津波予見できず/二審も無罪判決、法廷内にため息 東電旧経営陣、傍聴席は見ず」(令和5年1月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)