2025-01-01から1年間の記事一覧
「円山公園 明治六年(1873)一月、政府は太政官布告を出し各地方に公園を設けるよう命じ、京都では同十九年(1886)維新後の神仏分離によって取り壊された祇園感神院の坊舎の跡地、円山一帯の社寺境内地(祇園の三院三坊の寺領)、安養寺六坊の地な…
今朝の冬頬ずりほどの日が顔に 岡本 眸。立冬の赤き馬穴に砂入れて 雨村敏子。子どもか孫が砂場で遊んでいる。日が傾いて来て呼び寄せて繋いだ子どもか孫の手が思った以上に冷たい。立冬や一年を経し犬の墓 東 亜未。七条に大原女を見し今朝の冬 村山故郷。…
金曜日のこの日の昼の回の、イオンシネマ京都桂川のスクリーン11の安っぽい座席に坐っていた客は全部で五人か六人だ。これからはじまる映画は十一月七日公開の三宅唱の『旅と日々』である。漫画家つげ義春の「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を原…
こは夢か夢路の霧にむせ倒る 服部土芳。ぬつくりと夕霧くもる枯野哉 加藤曉台。かたまりて通る霧あり霧の中 高野素十。霧の道現われ来るを行くばかり 松本たかし。霧をゆく人あり水になりながら 今井杏太郎。霧の中で人は、あるいは自分は物質としての「水」…
秋深き隣はなにをする人ぞ。芭蕉がこの句を詠んだのは、生まれ故郷の伊賀の実家でもなく、門人が集った深川の自宅でもなく、戻る場所のもはやない、帰る場所を持たない旅の途中の弟子の住まいであり、翌日の句会に出ることを諦めるほどの体調のすぐれぬ中で…
季語「秋の暮」は、「秋」という季節の「暮れ」の時期か、「秋の夕暮れ」時かという議論に、どちらでもかまわないと「正した」のが評論家山本健吉だが、女男坂もろともに昏れ秋の暮 石田波郷、は暮れる秋の夕暮れ時である。向ひ合ふ二つの坂や秋の暮 渡邊白…
明和六年(1769)、五十四歳の蕪村は三宅嘯山、炭太祇らが撰んだ『平安二十歌仙』の序にこのような言葉を寄せている。「其角(宝井其角、「名月や畳の上に松の影」「十五から酒をのみ出てけふの月」)が月に嘯く(うそぶく、詩歌を口ずさむ)体(てい)…
もとの婢の子を連れてくる秋日和 坪内逍遥。秋晴の麺麭(パン)食(は)みこぼす膝あはれ 石田波郷。 「娘はまだほどんど目を閉じたまま寝たり起きたりをくり返した。本物の子猫もはじめは目が開かないものだが、こちらは声をかけたり足の裏をくすぐるとヒト…
鰯雲個々一切事地上にあり 中村草田男。「今は昔、▢▢天皇の御代に西の市の蔵に盗人入りにけり。盗人蔵の内に籠りたる由(よし)を聞きて、検非違使共皆打衛(かこ)みて捕へむと為(す)るに、上判官(うへのはうぐわん)▢▢と云ひける人、冠にて青色の表衣(…
もの読めば十月革命といふことも 山口靑邨。この日、堀川通下立売の交差点で六、七名の警察官が、その一角に紐を張って通行を規制していた。その内のひとりの警官の足元に、全体が血で染まったマスクのようなものがあり、その傍らに数センチの血の溜まりがあ…
ふりむけば障子の棧(さん)に夜の深さ 長谷川素逝。長谷川素逝も結核で亡くなっている。明治四十年(1907)大阪生まれ。三重津中学、京都三高、京都帝国大学文学部卒。京都伏見商業、津中学教員。昭和十二年(1937)、砲兵少尉として応召、北支、中…
東山東福寺の塔頭光明院の方丈庭園は、昭和十四年(1939)、重森三玲の作である。「庭園<波心の庭>は方丈前にひらけた池泉式の枯山水で、面積は約三百八十坪(1150平方メートル)、洲浜苔の枯池に三尊石組を配して、背後にサツキやツツジを雲紋の…
「秋の声」という季語がある。高濱虚子編の『新歳時記』(三省堂1951年刊)には、「秋の聲 秋聲といふのは、秋になると天地に淅瀝(せきれき、哀れで寂しいさま)の聲を聞くやうになるのをいふのである。」と記され、例に、曉臺の「雲起つて寺門を出づる…
『蝸牛文庫15 芝不器男』(蝸牛社1994年刊)に載る「かの窓のかの夜長星ひかりいづ」の句には「病室にて」の前書があり、編著者の飴山實は、<かの窓>は郷里のわが家の窓である、と解説している。この句の傍らには「夜長星窓移りしてきらびやか」の句…
灯を消してより長き夜のはじまりぬ 岸田稚魚。長き夜や眼鏡に曇る雨の音 夏目成美。灯さなければ夜の雨は見えないが、その音が眼鏡越しに視界、気分を曇らせる。江戸後期の俳人の技巧の句。とけい屋が夜長のがらす戸に幕を 長谷川素逝。童話の一場面を思わせ…
黎明(れいめい、夜明け)を芙蓉の雨の音にみだれ 斎藤空華。「空華(くうげ)」は仏教語である。「かすんだ目で天空を見るときに、ちらちら見える花のようなもの。煩悩からおこる種々の迷いをいう。」(『新漢語林』大修館書店2011年刊)「空中の花。実…
なにがなしこころたのしき九月来る 日野草城。大皿を洗ひて朱き九月かな 平井照敏。そもそも大皿は朱い色をしているのであろうが、洗い上げた朱色は過ぎた暑い夏を想わせるのであり、九月は皿の手触りの秋の堅さと冷たさを孕んでいる。赫々の九月惨暑とも云…
通りすがりに赤い花が目に入り、そこがJR円町に近い下立売通の法輪寺であることはあらかじめ分かっている。その花が芙蓉であることも見当がついた。「達磨寺の通称で知られる法輪寺は、享保12年(1727)万海によって創建された臨済宗妙心寺派の寺で…
くらがりに京の声聞く六斎講 石原静子。六斎の揃うてきたるあしのうら 西野文代。六斎の鉦打ち男齢(よはい)澄む 西川保子。実際に澄んで聴こえるのは、年を経た技が打ち鳴らす音色であろう、云うまでもなく一心に。「六斎念仏。中世初頭ごろから京都を中心…
送り火の京言葉にてお舟はん 百合山羽公。「毎年七月十六日の夕暮れ、大文字の送り火は銀閣寺の後山、如意カ岳にあり。むかしこの麓に浄土寺といふ天台の伽藍あり。本尊阿弥陀仏は一とせ回禄(火災)のとき、この峰に飛び去り、光明を放ちたまふ。これを慕ふ…
さつきから夕立の端にゐるらしき 飯島晴子。この句の人物は、時間も場所もそこにいる理由も曖昧で何も断定出来ない。たとえばその場所らしい「夕立の端」とはどこか、夕立の降っている内側か、あるいは降っているのが目の当たりにもかかわらず濡れないところ…
手にとりてかろき団扇や京泊り 有働 亨。去来忌や折ふし妻の京訛 川越蒼生。「向井去來。氏は向井、姓は藤原、名は兼時、通稱平次郎、又次郎太夫といふ。肥前長崎の醫官、向井元升が二男にして、兄震軒と共に入洛し、天文暦數の學を以て、堂上家に仕ふ。後隠…
掛香や派手な浴衣の京模様 河東碧梧桐。浴衣にも裁掛をつけ京育ち 阿波野青畝。「掛香」は匂い袋を室内の柱などに掛け、香りを味わうという。「裁掛」は分からない。浴衣に裁った同じ布を着物のように掛け衿としているということか。秋風に浴衣は藍の濃かり…
あさがほに暑さのはてしなかりけり 久保田万太郎。むつがしき顔してあるく暑さかな 阿部青鞋(せいあい)。すぐ跔(かが)む少年に雲暑きかな 寺井谷子。落語「あたま山」は、さくらんぼの実を種ごと喰った男の頭から桜の木が生え、花が咲いて、集う花見客の…
「今は昔、震旦(しんたん)の疑観寺と云ふ寺有り。其の寺に法慶(はふきやう)と云ふ僧住みけり。開皇三年(583)と云ふに、法慶、夾紵(かふちよ)の釈迦の立像を造る。高さ一丈六尺也。未だ造り畢(をは)らざる程に、法慶忽(たちまち)に死にぬ。其…
晴れ姿とは組立てし鉾のこと 後藤比奈夫。横町やけふより鉾の立ちふさぐ 岸風三樓。京の町は鉾立つる日や雲の峰 中川四明。「京都・祇園祭は14日、見せ場となる前祭の山鉾巡行を3日後に控え「宵々々山」を迎えた。14~16日が前祭の宵山期間で、豪華に…
「これも今は昔、唐(もろこし)に、柳下恵(りうかくゑい)といふ人ありき。世の賢き者にして、人に重くせらる。その弟に、盗跖(たうせき)といふ者あり。一つの山懐に住みて、もろもろの悪しき者を招き集めて、おのが伴侶として、人の物をばわが物とす。…
「「まかり出でたる者は、このあたりの者でござる。それがし、当年は祇園会の当番に当つてござる。もはや近日の事でござる。おのおの呼び寄せ、役人をきはめ、稽古致さうと存する。やいやい、太郎冠者、あるがやい」「はあ、お前に居ります。「早かつた。汝…
「大沢の池、は清凉寺の艮(うしとら)にあり。菊が島といふは池の中島なり。天神のやしろあり。(このゆゑに天神島ともいふ)庭湖石(ていこせき、このかたはらの池の中にあり。むかし嵯峨院ありし時、巨勢金岡が建てしなり)。大沢の池の景色はふりゆけど…
紫陽花の毬の豪華や数ふべし 田村木国。紫陽草や藪を小庭の別座敷 芭蕉。元禄七年(1694)五月初旬江戸深川、子珊(しさん)宅で芭蕉の送別会が催される。生まれ故郷伊賀上野への旅であり、芭蕉は故郷へ戻ったこの年の十月、江戸へ戻ることなく大坂で亡…