一本の木も植わっていない墓地の、日照りの暑さは独特である。上京七本松通仁和寺街道上ルにある具足山立本寺(ぐそくざんりゅうほんじ)に、灰屋紹益(はいやじょうえき)の墓がある。紹益は、六条三筋の遊女二代目吉野太夫を身請けした町衆である。町衆粋人であるが、遊廓に出入りした後水尾天皇とも交わりがあり、その弟である関白近衛信尋(このえのぶひろ)と吉野太夫を競ったという。これは男女の話ではなく、商人と付き合うほど垣根を低くした、あるいは低くせざるを得なかった徳川の世の天皇宮家の様を物語っている。紹益は、本阿弥光悦の甥本阿弥光益の子であるが、紺染めに使う灰の問屋、灰屋紹由(はいやじょうゆう)本名佐野承由の養子であり、紹由は、遊女を身請けした跡取りの紹益を勘当同然にしたが、ある日雨宿りをした家で紹由を懇切にもてなした女主(あるじ)が吉野太夫だったと知ると、紹益の勘当を解いたということになっている。紹益が吉野太夫を身請けした年は寛永八年(1631)八月で、その二カ月前に紹益は、妻と死別している。その死別した妻は、本阿弥光悦の娘で、紹益の実父光益の従姉妹である。養父紹由の没年は、元和八年(1622)で、身請けした年にはこの世にいない。吉野太夫は寛永二十年(1643)、三十八歳で病死し、紹益はその遺灰を酒に混ぜて飲んだという。戯作者曲亭馬琴は、紹益の孫營庵(えいあん)を訪い、紹益のその後を『壬戌羇旅漫録』に記している。「吉野歿(ぼつ)してはるか後、浪華の小堀氏より妻を迎へたり。これにも子なく、七十三歳の時、妾に男子出生す。今の營庵の父紹圓(じょうえん)これなり。紹圓五十餘歳の時營庵出生す。營庵も六十歳ばかりに見ゆ。……營庵又いふ。紹益が菩提寺は、内野新地立本寺にあり(日蓮宗)この寺その頃は今出川町にありしが、その後御用地となり、今の地所に引けたりし時、墓も建てかへしにや詳(つまび)らかならず、石面は紹益と吉野と戒名二行に彫りつけあり、紹益は八十一歳にて歿しぬ。古繼院紹益 元禄四年十一月十二日 本融院妙供 寛永八年六月廿二日。」後水尾法皇は、立本寺第二十世管首日審に帰依し、その本堂の「立本寺」の扁額は、本阿弥光悦の筆であり、紹益の墓が立本寺にあるのは偶々(たまたま)ではない。笠石を載せた横に平べったい紹益の墓石の前面に、南無妙法蓮華経の彫り文字が微かに読み取れるが、その裏は風化が激しく文字を読み取ることは出来ない。紹益の孫が曲亭馬琴に語った享年寛永八年六月廿二日の本融院妙供は、吉野太夫ではなく、紹益の先妻の戒名である。紹益の墓の前に、こちら向きに子紹圓、孫營庵の墓が並んでいるが、吉野太夫の墓はない。五山の送り火の日から幾日も経ていないにもかかわらず、花のない花立ての水は腐り、地面には埃枯草が吹き溜まっていた。吉野太夫の墓は、寂光山常照寺にある。常照寺は、法華信徒本阿弥光悦徳川家康から貰い受けて一族職工集団が移り住み、法華の理想郷とした芸術村の寄進地に建つ、光悦の子光瑳の発願の寺である。吉野太夫の墓は、三方を椿で囲まれ、左右の花立てに鶏頭と桔梗が供えられていた。灰屋紹益、本名佐野重孝の菩提寺立本寺ではなく、洛中より数度気温が低い洛北鷹峯に眠る吉野太夫は、常照寺の過去帳に「佐野紹益先妻」と記されている。

 「遅くなって、全員で魚と米の夕食を摂った。暖かな、居心地の良い夜だった。コオロギの鳴く声が聞こえ、風が頬を撫でる。ビロードみたいな空だった。ふたりの伯母さんたちはひとしきり死んだグェンのことで嗚咽(おえつ)し、軀を揺すってしゃくり上げていたが、まもなく眠ってしまった。明るい半月が空にかかった。」(ティム・オブライエン 生井英孝訳『カチアートを追跡して』国書刊行会1992年)

 「「今後、さらに効果現れる」東京電力、凍土遮水壁巡り見解」(平成28年8月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)