短夜や一つまきたる草の蔓 玉木北浪。『新歳時記 虚子編』(三省堂1934年刊)の「短夜」はこう記されている、「短い夏の夜である。夏至は最も短い。俳句に於ては、日永は春、短夜は夏、夜長は秋、短日は冬。これはそれぞれ理由がある。先人の定めた所、決して偶然ではない。明易(あけやす)し、夏の朝。」この些(いささ)か違和感を覚える「偶然ではない」というもの云いは、「たまたまそうなのではない」ということなのか、分かるようで分からない。みじか夜や毛虫の上に露の玉 蕪村。短夜や乳ぜり泣く兒(こ)を須可捨焉乎(すてつちまをか) 竹下しづの女。知恵光院通五辻上ル紋屋町の本隆寺の境内に「夜泣止松」の駒札を立てた松が植わっている。「大永四年(1524)元旦の朝、當山五世日諦、看経のため昇堂するや、一婦人、嬰子(えいじ、乳飲み子)を上人に託し、養育を乞う。夜中に嬰子の母を慕って泣くこと屡々(しばしば)なり。上人抱いてこの松樹の周囲を廻るに、不思議なるかな、夜泣きたちまち止む。世人呼んで「夜泣止松」という。嬰子長じて知恵抜群、学識一世に高し。後に當山七世の名僧日脩(1524~1594)となる。天正八年(1580)正親町天皇(おおぎまちてんのう)より「法印」の称号を受く。」ある云い伝えによれば、毎夜泣いていたのはこの「一婦人」で、この若い女はすでに死んでいて、生んだばかりの子を思って成仏出来ないと云ったという。本隆寺法華宗である。同じ法華宗の、七本松通仁和寺街道上ル一番町にある立本寺の二十一世日審(1599~1666)は幽霊だった母親が夜な夜な飴屋で買った飴で育てられたと伝わっている。応仁文明の乱(1467~77)の前後の京における法華宗は「勢い」があった。「京都の半分は法華宗たる上は、信心の檀那等、身命を捨てゝ之を防戦せば、洛中以ての外の乱たるべし。」(『立本寺日胤諫暁始末記』)これは寛正六年(1465)十二月、法華諸山に寺院を破却し、門徒を洛外に追却すると通告してきた山門(叡山)に対する法華宗の返答である。応仁文明の乱を挟んで室町幕府は衰え、周辺からの真宗本願寺門徒一向一揆土一揆に対して町衆は自衛し、町衆を信徒としていた法華宗もまた武装し、享禄五年(1532)七月洛中に迫る一向一揆に抗すべく法華門徒は幟旗を立て題目を唱えて廻りながらあちこちに火を放つ一揆を起こす。裏にあったのは第十二代足利義晴が室町に不在の間権力者となった細川晴元本願寺との対立があり、法華と手を結んだ細川は山科本願寺に攻め勝つ。他宗を認めず町衆の自治を取り込んだ法華宗に対し、「洛中に多くの所領や諸末寺を擁し、王城鎮護の宗門であるという自意識に燃える山門にとって、洛中における法華宗のこのような繁栄と地子銭無沙汰の運動はとうてい無視しえないところであった。」(「乱後の復興と町衆・天文法華の乱」『京都の歴史3近世の胎動』學藝書林1968年刊)そして天文五年(1536)乱が起こる。本隆寺の夜泣きの日脩、十二歳の時である。「天文法華の乱、天文五年(1536)七月、延暦寺の衆徒が京都の日蓮宗徒を襲い、放逐した事件。これより先、天文元年(1532)山科本願寺を焼き討ちした京都の日蓮宗徒の一揆は年々勢力を拡大しつつあったが、同五年、日蓮宗徒と延暦寺僧との宗論を契機に、延暦寺は京中の日蓮宗徒の弾圧を決定、近江国守護六角定頼らの支援をうけて、七月二十二日から同二十八日にかけて、京中の日蓮宗寺院および宗徒らを放逐した。日蓮宗徒の中には後藤・本阿弥・茶屋・野本といった有力町衆もおり戦闘に参加したが敗退。日蓮宗寺院は京都から追放され、同十一年(1542)洛中還往の勅詔が下るまで京都から姿を消した。」(『京都大事典』淡交社1984年刊)乱のさ中大坂堺に逃れていた日脩少年の本隆寺は元の場所、四条大宮坊城には戻れず、浄福寺通を挟んだ西側杉若若狭守邸跡に再建され、豊臣秀吉天正十二年(1584)の大改造によりいまの地に移っている。そして「夜泣止松」はこの地に改めて植えられた。植えたのは日脩自身だったかもしれない。法華の教えに、法華七喩というものがある。その一つの「衣裏繋珠喩」はこのような話である。「貧しい放浪生活を送っていた男が、久しく顔を合わせなかった幼馴染みと再会し、家に誘われ歓待を受ける。その者は裕福な暮らしぶりで、貧しい男は久しぶりの酒に酔い潰れてしまう。そこに遠方からの急ぎの用事の知らせが入り、裕福な幼馴染みは酔い潰れて起きない男のことが気懸りになり、着ていた服の内側にとても値打ちのある「宝珠」を縫い込み、それを伝えることなく家を出て行った。酔いから醒めた貧乏な男は幼馴染みがいないことに軽い失望を覚えたが、その家を出てしまえばもうそのことは忘れ、もとの貧しい放浪生活に戻った。それから長い時を経て困窮を極めた男は再び裕福な幼馴染みと出会い、その口から縫いつけていた「宝珠」のことを教えられる。それを聞いた男は着ていた服を脱いで裏を解くと幼馴染みが云った通り「宝珠」が出て来た。そしていま貧乏な男はその「宝珠」を日光にかざしてみるのである。」その松の葉や皮を枕の下か床の下に敷いて寝ると夜泣きが止むという噂が立ち、葉や皮をむしり取られた松は枯れ、現在は三代目の松であるという。が、平成二十八年(2017)からの本堂修理のための白い囲いに覆われ、成長途上のような「夜泣止松」は蔑(ないがし)ろにされていた。が、その覆いも漸(ようや)く取り除かれ、工事の丸太の足場もこの秋には取れるという。「夜泣止松」は日脩少年の胸の内に秘されていた恐らくは母親を思い起こす松であろう。が、それは「宝珠」にはあらず、言葉によって「宝珠」となるものである。短夜や吾妻の人の嵯峨泊り 蕪村。

 「平福家は代々米穀や魚や乾物を手廣く商つてゐて、相當の豪商であつたらしい、ところが穂庵の父、太治右衛門は生來、繪が好きで、商賣の方はきらひであつた。父にかくれて、同じ町の酒造家の隱居武村文海といふ人に四條派の繪を習ひ、文浪と號した、父が死んでからは米穀商を止めて、染物屋になつた、そして染物の上繪を描いた、妻女も繪が上手で、夫を助けて、細かいものなど描いた。」(「穂庵のこと」山口靑邨『現代寫生文集』角川書店1955年)

 「処理水放出、溝埋まらず 漁業者「反対」、西村氏「丁寧な説明」」(令和5年7月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)