鉾を待つ二階手摺の緋毛氈 野村泊月。綾小路西洞院西入の芦刈山の、七月十七日の祇園会前祭の今年の巡行の順は第四番である。芦刈山には、鎌と芦を両手に持った翁が芦原の中に立っている。「山」には賑やかな囃子方は乗り込まず、緋色の縁取りの獅子の段通や燕子花の綴織を垂らした上に載る、傘を差したこの翁の人形一体だけが静々と十人ほどの者らの手で曳かれて行く。この翁の謂(いわ)れはこうである。摂津国にある夫婦がいたが、夫が困窮し、妻は夫と別れて都へ上り、さる高貴な者の家の乳母として仕えるようになる。時が経ち、ある日その妻だった女が仕えた家の家臣を引き連れ、故郷摂津にやって来る。それは別れた夫に会うためだった。が、夫は没落し行方知れずになっていた。妻は諦めきれず難波の浦に留まる。と、その一行のもとに一人の芦売りがやって来る。その男は「自分自身ですら驚くばかりの今の零落ぶり、市場の雑踏の中にこそこの姿を隠すことも出来るというもの、せっかく人と生まれながら何の因果か今や過ごすのは貧困の日々、露の命をつなぐべく芦売りとなったこの身の果て」と唄いつつ、風雅な踊りを披露し、芦にまつわる文句や言い伝えを一行の者らに聞かせる。そして芦を買いたいと伝えられ、一行の車に進み出た男が驚く。車の中にいた女は別れた妻だったのだ。男は小屋に身を隠し、一行の者に促されても自分の身を恥じて出て来ない。芦売りの男を自分の夫と知った女は、意を決して男に声をかける。妻の声を聞いた男が歌を詠む。「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波の浦ぞ住み憂き(あなたがいなくなって悪いことをした、別れなければよかったと思うにつけ芦を刈って暮らす難波の浦は住みずらいことだ)」妻が夫に歌を返した。「あしからじよからんとてぞ別れにしなにか難波の浦は住み憂き(よかれと思ったからこそ私もあなたとお別れしたのです、難波の浦が住みずらいなどとおっしゃってはいけません)」妻の優しい言葉に触れた夫は姿を現し、再会した妻の前で喜びの舞を舞うと、妻は夫を連れ一行と都へ帰る。これは『大和物語』の一段を元にした謡曲「芦刈」の話である。芦刈山は夫婦和合の「山」であるということである。が、『大和物語』より恐らくはやや遅くに成った『今昔物語集』の巻三十の第五にこのような話が載っている。「今は昔、京に極めて身貧しき生者(なまもの)有りけり。相知りたる人も無く、父母・類親も無くて、行き宿る所も無かりければ、人の許に寄りて仕はれけれども、其れも聊(いささ)かなる思(おぼえ)も無かりければ、「若(も)し宜(よろ)しき所にも有る」と、所々に寄りけれども、只同じ様にのみ有りければ、宮仕をも否(え)為(せ)で、為べき様も無くて有りけるに、其の妻(め)年若くして、形・有様宜(よろ)しくて、心風流(ふりう)なりければ、此の貧しき夫に随ひて有りける程に、夫、「万(よろづ)に思ひ煩(わづら)ひて、妻に語らひける様(やう)、「『世に有らむ限は、此(か)くて諸共に』こそは思ひつるに、『日に副(そ)へては貧しさのみ増さるは、若(も)し共に有るが悪しきかと、各(おのおの)試みむ』と思ふを、何(いか)に」と云ひければ、妻(め)、「我れは更に然(さ)も思はず。『只前(さき)の世の報(むくい)なれば、互に餓ゑ死なむ事を期(ご)すべし』と思ひつれども、其れに、此(か)く云ふ甲斐無くのみ有れば、実(まこと)に『共に有るが悪しきか』と、別れても試みよかし」と云ひければ、男、「現(げ)に」と思ひて、互に云ひ契(ちぎ)りて、泣く泣く別れにけり。其の後、妻は年も若く、形・有様も宜しかりければ、▢▢▢と云ひける人の許に寄りて仕はれける程に、女の心極めて風流なりければ、哀れに思ひて仕ひける程に、其の人の妻失せにければ、此の女を親しく呼び仕ひける程に、傍に臥せなどして思ひにくからず思(おぼ)えければ、然様(さやう)にて過ぐしける程に、後は偏(ひと)へに此の女を妻として有りければ、万を任せてのみぞ過ぐしける。而(しか)る間、摂津守に成りにけり。女弥(いよい)よ微妙(めでた)き有様にてなむ年来(としごろ)過ぐしけるに、本(もと)の夫は、「妻を離れて試みむ」と思ひけるに、其の後は弥(いよい)よ身弊(つたな)くのみ成り増さりて、遂に京にも否(え)居(を)らで、摂津国の辺(ほとり)に迷(まど)ひ行きて、偏(ひと)へに田人(でんぶ)に成りて人に仕はれけれども、▢▢▢に下衆の為(す)る田作・畠作、木など伐るなど様の事をも、習はぬ心地なれば、否(え)為(せ)で有りけるに、仕ひける者、此の男を難波の浦に葦(あし)を苅りに遣(や)りたりければ、行きて葦を苅りけるに、彼の摂津守、其の妻を具して摂津国に下りけるに、難波辺に車を留めて逍遥(せうえう)せさせて、多く郎等(らうどう)・眷属(けんぞく)と共に物食ひ酒呑みなどして遊び戯(たはぶ)れけるに、其の守の北の方は車にして、女房などと共に、難波の浦の可咲(をか)しくおもしろき事など見興じけるに、其の浦に葦苅る下衆ども多かりけり。其の中に、下衆なれども、故(ゆゑ)有りて哀れに見ゆる男一人有り。守の北の方此れを見て、吉(よ)く護れば、「恠(あや)しく我が昔の夫に似たる者かな」と思ふに、僻目(ひがめ)か▢思ひて強(あなが)ちに見れば、「正(まさ)しく其れなり」と見る。奇異(あさま)しき姿にて葦を苅り立てるを、「尚心疎(う)くても有りける者かな、何(いか)なる前(さき)の世の報(むくい)にて此(か)かるらむ」と思ふにも、涙泛(こぼ)るれども、然(さ)る気(け)無くて、人呼びて、「彼の葦苅る下衆の中に、然々(しかしか)なる男(をのこ)召(め)せ」と云ひければ、使走り行きて、「彼の男、御車に召す」と云ひければ、男、思ひも懸けねば、奇異(あさま)しくて仰(あふ)ぎ立てるを、使、「疾(と)く参れ」と音(こゑ)を高くして恐(おど)せば、葦を苅り棄てて、鎌を腰に差して、車の前に参りたり。北の方、近くて吉(よ)く見れば、現(あらは)に其れなり。土に穢(けが)れてた黒なる、袖も無き麻布の帷(かたびら)の膕本(よぼろもと)なるを着たり。帽子の様なる烏帽子を被りて、顔にも手足にも土付きて、穢気(きたなげ)なる事限無し。膕(よぼろもと、ひかがみ)・脛(はぎ)には蛭(ひる)と云ふ物食ひ付きて血肉(ちみどろ)なり。北の方、此れを見るに、心疎(う)く思(おぼ)えて、人を以て物食はせ、酒など呑ますれば、車に指向(さしむか)ひて糸(いと)吉(よ)く食ひ居る顔糸(いと)心疎(う)し。然(さ)て車に有る女房に、「彼の葦苅る下衆共の中に、此れが故(ゆゑ)有りて哀れ気に見えつるに、糸(いと)惜しければなり」とて、衣を一つ、車の内より「此れ彼の男に給へ」とて取らするに、紙の端に此(か)く書きて、衣に具して給ふ。あしからじとおもひてこそはわかれしか などかなにはのうらにしもすむ、と。男、衣を給はりて、思ひ懸けぬ事なれば、奇異(あさま)しと思ひて見れば、紙の端に書かれたる物有り。此れを取りて見るに、此(か)く書かれたれば、男、「早う此(こ)は我が昔の妻(め)なりけり」と思ふに、我が宿世(すくせ)糸(いと)悲しく恥かしと思えて、「御硯を給はらむ」と云ひければ、硯を給ひたれば、此(か)く書きてなむ奉りたりける。きみなくてあしかりけりとおもふには いとどなにはのうらぞすみうき、と。北の方、此れを見て、弥(いよい)よ哀れに悲しく思ひけり。然(さ)て男は葦苅らずして走り隠れにけり。其の後、北の方、此の事を此彼(とか)く人に語る事無くて止みにけり。然(さ)れば、皆前(さき)の世の報(むくい)にて有る故(ゆゑ)を知らずして、愚かに身を恨むるなり。此れは、其の北の方、年など老いて後に語りけるにや。其れを聞き継ぎて、世の末に此(か)く語り伝へたるとや。」(「身貧しき男の去りし妻、摂津守の妻と成る語(こと)」)昔、京に極貧の生活を強いられた高くも低くもない宙ぶらりんの身分の男がいた。親しい知り合いなど一人もなく、父親も母親も死んで親類縁者もおらず、戻り帰る住まいもなかったので、人に雇われる身分となって指図に従っていたのだが、それでもいくらかは気を遣ってくれるだろうという思いも裏切られ、「どこかにもっとましなところがあるかもしれない」とあちこち尋ね歩いてみたが、どこへ行っても似たり寄ったりのところばかりで、しまいには奉公そのものに嫌気がさし、とうとう行き詰まってしまう。この男の妻は年が若く顔かたちもその姿もきれいで鷹揚な心の持ち主だったので、このような貧乏人の夫に寄り添っていたのだが、ついに夫の方はああでもないこうでもないと思い悩んだあげく、妻に向かってこのようなことを口にした。「「この世で生きている限りいつまでもこうして一緒にいたい」と思っていたけれど、「日に日に貧しさに追いつめられてしまうのは、もしかするとお前と一緒にいるせいかもしれない。一度別々になって暮らしてみてはどうか」と思ったのだ、どう思う、と夫が云えば、妻は、「わたしは全然そんなふうには思いません。「このような様であるのはひとえに前世の報いであり、そうであれば互いに飢え死にしても一緒に」と思っておりました、が、それにしてもこんなにも当てが外れることばかり続いてしまったのですから、仰る通り、「一緒にいるのが原因かも」と考えるのあれば、試しに別々になってごらんなさいませ」と応えると、男は、「その通りだ、そうしよう」と決断し、お互いに再会を誓い合い泣く泣く別れたのである。妻の方は年も若く容姿も美しかったので▢▢▢という者のもとに身を寄せ、仕え従っていたが、もとより鷹揚で優しい心の女だったのでその主は可愛がり使っていたが、その者の妻が亡くなってからはこの女に身の回りの世話をさせているうち、床に入れれば情が移って、それから一緒に暮らすうちにすっかりこの女を妻同然に接するようになると、家事のすべてを任せる暮らしぶりになっていった。そのうちこの者が摂津守となり、女は益々幸せで何不自由なく年月を過ごしていた。一方夫の方は、「妻と別れたからには何とかしなければ」と思っていたが、その後はいっそうみっともなく落ちぶれ果て、とうとう京にもいることが出来なくなり、摂津国の辺りまでふらふら流れて行き、しまいには農夫に成り下がって人に使われていたが、(さすがに)下人のする田畑の耕作も木こりのような仕事も慣れない力仕事とあっては上手くこなせず、見かねた雇い主はこの男を難波の浦の芦刈りを云いつける。そして男は云いつけ通り難波の浦に行って芦を刈っていた。かたや摂津守が妻を連れ摂津国に下る道中、難波の辺りで牛車を止め、野遊びに興じ、何人もの家来や一族らと一緒に飲んだり食ったりしながらふざけ回っていた。その守の北の方(妻)は車の中で女房と一緒に難波の浦の心地のいい景色を眺めて楽しんでいた。浦には芦を刈っている下人が大勢いて、その中に下人の恰好をしていながらどことなく品があり何となく惹きつけられる男がいる。摂津の守の北の方がこの男を見つけ、その姿をじっと目にし、「まるでわたしの前の夫にそっくりだ」と思い、それでも見間違いかもしれぬと思ってもう一度目を凝らして見れば、「絶対間違いない」と思う。そして芦を刈っているそのみすぼらしい姿に、「相変わらず情けないお人だ。何ほどの前世の報いがあの人をこのようにさせているのだろう」と思うと涙が零れてしまい、それでも何気ない顔を作って人を呼び、「あそこで芦を刈っている下人のこういう男を呼んでおいで」と伝えると、使いの者が走って行って、「そこの男、御車の方がお呼びだ」と云うと、男は思いがけぬことにどうしてよいか分からずぼうっと突っ立っていると、使いの者が、「早く来い」と大声で怒鳴り、男は刈っていた芦を放り出し、鎌を腰に差しながら牛車の前にやって来る。北の方が近くからいま一度よく見れば、紛れもなく我が前の夫である。泥で汚れて黒くなった袖もない麻布の単衣の膝丈しかないものを着ている。僧の頭巾のうに潰れた烏帽子を被っていて、顔も手足も泥だれけで、これほど汚い恰好など見たことがない。それに膝の裏と脛には蛭という虫が吸いついていて血だらけになっている。北の方は夫のこのような様子を目の当たりにし情けない思いで人に命じ、ものを食べさせ酒などを飲ませる。貪(むさぼ)るように食いながら牛車のこちらに顔を向けるその夫の顔ほど情けない顔はなかった。暫(しばら)くして北の方は同乗している女房に、「あの芦を刈っていた下人の中であの男がどうしたものか気になって、気の毒な気がするものですから」と云って、着物を一枚車の中から取り出し、「これをあの男にやりなさい」と取らせ、紙の切れ端に次のように書き添えて渡した。先々悪くならないのではと、そう思って私たちは別れたのに、あなたはどうして芦刈りなどして難波の浦に住んでいるのですか、と。夫は着物を頂き、思いもかけぬことで不思議な気がして、見ると紙の切れ端に何か書いてある。それを手にして見ればこう書いてあるではないか。夫は、「何とこの着物をくれたのは私の前の妻であったのか」と知ると、自分の前世の報いがかくも悲しくてみっともなく思えてきて、使いの者に、「硯をお貸しいただきたく」と申し出る。硯を与えられた夫はこのように書いて奉った。あなたがいなくなってよけい悪くなったと思うにつけても、ますます難波の浦が住みにくくなる思いです、と。北の方はこれを読むとますます前の夫を哀れで悲しく思った。夫は芦刈りに戻らずそのまま走ってどこかに隠れてしまう。それから北の方は、このことについてひと言も口にせず、夫とのやり取りは終わる。皆前世の報いにもかかわらずその因果を理解することなく、愚かに己(おの)れの身の不運を恨むのだ。これはこの北の方が年を取ってから人に語ったのもであろうか。それを聞き継いできて、後世のいまもこのように語り継がれているのである。謡曲「芦刈」は夫婦が分かりあったが、『今昔物語集』の「身貧しき男の去りし妻、摂津守の妻と成る語」では、夫婦は分かりあえなかったのである。芦刈山の鎌と芦を手にしている翁は謡曲「芦刈」の夫とされている。が、一人佇むその姿は、『今昔物語集』の貧しい芦刈りの男のように見える。よかれと思って別れた前の妻に己(おの)れの姿がばれて逃げ込んだ芦の間から、去って行く妻の一行を永遠に見送っているかのように。真向いに東山あり鉾進む 野村泊月。

 「蕗の薹は、ほろ苦さを通り過ぎて顔を近づけていると顰(しか)めずにはいられないほどだったし、蓬は草餅を作るときと同じいいにおいがただよった。真夏の藍の葉は日向臭く、薄に似た刈安は和菓子のように甘い。竜胆の花は、可憐な花からは想像もつかないほど、ぷんと鼻につく。そして桜の枝葉は、染め上がりの赤みがかった茶色からも、甘いにおいがたつように感じられた。」(『鉄塔家族』佐伯一麦 日本経済新聞社2004年)

 「海洋放出、理解進まず 国・東電と意見交換会、相双漁協賛同なし」(令和5年7月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)