秋の暮辻の地蔵に油さす 蕪村。甲塚橋が架かる宝樹寺で南に折れる有栖川沿いの道を西に向かって六、七人の二十歳を過ぎたあたりの男女が歩いている。皆手ぶらで普段着のようなばらばらの恰好で誰かの命令で同じ歩幅で隊列を組んでいるわけでもなく、だらだら道草を食うでもなく、隣りの者と話をしている者もいればひとりで黙って歩いている者もいる。この道筋にこの者らの行く先を思い浮かべることが出来ぬままその後ろをついて行くと、油掛地蔵と染め抜いた幟がはためく四辻に行き当たり、この集団は足を止めその辻に建つ集会所の傍らの小さな御堂を遠巻きにする。彼らが遠巻きに立ったのは恐らく御堂の前に二人の「先客」がいたからである。運動着の恰好の中年の男がしゃがんで手に持った何かで油掛地蔵の台を拭いていて、その後ろに鳥打帽を被ったコート姿の年寄りが立ち、お参りの順番を待っているようだ。『山州名跡志』にこう記されている。「油掛地蔵、橋(安堵橋(現甲塚橋))の西一町半許(ばかり)路傍の左に在り。地蔵(石像立像四尺許)作不詳。諺に曰(いは)く、石像に油を掛くるは則ち願を満しむと。思ふに伏見油掛けに比する歟(や)。」あるいは『近畿歴覧』の「嵯峨行程」にはこうある。「油掛ノ地蔵此辺ニアリ、凡ソ油ヲ売ル人、此ノ所ヲ過ルトキハ、必ス油ヲ此ノ像ニ灌(そそ)イテ過ク、然(しかれ)トモ其由ヲ知ラス。」昭和五十三年(1978)に有志の者らが地蔵の積年の油を拭うと、そこには地蔵ではなく阿弥陀如来と、光背に延慶三庚戌(1310年)十二月八日、願主平重行の刻字が現れる。が、平重行が何者であるかは詳(つまび)らかでなく、阿弥陀如来が油掛地蔵になった経緯もいまだ明らかでない。ちなみに伏見西岸寺にある油掛地蔵の謂(いわ)れはこうである。「山崎の油商人が当寺(西岸寺)の門前で転び油をほとんどこぼしてしまい、災難とあきらめてのこりの油を地蔵にかけたところ、それ以降日ましに商売がうまくいき、大長者になったという。」(『京都大事典』淡交社1984年刊)鳥打帽を被った年寄りが地蔵の前の石の「溜まり」の油を柄杓で掬って地蔵に掛け手を合わせる。地蔵に掛けられた油はゆっくり石の肌を滑り降り、床のひとところに溜まる。先ほど運動着姿の男がやっていたのは、床の穴に溜まった油を「溜まり」に戻していたのかもしれない。年寄りが腰を上げると遠巻きにしていた若者らが一人ずつ同じように地蔵に油を掛け手を合わせる。近松門左衛門の『女殺油地獄』は、大坂天満の油屋河内屋の次男坊与兵衛が同業豊島屋の女房お吉を殺す話である。甘やかされ遊び人のような暮らしぶりをしていた与兵衛はついに番頭上がり義父に勘当され、金に詰まり、贋判で金貸しから金を借りるが、返せるはずもなく、日頃からつき合いのあったお吉のところに金の無心に来る。その前に、お吉と与兵衛の母お沢と義父徳兵衛との間でこのようなやり取りがあった。徳兵衛がお沢に黙って店の銭三百を懐にお吉の元を訪れ、もし与兵衛が寄るようなことがあったら内緒で渡してほしいとお吉に頼んでいたところに、お沢もまたお吉から与兵衛に渡してもらうために店から黙って持ち出した銭五百と粽一把を袂に入れてやって来て徳兵衛と鉢合わせになる。お吉は二人の親心を察しつつ、「おさわ様の心推量したやりにくい筈、こゝに棄てゝ置かしやんせ、わしが誰ぞよさそな人に拾はせましよ」と云うと、お沢は、「アゝ忝(かたじけな)いとてものお情、此の粽も誰ぞよさそな犬に、食はせて下さんせ」と云い、お吉もお沢も徳兵衛も泣く。金の無心に豊島屋に現れた与兵衛は、「死んで此の銀(借金)親仁の難儀にかくることに(迷惑がかかる)、不孝の塗り上げ身上の破滅」であると言い訳を云うと、お吉は、「まがまがしいあの嘘わいの」と突っぱね、金の代わりに商売の貸し借りとして油二升を渡すと云い、樽の前で与兵衛に背中を向ける。「消ゆる命の燈火は油量るも夢の間と、知らで桝取り柄杓取る、後ろに与兵衛が邪見の刀抜いて待てども見ず知らず、祝うて節分もお仕舞ひなされ、こちの人とも割り入つて相談、ある銀なれば役に立てまいものでなし、五十年六十年の女夫の中も、まゝならぬは女の習ひ、必ずわしを恨んでばし下さるなといふ内に、ともしに映る刃の光りお吉びつくり、今のはなんぞ与兵衛様、イヤなんでもござあらぬと脇差うしろに押し隠す、それそれきつと目も据つて、なう恐ろしい顔色、其の右手こゝへ出さしやんせ、おつと脇差持ちかへて是見さしやれ、何もない何もないといへどもお吉身もわなわな、アゝこなた様は小気味の悪い、必ず側へ寄るまいと、跡しさりして寄る門の口、明けて逃げんと気を配れど、ハテきよろきよろ何恐ろしいと、付け廻し付け廻し出あへとわめく一声二声、待たず飛びかゝり取つて引きしめ、音骨立つるな女めと、ふえのくさりをぐつと刺すさゝれて悩乱し手足をもがき、そんなら声立てまい、今死んでは年はもいかぬ三人の子が流浪する、それが可愛い死にともない、銀もいる程持つてござれ、助けて下され与兵衛様、ヲゝ死にともない筈尤(もつと)も尤も、こなたの娘が可愛い程、おれもおれを可愛がる親仁がいとしい、銀払うて男立てねばならぬ、諦めて死んで下され、口で申せば人が聞く、心でお念仏南無阿弥陀南無阿弥陀仏と引き寄せて右手より左手の太腹へ、刺いては抉り抜いては切り、お吉を迎ひの冥途の夜風、はためく門の幟の音煽(あおりが)ちに売場の火も消えて、庭も心も暗闇に打ちまく油流るゝ血、踏みのめらかし踏み滑り、身内は血汐の赤面赤鬼、邪見の角をふり立てつ、お吉が身を割(さ)く剣の山目前油の地獄の苦しみ、軒の菖蒲のさしも実(げ)に、千々の病はよくれども、過去の業病逃れ得ぬ、菖蒲刀に置く露の、玉も乱れて、息絶えたり」(『女殺油地獄』)与兵衛の母お沢が「犬に食はせて下さんせ」と云ってお吉に託した粽はお沢が与兵衛のために拵えた端午の節句の粽であり、与兵衛の「女殺し」はこの五月のいま頃の出来事である。四辻に行き当たる有栖川に沿う道は旧下立売通であるといい、そのまま辿って東へ進むと丸太町通に交わる下立売通と繋がり、下立売通をさらに東へ行けば智恵光院通と交わる手前に文政年間(1818~31)の創業であるという山中油店がある。であれば油掛地蔵に手を合わせた六、七人の若者らはこの油店の新人従業員かもしれぬと思った次第である。櫛つけて清水にさつと薄油 阿部みどり女。侘しさや大晦日(おおつごもり)の油売 河合曾良

 「その防波堤は、青い入海に一筋に伸びていた。突端のコンクリートの部分だけが高くなっていて、そこに到る石畳の道はひくく、満潮時にはすっかり水にかくれてしまう。防波堤の役にはあまり立たないのだ。これは戦争が始まって資材が不足してきたせいで、未完成のまま放置されたものらしい。だからまだ水のつめたい季節には、引潮のときに渡り、また引潮をねらって戻らねばならぬ。」(「突堤にて」梅崎春生『新潮日本文学41梅崎春生集』新潮社1973年)

 「飯舘、避難指示解除 復興拠点外は初、福島県内全拠点が完了」(令和5年5月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)