西洞院通(にしのとういんどおり)一条上ルの大峰図子町(おおみねずしちょう)に、大峰寺跡と説明札(ふだ)を立てた黒い門構えがある。平安時代、大峰殿とも呼ばれた、修験者の坊舎が立ち並ぶ大峰寺がこの地にあったのであるが、後に荒廃し、その証拠の、仏像を刻んだ二メートルの石塔が只一つ残り、その石塔は役行者(えんのぎょうじゃ)の塚であるとも、その法孫である日円の塚であるとも、あるいはこの大峰野辺で火葬された藤原道長の娘、三条天皇中宮藤原妍子(ふじわらのけんし)の火葬塚であるともいわれ、いまは金色の帳(とばり)が下がった小堂の中に納まっている。が、手前をフェンスで塞がれていて、その小堂に近づくことは出来ない。その金色の帳の下(もと)に供えられている、まだ首の垂れていない大輪小輪の菊の花の様子から、目を敷地の端で隣りの新築家の壁塗りをしている職人の手の動きに移して眺めていると、閉じた黒門の脇の出入り口から女の子どもが二人入って来て、その出入り口の板戸を押さえいた石で戸を閉じ、黒門の内に隠れるように身を低くする。子のひとりは、小さな赤いバケツを手に持っている。小堂の奥も残りの一方も家が建て込み、三方塞がりだった敷地は、この子ども二人に四方塞がりにされてしまう。門の外を、虫取り網を持った男の子どもが向こうを向いたままゆっくり通って過ぎて行く。子どものひとりが外に首を伸ばし、もうひとりがくすくす笑う。男の子どもが戻って来て、また門の前を過ぎて行く。隠れんぼの隠れる者は、その胸をときめかすのであろうが、見つける側の者には隠れる者にはない、どこへでも行くことが出来る自由があるにはあるのである。『今昔物語』の巻二十の第九の「天狗を祭りし法師、男に此の術を習はしめむとしたること」と題する話に大峰寺が出て来る。「今は昔、京に外術(ぐえずつ)と云う事を好みて役とする下衆法師有りけり。履(はき)たる足駄・尻切などを急(き)と犬の子などに成して這はせ、又懐より狐を鳴かせて出(いだ)し、又馬・牛の立てる尻より入(いり)て、口より出(いづ)など為(す)る事をぞしける。年来(としごろ)、此様(かくやう)にしけるを、隣に有りける若き男を極(いみじ)く▢(欠)ましく思ひて、此の法師の家に行きて、此の事習はむと切々(ねむごろ)に云ひければ、法師の云はく、「此の事は輙(たやす)く人に伝ふる事にも非(あら)ず」と云ひて、速にも教へざりけるを、男懃(ねむごろ)に「尚(なほ)習はむ」と云ひければ、法師の云はく、「汝ぢ実(まこと)に此の事を習はむと思ふ志有らば、努々(ゆめゆめ)人に知らしめずして、堅固の精進を七日して、浄く新しき桶一を儲けて、交飯(かしきがて)を極めて浄くして、其の桶に入れて、自ら荷(にな)ひ持て、止事(やむごと)なき所に詣で習ふ事なり。我は更に教へむに能(あた)はず、只其(そこ)を導く許(ばかり)なり」と。男、此れを聞きて、法師の云ふに随ひて、努々((ゆめゆめ)人に知しらしめずして、其の日より堅固の精進を始めて、注連(しりくへ)を曳(ひ)きて、人にも会はずして、籠居(こもりゐ)て七日有り。只極めて浄くして、交飯(かしきがて)を儲けて、浄き桶に入れたり。而(しか)る間、法師来て云はく、「汝ぢ実(まこと)に此の事を習ひ取らむと思ふ志有らば、努々(ゆめゆめ)腰に刀を持つ事なかれ」と懃(ねむごろ)に誡(いまし)め云ひければ、男、「刀を持たざらむ事安き事なり。難(むずかし)からむ事をそら、此の事にも懃(ねむごろ)に習はむと思ふ志有れば、辞(いな)び申すべきに非(あら)ず。況(いはむ)や刀差さざらむ事は難しき事にも非(あら)ざりけり」と云ひて、心の内に思はく、「刀差さざらむ事は安き事にて有れども、此の法師の此(か)く云ふ、極めて恠(あや)し。若(も)し刀を差さずして、恠(あや)しき事有らば、葢(かひ)しかるべし」と思ひ得(え)き、密かに小さき刀を返々(かへすかへ)す吉(よ)く鐃(と)ぎてけり。精進既(すで)に明日(あくる)日七日に満ちなむと為(す)る夕(ゆふ)べに、法師来たりて云はく、「努々(ゆめゆめ)人に知らせで、彼(か)の交飯(かしきがて)の桶を、汝ぢ自(みづか)ら持ちて、出立(いでたつ)べきなり。尚々刀持つ事なかれ」と誡(いまし)め云ひて去りぬ。暁に成りぬれば、只二人出(いで)ぬ。男は尚恠(あや)しければ、刀を懐に隠し差して、桶を打ち肩に持ちて、法師を前に立てて行く。何(いづ)くとも思(おぼ)えぬ山の中を遥々(はるばる)と行くに、巳(み)の時許(ばかり)に成りて行く。「遥かにも▢(欠)来たりぬるかな」と思ふ程に、山の中に吉(よ)き造りたる僧坊有り。男をば門に立てて、法師は内に入(い)りぬ。見れば、法師、木柴垣の有る辺(ほと)りに突(つ)い居て、咳(しはぶ)きて音なふめれば、障紙(しやうじ)を曳き開けて出(い)づる人有り。見れば、年老いて睫長なる僧の、極めて貴気(たふとげ)なる出(い)で来たりて、此の法師に云はく、「汝ぢ、何ぞ久しくは見へざりけるぞ」と云へば、法師、「暇(いとま)さぶらはざるに依りて、久しく参りさぶらはず」など云ひて、「此(ここ)に宮仕へ仕(つかま)つらむと申す男なむさぶらふ」と云へば、僧、「常に此の法師、由(よし)なし事云ひつらむ」と云ひて、「何(いど)こに有るぞ。此方(こなた)に呼べ」と云へば、法師、「出(い)でて参れ」と云へば、男、法師の尻に立ちて入(い)りぬ。持ちたる桶は、法師取りて、延(えん)の上に置きつ。男は柴垣の辺(ほとり)に居たれば、房主(ばうず)の僧の云はく、「此の尊(みこと)は若(も)し刀や差したる」と。男、「更に差さぬ」由を答ふ。此の僧を見るに、実(まこと)に気疎(けうと)く怖ろしき事限りなし。僧、人を呼べば、若き僧出(い)で来たりぬ。老いたる僧、延(えん)に立ちて云はく。「其の男の懐に刀差したると捜(さぐ)れ」と。然(しか)れば、若き僧寄り来たりて、男の懐を捜(さぐ)らむと為(す)るに、男の思はく、「我が懐に刀有り。定めて捜(さぐ)り出(いで)なむとす。其の後は我れ吉(よ)き事有らじ。然(しか)れば、我が身忽(たちまち)に徒(いたづら)に成りなむず。同じ死にを此の老僧に取り付きて死なむ」と思ひて、若き僧の既に来たる時に、密かに懐なる刀を抜きて儲けて、延(えん)に立ちたる老いたる僧に飛び懸る時に、老いたる僧、急(き)と失せぬ。其の時に見れば、坊も見えず。奇異(あさまし)く思ひて見廻(めぐら)せば、何(いづ)くと思えず大きなる堂の内に有り。此の導きたる法師、手を打ちて云はく、「永(なが)く人徒(いたずら)に成しつる主(ぬし)かな」とて、泣き逆(くか)ふ事限りなし。男、更に陳(のぶ)る方(かた)なし。吉(よ)く見廻(めぐら)せば、遥かに来たりぬと思ひつれども、早う、一条と西の洞院とに有る大峰と云ふ寺に来たるなりけり。▢(欠)男、我れにも非(あら)ぬ心地して家に返りぬ。法師は泣く泣く家に返りて、二三日許(ばかり)有りて俄(にわ)かに死にけり。天狗を祭りたるにや有りけむ、委(くはし)く其の故(ゆへ)を知らず。男は更に死なずして有りけり。此様(かくやう)の態(わざ)為(す)る者、極めて罪深き事供をぞすなる。然れば、聊(いささか)にも三宝(さんぼう)に帰依せむと思はむ者は、努々(ゆめゆめ)永(なが)く習はむと思ふ心なかれとなむ。此様(かくやう)の態(わざ)する者をば人狗と名付けて、人に非(あら)ぬ者なりと語り伝へたるとや。」昔京に、履物を仔犬に変えて地を這わせたり、懐から狐を取り出して鳴かせたり、立った牛や馬の尻の穴から口へ抜け出るような幻術を見世物にしていた悟りの乏(とぼ)しい法師がいた。隣りに住んでその幻術を目にする度に羨ましく思っていた男が、ある日法師を訪ね、頭を下げて教えを乞(こ)う。法師は、「容易(たやす)く教えらえることではない。」と断るが、若い男が尚も頭を下げると、「お前が心底教えを乞(こ)うのであれば、そのことをゆめゆめ人に公言してはならず、七日間慾を断って仏修行に徹した後、新しい桶を一つ用意し、中を浄めて粽(ちまき)を入れ、それを担(にな)ってさる尊い場所に参るがよい。私が出来るのは、その場所までの道案内である。」若い男は法師の言葉に従い、誰にも告げず、垂れ布を回して、仏修行一心の七日間を始める。用意したのは、新鮮な粽(粽)と洗い浄めた新しい桶である。その七日のある日、法師が来てこう云う。「お前が心から幻術を身につけたいと思っているのであれば、ゆめゆめ刀を身につけないように。」それを聞いて若い男は、「刀を持たないことなど何でもありません。たとえ出来そうにないことでも、私が本気で幻術を習いたいと思うのであれば、出来ないなどと云うことは許されませんし、刀を差さないことなどは、難しいことでも何でもありません。」と応えたのであるが、心の内にある考えが芽生えた。「刀を携えないことが、重大なこととは思わないが、この法師のもの云いは、どこか疑わしい。もし刀を持たずに不測の事態が起きたら、取り返しがつかないぞ。」若い男はそう思い、秘かに小刀を丹念に砥いで用意した。期限の仏修行が最後の一日となった日の夕方、法師が若い男の元にやって来てこう念を押した。「ゆめゆめこのことを他言せず、出発の時は粽(ちまき)の桶の仕度をし、くれぐれも刀だけは携えてはならぬ。」日の出の刻が来て、法師と若い男は出発する。若い男は刀を懐に隠し持ち、桶を肩から下げて、法師を先に立てながらその後ろをついて行く。どことも知れぬ山の中を遥々(はるばる)やって来て、九時も過ぎた頃、目の前に立派な僧坊が現れる。若い男を門の外に待たせ、法師が中に入り、小柴垣の傍(そば)で畏(かしこ)まったまま、咳払いをひとつしようとすると、その時障子戸が開き、睫(まつげ)の長い、高い身分を思わせる老僧が現れ、法師に、「お前は随分久しく顔を見せなかったな。」と云うと、法師は、「忙しくしておりまして、長々と参ることが出来ませんでした。」と応え、「こちらで修行し仕えたいと申しております男を連れてまいりました。」と云う。老僧は、「お前はいつもつまらぬことを云い出すものだな。」と云い、「その者はどこにいる、ここへ呼べ。」と云うと、法師が若い男に「こちらに参れ。」と声を掛けると、若い男は法師の後ろに続いて入って来る。法師は男から桶を受け取り、老僧のいる濡れ縁の上に置く。老僧が「この者は、刀を携えてているか。」と云うと、柴垣を背にしていた若い男は、「まったくそのようなものは持っておりません。」と応え、老僧を見れば、老僧は途轍(とてつ)もなく薄気味悪く、怖ろしい顔になっている。老僧は若い僧を呼び出し、「この者、刀を隠し持っているに違いない。懐を捜れ。」と告げる。若い僧が、若い男の元に寄って、その懐に手を伸ばす。若い男の中で思いが駆け巡る「懐の刀が見つかってしまうのはもう避けられない。そうなれば最早この身に好いことは起きず、私は無意味な存在になってしまう。どうせ死ぬのであれば、この老僧と差し違えて死のう。」そう思い、若い僧が懐に手を掛けるのを払って刀を抜き構え、若い男は、濡れ縁に立つ老僧に飛びかかっていった───。が、そこには誰の姿もない。老僧は、目の前から消え失せてしまったのである。それだけではなく、立派な僧坊も失せてなくなり、どうなってしまったのかと辺りを見廻すと、若い男はどことも知れぬ大きな堂の中にいるのである。傍(かたわ)らにあの法師が立っている。法師は、ハタと手を打ち、「人というものは、永遠に無意味な存在になるほかない。」と呟くと、血迷った如くに泣き崩れてしまう。それを見ても若い男は、何と云ってよいのか皆目分からない。外に出て改めて辺りを見ると、遥か彼方へ行ったつもりであったのが、若い男は、ほんの近くの、一条西洞院にある大峰寺に来ていたのである。若い男は、自分が自分でないような心持で家に帰り、法師も泣き止まぬまま家に戻ったのであるが、それから二三日で死んでしまう。天狗を徒(いたずら)に祭ったからとも思われたのであるが、死に至った本当の理由は分からない。若い男は、法師のようには俄(にわ)かに死ぬこともなく、法師のような幻術使いは、いづれにしても救いようのない罪深い事をするものだ、と思う。些(いささ)かでも仏に帰依しよと思う者は、ゆめゆめこのような幻術を習おうなどとは思ってはならない。幻術を使う者は、天狗と名づけられ、人にあらざる者である、と語り伝えたということである。身の不自由な者は、苦しくなって外に頭を出す。通りを見渡しても、二人を捜しているはずの男の子どもの姿はない。男の子どもは、今度は捜される側として、どこかに隠れているのかもしれない。あるいは、大峰寺で我に返った『今昔物語』の若い男のように、遊び相手を見失い、茫然と家に帰る途中であるのかもしれない。

 「シディ・ベリュオは野獣を馴らす術に優れていて、つねに獅子を玩(もてあそ)ぶ姿で知られていた。またシディ・アブデルラアマン・エル・メジュウブは碑文と預言に長けていたが、単に聖者であるはかりではなかった。精神に乱調を来たしていて、あらゆる知の根源と直接自然の交感をはたすことができた。」(「時に穿(うが)つ」ポール・ボウルズ 四方田犬彦訳 『優雅な獲物』新潮社1989年)

 「野口英世の記録ノート…『故郷』到着 ガーナから記念館に寄贈」(2018年5月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)