蟬の鳴き声が聞こえなくなると、芙蓉の花が目につくようになる。法輪寺の山門を入ってすぐの庭先で芙蓉が七つ八つ咲きはじめていた。この法輪寺は嵐山の法輪寺ではなく、下立売通御前西入ルのだるま寺である。だるま寺という名の謂(いわ)れは、境内に八千を超えるという大小様々なだるまを収める達磨堂があるからである。普段は滅多に参拝者のいないだるま寺が賑わうのは二月の節分会の時で、西大路通から下立売通に入った中空に高く揚がっただるま寺と書いた横断幕が寒風にはためき、狭い境内にだるまや食い物を売る露店が立ち、日の当たる本堂の縁側にだるまが並べられ、ハト麦茶を甘くした茶が振る舞われる。日本の縁起物の、赤く塗られた鬚面のだるまには手も足もない。面壁九年の坐禅修行の果てに手足が腐ってしまったからだといわれている。が、これはそう云いふらした者のついた嘘である。手足の内の片腕を無くしているのは、達磨の弟子の慧可(えか)である。禅仏教の開祖である達磨の前で、弟子入りを拒絶された慧可という男は、左腕を切り落としてみせた。これは弟子となる覚悟を示したということになっている。そのような覚悟をさせたのが達磨である。御仏にもらふ疲れや花芙蓉 大木あまり。信心の目で仏像を見ても、恐らくは疲れない。仏像を見て疲れるのは、美術鑑賞をする目である。芙蓉一花まづ咲き珠の小家建つ 能村登四郎。肥汲が辞儀して括(くく)る芙蓉かな 渡辺水巴(わたなべすいは)。この家に芙蓉一本のみ残る 宇多喜代子。家と、あるいは人と芙蓉という花との関係を、昭和の俳句はこのように詠んでいる。更地にした端に枯れずに残っていた芙蓉が、念願の家が建った傍らで花をつけたのを見て喜び、その芙蓉も時に便所の汲み取りには邪魔であり、時が経って家族がばらばらになって遂に空き家となっても、丈夫な芙蓉だけは今年も花をつけた。花芙蓉くづれて今日を全(まっと)うす 中村汀女。開いたその日に凋(しぼ)む花を「全うす」とする云いは、日頃から背筋を真直ぐ張って生活をしているような者の言葉である。だるま寺の本堂横のガラス戸を立てた出窓の内に、眠り猫のような白髪の受付の姿があった。芙蓉の花はこの正面で咲いている。もし誰と代わることもなくこの者が受付で一日居るのであれば、その一日は、時折気まぐれな風に薄桃色や白の花弁(はなびら)が揺れ、日が傾けばあっけなく凋む花を眺めるだけの一日である。『今昔物語集』に修行途中の達磨の話が載っている。巻第四の第九。「天竺ノ陀楼摩和尚、所々ヲ行(アル)キ見テ、僧ノ行ヒタル語(コト)。(前略)陀楼摩和尚、二人ノ古老ニ問テ云ク、「此ハ何(イカ)ニ。碁ヲ打ツヲ役ニテ年月ヲ送リ給フト聞ク所ニ、善ク所行ヲ見奉レバ、証果ノ人ニコソ、坐(マシマス)メル。其ノ由(ヨ)シ承(ウケタマ)ハラム」ト。二人ノ古老答ヘテ云ク、「我等、年来、碁ヲ打ヨリ外ノ事ナシ。但シ、黒勝ツ時ニハ我ガ身ノ煩悩増リ、白勝ツ時ニハ我心ノ菩提増リ、煩悩ノ黒ヲ打チ随ヘテ菩提ノ白ノ増ルト思フ。此ニ付テ我ガ无常(ムジヤウ)ヲ観ズレバ、其ノ功徳忽(タチマチ)ニ顕ハレテ証果ノ身トハ成レル也」ト云フヲ聞クニ、涙、雨ノ如ク落テ、悲キ事限リナシ。」(天竺中を修行して回っていた達磨和尚は、ある寺の薄汚い小舎の中で一日中碁を打っている、寺の者から厄介者扱いをされている二人の老僧を目にする。何とこの二人は対局が終わる度に一方が目の前で姿を消したり、また現れたりするのである。)達磨和尚は、思わず二人の老僧にこう訊ねたのです。「一体どういうことなのですか。お二人とも一日中、いや一年中碁をお打ちになってばかりいるとお聞きしました。ご様子を見れば私のような者でも、お二人が悟りを開いたお方であろうことは分かります。そのようなお方がどうしてこのようなことをなさっていらっしゃるのか、私にその理由をお教え下さい。」と。二人の老僧はこうお応えになりました。「あんたが私らをどう思おうが勝手だが、私らは碁を打つこと以外のことは何もする気はない。が、あんたはそのことを説明せよと云う。もしあんたが自分の質問が愚問であることを分かっていてそう訊いているのなら、そうであるのならばこっちも愚か者となって応えてやろう。私らのどっちかが打つ黒の石が勝った時には己(おの)れの煩悩の方が強かったということであり、白の石が勝った時は菩提心が勝(まさ)ったということだ。当然誰だって菩提の白は煩悩の黒に打ち勝ちたいと願っている。が、白が勝つ時もあれば負ける時もある。己(おの)れという存在は勝ったり負けたりする者であるということが分かれば、そう理解出来ることがすなわち悟るということだ。」これを聞いた達磨和尚はぽろぽろと涙をこぼし、止まらなくなってしまったのです。この寺の誰一人もこの二人の老僧を理解していないことが悔しくて悲しくなったからです。

 「「何のとりえもない小さな町です」とアンブローシオが言う。「行ったことはないんですか?」「ぼくは旅行を夢見ながら暮らしてきたんだが、たった一度だけ、八十キロ離れた所まで行ったことがあるだけなんだ」とサンディアーゴが言う。「ともかく、お前は少しは旅行したんだね」」(『ラ・カテドラルでの対話』バルガス=ジョサ 桑名一博・野谷文昭訳『ラテンアメリカの文学 17』集英社1984年)

 「帰還への住民思い複雑 復興拠点外の政府方針、避難先で生活定着も」(令和3年9月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)