「瑞竜山太平興国南禅禅寺は、東三条の北にあり。旧(もと)亀山法皇の皇居なりしを、開山大明国師に賜ふて五山之上の号を蒙る。当山の記に曰く、太上皇亀山院、弘安年中(1278~1288)にこの地に離宮をいとなみ給ふ。正応のはじめ(三年、1290)宮中にあやしき事おこりて、嬪妃(ひんひ)大いになやみあへり。陰陽頭(おんやうのかみ)にこれ卜巫(うらなひ)しむるに、故最勝院僧正道智、むかしこの地に棲む。世に駒の僧正と称す。その霊のこりて当山を秘惜(ひしやく)して障碍をなすといへり。故(かるがゆゑ)に顕密の諸師、咒術(じゆじゅつ)巫祝(ふしゆく、みこ)に及ぶまで百計手を拱(こまね)く。同四年(1291)東福の釈普門(当寺の開山なり。無関和尚といふ。謚(おくりな)大明国師)勅命を請けて、二十の僧侶を率ゐて宮中に安居し、たゞ何となく衲子(なふし、のうす、衲衣を着た禅僧)をとりて坐禅しけるに、物怪跡を匿(かく)し、上下安寐(あんしん)す。上皇叡感のあまり普門を礼して伽梨鉢多(きやりはつた、仏の奥義)をうけ給ふ。また宮をあらためて寺となし(上皇は上の宮に安居し給ひ、下の宮を寺となし給ふ)、遂に命あつて仏殿を創建し給ふ。」(『都名所図会』)南禅寺は、元(もとい)は第九十代亀山天皇の母大宮院の御所として建てた離宮で、上皇となって移り住んだ正応三年、住まいの扉が勝手に開いたり閉じたりするのを皇后が怖がり、陰陽師に占ってもらうと、かつてこの地にあった最勝院に住んでいた三井寺の僧正道智がいまだこの地に未練を残し霊が彷徨(さまよ)っていると出れば、顕教密教の僧、呪術師、はては神憑きの巫女までも呼びお祓いをしたが効き目なく、最後に東福寺の高僧無関普門を呼び寄せた。無関は二十人の僧を引き連れ、「たゞ何となく」、どうということでなく禅僧として坐禅をして過ごしただけで物の怪は消え去り、上皇も宮中の者も皆安堵し、上皇は感動のあまり無関に帰依して仏奥義を受け、離宮禅林寺殿の下の宮を南禅寺としたのである。そしてその住まいだった上の宮の場所にいま建つのが南禅院である。南禅院は、南禅寺境内南を貫く水路閣の股を潜った石段の上にある。その庭は亀山上皇離宮禅林寺殿の頃の姿を色濃く残しているという。「上ニ山有リ、水有リテ涌出シ澗(たに)ニ落ツ。曹源泉ト曰フ。潴(みづたまり)ハ池ト爲ス。池亦(また)其名ヲ同クス。池之象(かたち)者(は)龍也。」(「天下南禪記」大有有諸)「亭有リ曹源池ニ臨ム、上ノ池者(は)龍之象也。于曹源泉ニ首(はじま)ル。手足(しゆそく)觀ル可(べ)シ。太上皇嘗(かつ)テ此宮ニ在リテ、水石ヲ愛翫(あいがん)ス。」(「同」註)南禅寺山から水が流れ出ていて、その場所は曹源泉と云われ、その水の溜まった池も曹源池と名づけられ、亀山上皇が愛でたその池の形は龍にそっくりでその手足もそれと指すことが出来るほどであり、その「水の形」はそのまま残っている、というのである。が、いま目の前の庭の半分を占める池は、たとえば「龍のような」というより、真ん中を引き絞ってやや歪んだ「四国」のようであり、その強く絞ったところに反った石橋が架かっていて、庭に面した方丈の角に沿う如くそこより南と東に二つの池となって、片側南は「心字池」の様で半島を含む四つの島が浮かび、その最も大きい島は「淡路島」のような形をしており、もう一方には鶴島と亀島が寄り沿うように浮かんでいる。どの島も縁を石で固めて苔むし、ある島には幹の細い松やモミジが斜めに立ち、亀島には亀の頭の形をした石があり、鶴島には首のような尖った岩が立っている。池の淵に直線はなくどこも滑らかな曲線を描いていて、こちらの淵にも石や丸く刈り込んだ躑躅が飛び飛びに置かれあるいは植えられ羊歯が生え、狭い陸は一面苔で覆われている。向こう岸は山裾の斜面が降りて来ていて幾種類もの樹木が池に迫って池の面にその姿を映している。「曹源泉」は瀧口となって並べた岩で水を導く山肌から勢いよく東の鶴亀の池に流れ落ちていて、その交わり口では微かなさざ波を立てているが、やや遠ざかれば水面は静かである。庭の陸にも向こうの山裾にも幾本かのモミジが立ち混じっているが、まだどれも色づいていない。石橋の根元から池の面すれすれに幹を傾けているモミジの古木の葉の色は、ここ数日の季節外れの暖かさからか緑色を失ったまま紅味に達せず萎れはじめている。日射し越しによく見ればどの木も緑色を薄くして紅に変われずにいるような様子で突っ立っているようにも目に映る。この庭の緑濃き時を目にしたことがないが、向こうの山裾のその木蔭を闇のように暗くしてこの池を覆う時、そして視線をいまよりも低くこの池を見れば、あるいは歪んだ「四国」のような池が山裾を這う如くに潜む「龍」に姿を変えるかもしれぬ、ともふと思う。が、いまは十一月で晴天の空から午後の日射しが庭を覆い、紅葉もない庭を些(いささ)かしらけさせているのである。が、このような庭を目の前にして、亀山上皇の命を受け道智の霊を追い払うため無関普門が「たゞ何となく衲子をとりて坐禅」したのが、いま頃の時期だったかもしれぬ、と、「たゞ何となく」そう思う。晴れの日射しに景色が弛緩し、この地に住まう「龍」も「弛緩」していたのではないか、と。南禅寺境内の三門正面右手、天授庵より本坊水路閣に到る水参道を行き交う足は途切れることがないほどであるが、その左手法堂と僧堂の間の砂利を敷きつめた緩い石段にはほとんど人影がない。いまに限らずこの参道にはほとんど人影を見たことはない。法堂の裏の桜の木は紅葉した葉のほとんどを根元に落としている。人のいないことで景色は穏やかに目に映り、あるいは気の抜けたような、あるいはそのあまりの静けさに気の遠くなるような「永遠の」とでも云いたくなるような、僧堂の白い築地塀と石段の砂利の灰色と灰色の苔に覆われた桜の枝にしがみつく何枚かの紅い葉のかすかな揺れが、秋の景色である。行きづりに十一月の戸を立てつ 久乃代糸。

 「今、私が次男の植えたあけびのことを書いている間に、つぐみが一羽、ムラサキシキブと山もみじの間に置いてある水盤へ来て、水を飲み出した。シベリアからはるばるやって来たこのつぐみは、多摩丘陵の一つの丘の上にある私の家にはおいしい水の入った水盤があるのを覚えてから、よくやって来る。」(「わが庭の眺め」庄野潤三『野菜讃歌』講談社1998年)

 「処理水3回目放出を開始、20日完了へ 4回目も準備」(令和5年11月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)