秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行。『古今和歌集』秋歌の巻に載る歌である。些(いささ)かすでにいまのこの紅葉の時期からは外れた歌であるが、この藤原敏行の不可思議な話が『宇治拾遺物語』にある。「これも今は昔、敏行といふ歌よみは、手をよく書きければ、これかれが言ふに従ひて、法華経を二百部ばかり書き奉りたりけり。かかるほどに、にはかに死にけり。われは死ぬるぞとも思はぬに、にはかに搦(から)めて引き張りて率(ゐ)て行けば、わればかりの人を、おほやけと申すとも、かくせさせ給ふべきか、心得ぬわざかなと思ひて、搦めて行く人に「これはいかなることぞ、何事の過ちにより、かくばかりの目をば見るぞ」と問へば、「いさ、われは知らず。『たしかに召して来(こ)』と仰せを承りて、率て参るなり。そこは法華経や書き奉りたる」と問へば、「しかじか書き奉りたり」と言へば、「わがためにはいくらか書きたる」と問へば、「わがためとも侍らず、ただ人の書かすれば、二百部ばかり書きたるらんと覚ゆる」と言へば、「そのことの愁(うれ)へ出で来て、沙汰のあらんずるにこそあらめ」とばかり言ひて、また異事(ことごと)も言はで行くほどに、あさましく人の向かふべくもなく、怖ろしといへばおろかなる者の、眼をみれば、稲光のやうにひらめき、口は炎などのやうに、恐ろしき気色したる軍(いくさ)の、鎧甲着て、えもいはぬ馬に乗り続きて、二百人ばかりあひたり。見るに肝惑ひ、倒れ伏しぬべきここちすれども、われにもあらず、引き立てられて行く。さて、この軍は先立ちて去(い)ぬ。われ搦めて行く人に、「あれは、いかなる事ぞ」と問へば、「え知らぬか。これこそなんぢに経あつらへて書かせたる者どもの、その経の功徳によりて、天にも生れ、帰るとも、よき身とも生るべかりしが、なんぢがその経書き奉るとて、魚をも食ひ、女にも触れて、清まはることもなくて、心をば女のもとに置きて、書き奉りたれば、その功徳のかなはずして、かくいかう武き身に生れて、なんぢを妬(ねた)がりて、『呼びて給はらん。その仇(あだ)報ぜん』と愁へ申せば、このたびは、道理にて召さるべきたびにあれねども、この愁へによりて召さるるなり」と言ふに、身も切るるやうに、心もしみ凍りて、これを聞くに、死ぬべきここちす。さて、「われをばいかにせんとて、かうは申すぞ」と問へば、「おろかにも問ふかな。その持ちたりつる太刀、刀にて、なんぢが身をば、まづ二百に切り裂きて、おのおの一切づつ取りてんとす。その二百の切れに、なんぢが心も分れて、切れごとに心のありて、せためられんに従ひて、悲しくわびしき目を見んずるぞかし。堪へがたきこと、たとへん方あらんやは」と言ふ。「さて、そのことをば、いかにしてか助かるべき」と言へば、「さらにわれも心も及ばず。まして助かるべきことはあるべきにあらず」と言ふに、歩むそらなし。また行けば、大きなる川あり、その水を見れば、濃くすりたる墨の色にて流れたり。あやしき水の色かなと見て、「これはいかなる水なれば、墨の色なるぞ」と問へば、「知らずや、これこそなんぢが書く奉りたる法華経の墨の、かく流るるよ」と言ふ。「それはいかなれば、かく川にては流るるぞ」と問ふに、「心のよく誠をいたして、清く書き奉りたる経は、さながら王宮に納められぬ。なんぢが書き奉りたるやうに、心きたなく、身けがらはしうて書き奉りたる経は、広き野に捨て置きたれば、その墨の雨に濡れて、かく川にて流るるなり。この川は、なんぢが書き奉りたる経の墨の川なり」言ふに、いとど恐ろしともおろかなり。「さても、このこいとは、いかにしてか助かるべきことある。教へて助け給へ」と、泣く泣く言へば、「いとほしけれども、よろしき罪ならばこそは、助かるべき方をも構へめ。これは心も及び、口にても述ぶべきやうもなき罪なれば、いかがせん」と言ふに、ともかくも言ふべき方なくて行くほどに、恐ろしげなるもの走りあひて、「遅く率(ゐ)て参る」と戒(いまし)め言へば、それ聞きて、さげたてて率て参りぬ。大きなる門に、わがやうに引き張られ、また頸枷(くびかし)などといふ物をはげられて、結ひかがめられて、堪へがたげなる目ども見たる者どもの、数も知らず、十方より出で来たり。集まりて門に所なく入り満ちたり。門より見入るれば、あひたりつる軍(いくさ)ども、目をいからし、舌なめづりをして、われを見つけて、とく出で来かしと思ひたる気色にて、立ちさまよふを見るに、いとど土も踏まれず。「さてもさても、いかにし侍らんとする」言へば、その控へたるもの、「四巻経書き奉らんといふ願を発(おこ)せ」とみそかに言へば、今門入るほどに、この科(とが)は、四巻経書き、供養してあがはんといふ願を発(おこ)しつ。さて、入りて庁の前に引き据ゑつ。事沙汰する人、「かれは敏行か」と問へば、「さに侍り」と、この付きたるもの答ふ。「愁へどもしきりなるものを、など遅くは参りつるぞ」と言へば、「召し捕りたるまま、滞りなく率て参りて候ふ」と言ふ。「娑婆にて何事かせし」と問はるれば、「仕(つかまつ)りたることもなし。人のあつらへに従ひて、法華経を二百部書き奉りて侍りつる」と答ふ。それを聞きて、「なんぢはもと受けたるところの命は、いましばらくあるべけれそも、その経書き奉りしことの、けがらはしく清からで書きたる愁への出で来て、搦められぬるなり。すみやかに愁へ申すものどもに出(いだ)し賜(た)びて、かれらが思ひのままにせさすべきなり」とあるときに、ありつる軍ども悦べる気色にて請け取らんとするとき、わななくわななく、「四巻経書き、供養せんと申す願の候ふを、そのことをなんいまだ遂げ候はぬに、召され候ひぬれば、この罪重く、いとどあらがふ方候はぬなり」と申せば、この沙汰する人聞き驚きて、「さることやはある、まことならば不便(ふびん)なりけることかな。帳を引きて見よ」と言へば、また人、大きなる文を取り出でて、引く引く見るに、わがせしことどもを一事もおとさず、記しつけたる中に、罪のみありて、功徳のこと一つもなし。この門入りつるほどに発(おこ)しつる願なれば、奥の果(はて)に記されにけり。文引き果てて、今はとするときに、「さること侍り。この奥にこそ記されて侍れ」と申し上げければ、「さては、いと不便(ふびん)のことなり。このたびの暇(いとま)をば、許し給(た)びて、その願遂げさせて、ともいかくもあるべきことなり」と定められければ、この目を怒らして、われをとく得んと、手をねぶりつる軍ども失せにけり。「たしかに娑婆世界に帰りて、その願かならず遂げさせよ」とて、許さるると思ふほどに、生き返りにけり。妻子泣きあひてありける二日といふひ、夢の覚めたるここちして、目を見あけたりければ、生き返りたりとて、悦びて、湯飲ませなどするにぞ、さは、われは死にたりけるにこそありけれと心得て、勘(かんが)へられつることども、ありつる有様、願を発して、その力にて許されつることなど、明らかなる鏡に向かひたらんやうに覚えければ、いつしか、わが力付きて清まはりて、心清く四巻経書き。供養し奉らんと思ひけり。やうやう日ごろ経、頃過ぎて、例のやうにここちもなりにければ、いつしか四巻経書き奉るべき紙、経師(きやうじ)にうち継がせ、ケ(罫)掛けさせて書き奉らんと思ひけるが、なほもとの心の色めかしう、経仏の方に心の至らざりければ、この女のもとに行き、あの女懸想(けさう)し、いかでよき歌詠まんなど思ひけるほどに、暇もなくて、はかなく年月過ぎて、経をも書き奉らで、この受けたりける齢の限りにやなりにけん、つひに失せにけり。その後一二年ばかり隔てて、紀友則といふ歌詠みの夢に見えけるやう、この敏行と覚しき者にあひたれば、敏行とは思へども、さまかたちたとふべき方もなく、あさましく恐ろしうゆゆしげにて、うつつにも語りしことを言ひて、「四巻経書き奉らんといふ願によりて、しばらくの命を助けて、返さてたりしかども、なほ心のおろかに怠りて、その経を書かずして、つひい失せにし罪によりて、たとふべき方もなき苦を受けてなんあるを、もしあはれと思ひ給はば、その料(れう)の紙はいまだあるらん、その紙尋ねとりて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて、書き供養をさせて給べ」と言ひて、大きなる声をあげて泣き叫ぶと見て、汗水になりておどろきて、明くるや遅きと、その料紙尋ね取りて、やがて三井寺に行きて、夢に見つる僧のもとへ行きたれば、僧見つけて、「嬉しきことかな。ただ今人を参らせん、みづからにても参りて申さんと思ふことのありつるに、かくおはしましたることの嬉しさ」と言へば、まづわが見つる夢をば語らで、「何事ぞ」と問へば、「今宵の夢に、故敏行の朝臣の見へ給ひつるなり。四巻経書き奉るべかりしを、心の怠りに、え書き供養し奉らずなりにし、その罪によりて、きはまりなき苦を受くるを、その料紙は御前のもとになんあらん、その紙尋ねとりて、四巻経書き、供養し奉れ。事のやうは、御前に問ひ奉れとありつる。大きなる声を放ちて、叫び泣き給ふと見つる」と語るに、あはれなることおろかならず、さし向かひて、さめざめと二人泣きて、「われもしかじか夢を見て、その紙を尋ねとりて、ここに持ちて侍り」と言ひて取らするに、いみじうあはれがりて、この僧まことをいたして、手ずからみずから書き、供養し奉りてのち、また二人が夢に、この功徳によりて、堪へがたき苦少し免れたるよし、ここちよげにて、かたちも初め見しには変りて、よかりけりとなん見けり。」(巻第八の四「敏行朝臣の事」)昔、敏行という歌人は字が上手だったので、誰からの依頼にも応じ、法華経を二百部ほど書き上げ、そのようなことがあって、急に死んだのである。敏行は自分がいま死んでしまうなどとは思ってもみず、不意に引っ捕らえられどことも知れぬところへ連れて行かれ、「私のような者をたとえ帝であってもこのようなことをなさせることがあろうか。さっぱりわけが分からない」と思い、自分を引き連れて行く者に、「これはいったいどういうことだ。私はどんな間違いでこんな酷い目に遭わされるんだ」と問い詰めると、「さあ、私は何も知らない。ただ、「絶対召し連れて来い」という命令に従っているだけです」と応え、何かを思い出したように、「もしかしてあなたは法華経をお書きになられましたか」と敏行に訊く。敏行は、「確かに幾ほどか書いて差し上げたことがある」と云うと、「その中に自分のために書いたものは」と訊かれ、「自分のために書いたものはない。人が書いてくれと頼むので二百部ぐらい書いたと思う」と云うと、「たぶん、そのことで訴えが起こされ、裁判沙汰になっているらしい」とだけ応え、それ以外のことは何も云わない。そのまま暫く男に従って歩いて行くと、何ともいいようのない不気味さでまともに見ていられない恐ろしいなどという生易しいものいいではとても覚束(おぼつか)ない、その目は稲光のような光を放っていて、炎のような口をしたおどろおどろしい姿の軍兵が鎧兜を身につけ、何と形容してよいか分からぬ姿かたちの馬に乗り、ざっと二百人ばかりやって来るのを目の当たりにした敏行は肝が潰れ、いまにも卒倒しそうな恐怖に陥(おちい)り、己(おの)れを見失ったみたいに足を縺(もつ)れさせながら引き摺られ、軍兵たちが先に走り去って見えなくなると、自分を捉えている者に、「あの兵たちは何者か」と訊く。「分からないのか。あの者らこそあんたに経を頼んで書かせた者たちで、本当なら経の功徳によって天に生れ変り、極楽にも行くことが出来、そしてまた人に生れ変わっても立派な身の上でいられるはずだったのだ。それがどうだ。あんたが経を書き写している時、あんたは魚を喰うわ、女を抱くわ、潔斎もせず女のことばかり考えながら書き上げたので、あるべき功徳は台無しになり、あんないかついケダモノのような身になって生れちまって、あんたを心底恨み、「お呼び下され、この仇を返してやる」と訴えたので、いまあんたがこうして連れて来られたのはあんたの道理の寿命によって「こっち」へ来させられたのでなく、この訴えによって「召され」たのだ」と云われ、敏行は身を切り裂かれたように心も凍りつき、いまにも息が止まりそうである。「それで、私をどうしようというのだ」と訊くと、「バカなことを訊くな。あの持っている太刀や刀であんたの体をます二百にみじん切りにして、あいつら全員がそれを自分のものにするのだ。あんたの心も二百にみじん切りにされ、みじん切りにされたあんたの体の一つ一つにその心も入っていて、二百人全員にみじん切りにされたあんたが責めさいなまれ、悲壮感たっぷりの辛い目を見ることになるというわけだ。その耐え難さは言葉でたとえようがない」と云うと、敏行は、「どうしたらそうならなくてすむのか」と訊く。「そんなこと私が知るか。いうまでもなくあんたは助かる望みなんかあるはずがない」と云う。それを聞いた敏行はただ茫然と腰を抜かしたように足元が覚束なくなってしまう。そんな状態でまだ歩かされて行けば、大きな川が目の前に現れてくる。その水はよく見ると濃く擦った墨の色のように濁っている。異様な色だと思い、「この水はどうしてこんな墨の色をしているのだ」と訊くと、「ああ、知らないんだな。これはあんたが書き上げた法華経の筆の墨がこうして流れているんだ」と云う。「どうした分けで」と訊くと、「正しい心掛けで誠心誠意清らかに書き上げた経であれば、そのまま閻魔王宮に納められるが、あんたのように猥(みだ)らで汚(けが)らわしい態度で書き上げた経はだだっ広い野っぱらに捨てられ、雨が降れば濡れた墨がこんなふうに川に流れ出るのだ。だからよく見ておけ。この川はあんたが書き上げた経から流れ出た墨の川だってことを」こう聞かされると敏行はますますその恐ろしさに言葉を失うのである。「だが、どうにかしてここから逃れる手立てはないのか。どうか教えてくれ、私を助けてくれ」敏行は男に泣き縋(すが)る。「気の毒だが、並み一通りの罪だったら助かる方法を考えてもいいが、あんたの罪は私らの考えも及ばぬ言葉に表わしようがない重罪だから、どうしようもない」そう男に云われれば、敏行はそれ以上何も云えなくなってしまう。そしてまた二人は歩き出す。すると今度は恐ろしい顔つきの男が走って来て、「何をのろのろしてやがる」と敏行を捉えている男を叱り飛ばすと、敏行はいま捉えられたみたいに小突かれ促されて行き、大きな門の前に出る。そこには自分と同じように引き摺られ、中には首枷というものを嵌められ、体をくるぐる巻きに縛られた見るに堪えない酷い目に遭っている者らが何人も何人も四方八方から集まって来て、みるみるすし詰め状態になる。門の中を見ると、さっき目にした軍兵らが怒り顔でおまけに舌なめずりまでしていて、敏行を見つけると、「さっさとここへ連れて来い」という顔つきで辺りをうろつき回る。敏行はいよいよもって足が地につかない。「ほんとにもう、どうしたものやら」と漏らすと、捕らえていた男から「いますぐ四巻経を書き上げたいという願を起こせ」と耳打ちされ、いまいま門の中に入るというその時、敏行は自分の罪は四巻経を書き写すことでその供養として償いますと俄かに願を起こしたのである。そして門を入った途端、敏行は閻魔庁の裁判官の前に引き出された。裁判官が、「お前は敏行か」と問うと、「そうでございます」とつきの男が応える。「訴えが次々起こされているのになぜこんなに遅れたのだ」と問われ、男は、「召し捕ってすぐに連れてまいった次第です」と応える。「娑婆ではどんな功徳をつんだ」と今度は敏行に尋ねると、敏行は、「これといったこともしておりません。ただ人の依頼に応じて法華経を二百部書き上げましてございます」と応える。それを聞くと、「お前の授けられた寿命はまだ残っていたはずなのに、お前はその経を書き写した時のお前の態度が汚らわしく清らかでなかったという訴えを起こされこうして捕らえられたのだ。速やかに訴えた者らに身柄を引き渡し、その者らの思い通りにさせるがよかろう」と云うやいなや、先ほどの軍兵らは喜びいさんで敏行を受け取ろうと身を乗り出した。と、敏行はぶるぶる震えながら、「私は四巻経を書き写し供養とする願を立てましたが、その願が成し遂げぬままこのように召されてしまいました。されど私の犯した罪が重いことは重々承知しており、いかにも抗弁の余地もございません」と申し上げると、裁判官はこれを聞いて些(いささ)か驚き、「そのような事実があるのか。もしそうであるなら気の毒だ。帳簿を開けて調べなさい」と指図する。控えの者が大きな書類綴を取り出し捲ってみると、敏行のいままでして来たことのすべてが残らず書きつけられてあり、それらはどれも罪に当たるものばかりで功徳となるものは何ひとつなかった。敏行が願を立てたのは、あの門を潜る直前だった。そのためそのことは最後の最後の頁に記されていたのである。それで帳簿を捲り終る寸前で、「そのような事実がありました。最後の頁にそう記されております」と申し上げる。「であれば気の毒だ。この度(たび)は許す。お前に暇(いとま)を与える。その願を遂げさせてからどうとも処分を決めるがよい」と判決が下る。と、敏行を我がものにすべく手に唾して手ぐすねひいていた軍兵どもはその瞬間姿が消えてなくなり、「間違わず娑婆に戻り、その願を必ず遂げさせよ」との言葉を耳にし、これで許されると思った瞬間に敏行は生き返ったのである。敏行の妻と子が泣き暮らしたその二日目に、夢から目覚めたように敏行が目を開けたので、妻は生き返ったと喜び、湯を飲ませるようなことをすると、敏行は、「ああ自分は本当に死んでいたのだ」と気づき、問い糺(ただ)された先ほどの様子や願を立てたおかげで許されたことなどを鏡に映して見るように鮮やかに覚えていたので、そのうち身に力が戻ったら潔斎して心を浄め、四巻経を書き上げて供養をいたすとしようと思ったのである。それから何日か経って気持ちも落ち着いたので、四巻経を書き上げるべく紙を経師屋に継がせ罫を引かせて、さて書き写そうとも思ったのであるが、根っからの色好みであれば、経やら仏にどうしても気持ちが向かず、ついさる女のもとに行っては別の女のことを思い、どうにかして良い歌を詠みたいなどと考えているうちに、筆をとる暇もないまま空しく年月が過ぎ、まともに書き上げることもなく授けられた寿命が尽き果ててしまったものか、とうとう死んでしまった。それから一、二年ほど経った頃、紀友則という歌人の夢に敏行が現れた。その敏行と思われる者は確かに生前の敏行らしいのだが、その様子や顔かたちがたとえようもなくひどく恐ろしげで忌まわしくもあり、生前にも云っていたことを云い、「四巻経を書き上げる願によって暫く命拾いをしてこの世に戻されたが、結局いいかげんな気持ちのまま、その経を書かずに死ぬことになった。その愚かというしかない罪でいま、たとえようもない苦しみを味わっている。もし私を哀れとお思い下さるならば、その料紙を捜し出し、三井寺の某(なにがし)という僧に頼んで写経供養をしてもらってくれ」と云い、大声を上げて泣き叫ぶのを目にし、大汗を掻いて目が覚める。そこで紀友則は夜が明けるとすぐ、敏行が云った料紙を見つけ出してそのまま三井寺を尋ね、夢でその名の出た僧のもとに行くと、その僧は友則を見るやいなや、「何と嬉しいこと。たったいま使いの者をあなたのもとにやらせよう、いや、自分で行って申し上げようと思っていたことがあったのです。それがこうしておいで下さり、何と嬉しいことか」と云う。紀友則は自分が見た夢のことは話さず、「どうしたんです」と訊くと、「昨晩見た夢に亡くなられた敏行朝臣がお出になりました。四巻経を書き上げるつもりだったがなまけたまま書写供養をいたさず死んでしまい、その罪で底なしの苦しみを受けている。料紙はあなたのところにあるはずなので、あなたのもとに取りに行き、四巻経の書写の供養をして下さい。ことの経緯(いきさつ)はあなたにお尋ね下さい、とのことでした。大声で泣き叫んでおられたのをいまでも目に残っています」と語った。紀友則は、こみ上げる哀れな思いを押しとどめることが出来なかった。それから二人向かい合ってさめざめと涙を流し、友則が、「実は私も同じ夢を見て、その料紙を捜してここに持って来たのです」と云って手渡したのである。そしてこの僧も心から不憫に思い、真心を尽くてし自ら書写供養をすますと、また二人の夢に敏行が現れ、あなた方の功徳によって耐えがたい苦しみが僅かに免れることが出来たと屈託のない表情で語り、顔つきも前よりずっとよくなっていたように見えたものである。色好みの性分を捨てられなかった藤原敏行が見た墨の流れる荒涼たる川が、見て来たように目に残る話である。この敏行が死んだ時、紀友則が歌を詠んでいる。「藤原敏行朝臣の身まかりにける時に、よみてかの家につかはしける 寝ても見ゆ寝でも見えけりおほかたは空蟬の世ぞ夢にはありける 紀友則」(『古今和歌集』巻十六哀傷歌)

 「この部屋からは、海は見えないが、海の上の空は手にとるように見えた。一日じゅう雲の形が変化して行くのが見えた。すると、あの下に海があるのだな、と思うのだ。そして、海面そのものも見えるような気がしてくるのだった。これは、僕には、海が見えるのと同じことだった。それに、いまは海を見に行く季節でもなかった。」(「子供のために」阿部昭阿部昭全作品第2巻』福武書店1984年)

 「処理水、3回目の海洋放出完了 福島第1原発、次回は年明け以降」(令和5年11月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)