左京岡崎の平安神宮は、明治二十八年(1895)の平安奠都(てんと)千百年紀年祭に桓武天皇を祭神として創建された。社殿は平安京の正庁朝堂院を模し、拝殿はその大極殿の八分の五の大きさで、応天門もその応天門の八分の五の大きさである。昭和三年(1928)刊行の京都市役所編纂の『京都名勝誌』にはこう記されている。「━━これ(大鳥居)より正北二町半に應天門あり、冷泉通(卽ち夷川通)に面し、桁行六十尺・梁間二十四尺・棟高さ六十四尺あり。漆喰土壇上に立つ二層樓にして、階上に縁を廻らし朱勾欄を附し、斗拱は平安時代初期の様式手法により、軒二軒(ふたのき)、全部丹朱を以て塗り、垂木鼻は黄土を塗れり。屋根入母屋造碧瓦本瓦葺、棟の両端に鵄尾を附す。「應天門」三字の額は古様に模し、宮小路康文の筆なり。」いま目の前にある応天門の八分の八の大きさの平安京朱雀門の内に建っていた応天門が、貞観八年(866)に炎上する。「今は昔、水尾(みのを)の帝の御時に、応天門焼けぬ。人のつけたるになんありける。それを伴善男といふ大納言、「これは信(まこと)の大臣(おとど)のしわざなり」と、おほやけに申しければ、その大臣を罪せんとさせ給ひけるに、忠仁公、世の政(まつりごと)は、御弟の西三条の右大臣に譲りて、白川に籠りゐ給へるときにて、このことを聞き驚き給ひて、御烏帽子、直垂(ひたたれ)ながら、移しの馬に乗り給ひて、乗りながら北の陣までおはして、御前に参り給ひて、「このこと、申す人の讒言(ざんげん)にも侍らん。大事になさせ給ふこと、いと異様のことなり。かかることは、かへすがへすよく糺(ただ)して、まこと、そらごと顕(あらは)して、行はせ給ふべきなり」と奏し給ひければ、まことにもとおぼしめして、糺させ給ふに、一定もなきことなれば、「許し給ふよし仰せよ」とある宣旨(せんじ)承りてぞ、大臣は帰り給ひける。左の大臣は、過(すぐ)したることもなきに、かかる横ざまの罪にあたるを、おぼし嘆きて、日の装束して、庭に荒薦(あらごも)を敷きて出でて、天道に訴え申し給ひけるに、許し給ふ御使ひに、頭中将(とうのちゆうじやう)、馬に乗りながら、馳せまうでければ、急ぎ罪せらるる使ひぞと心得て、ひと家泣きののしるに、許し給ふよし仰せかけて、帰りぬれば、また悦び泣きおびたたしかりけり。許され給ひにけれど、「おほやけにつかうまつりては、横さまの罪出で来ぬべかりけり」と言ひて、ことにもとのやうに、宮仕へもし給はざりけり。このことは、過ぎにし秋の頃、右兵衛の舎人(とねり)なる者、東の七条に住みけるが、司に参りて、夜更けて、家に帰るとて、応天門の前を通りけるに、人のけはひしてささめく。廊の脇に隠れ立ちて見れば、柱よりかかぐりおるるものあり。怪しくて見れば、伴大納言なり。つぎに、子なる人おる。またつぎに、雑色とよ清といふ者おる。何わざして、おるるにかあらんと、つゆ心も得で見るに、この三人おり果つるままに、走ること限りなし。南の朱雀門ざまに走り去(い)ぬれば、この舎人も、家ざまに行くほどに、二条堀川のほど行くに、「大内の方に火あり」とて、大路ののしる。見返りて見れば、内裏の方と見ゆ。走り帰りたれば、応天門の上のなからばかり燃えたるなりけり。このありつる人どもは、この火つくるとて、のぼりたりけると心得てあれども、人のきはめたる大事なれば、あへて口よりほかに出(いだ)さず。そののち、左の大臣のし給へることとて、「罪かうぶり給ふべし」と言ひののしる。あはれ、したる人のあるものを、いみじきことかなと思へど、言ひ出すべきことならねば、いとほしと思ひありくに、「大臣許されぬ」と聞けば、罪なきことは、つひに逃るるものなりけりとなん思ひける。かくて、九月ばかりになりぬ。かかるほどに、伴大納言の出納の家の幼き子と、舎人が小童(こわらは)といさかひをして、出納ののしれば、出でて取りさへんとするに、この出納、同じく出でて、見るに、寄りて引き放ちて、わが子をば家に入れて、この舎人が子の髪を取りて、打ち伏せて、死ぬばかり踏む。舎人思ふやう、わが子も、人の子も、ともに童部(わらはべ)いさかひなり、たださてはあらで、わが子をしも、かく情なく踏むは、いとあらきことなりと腹立たしうて、「まうとは、いかで情なく、幼き者をかくはするぞ」と言へば、出納言ふやう「おれは何事言ふぞ。舎人だつる、おればかりのおほやけ人を、わが打ちたらんに、何事のあるべきぞ。わが君大納言殿のおはしませば、いみじき過ちをしたりとも、何事の出で来べきぞ。しれごと言ふ乞児(かたゐ)かな」と言ふに、舎人おほきに腹立ちて、「おれは何事言ふぞ。わが主の大納言を高家に思ふか。おのが主は、わが口によりて、人にてもおはするは知らぬか。わが口あけては、おのが主は、人にてはありなんや」と言ひければ、出納は腹立ちさして、家に這ひ入りにけり。このいさかひを見るとて、里隣の人、市をなして聞きければ、いかに言ふことにかあらんと思ひて、あるは妻子(めこ)に語り、あるはつぎつぎ語り散らして、言ひ騒ぎければ、世に広ごりて、おほやけまできこしめして、舎人を召して問はれければ、はじめはあらがひけれども、われも罪蒙(かうぶ)りぬべく問はれければ、ありのくだりのことを申してけり。そののち、大納言も問はれなどして、事顕(あらは)れてののちなん流されける。応天門を焼きて、信(まこと)の大臣に負ほせて、かの大臣を罪せさせて、一の大納言なれば、大臣にならんと構へけることの、かへりてわが身罪せられけん、いかにくやしかりけん。」(『宇治拾遺物語』百十四「伴大納言、応天門を焼く事」)その昔、清和天皇の御時に応天門が火災に遭った。何者かによる放火だった。この件を伴善男(とものよしお)という大納言が、「放火は左大臣源信(みなもとのまこ)のしわざでございます」と天皇に申し出ると、天皇左大臣源信を処罰さなろうとした。が、右大臣の地位を弟の西三条藤原良相(ふじわらのよしみ)に譲り白川で隠居のような暮らしをしておられた太政大臣藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、この話を耳にすると大いに驚かれ、烏帽子に直垂の略裝の姿のまま、連れて用意してあった馬にお乗りになり、乗ったまま内裏の朔平門にお入りになり、天皇の御前にお出になって、「放火の犯人につきましては、申した者が左大臣を犯人に仕立て上げようとしているのでしょう。左大臣を処罰するような大変なことをなさるのは常識外れで異常なことでございます。このようなことは慎重な上にも慎重に究明し、公明正大に真偽をはっきりさせてから処分をなさるべきです」とお訴えになられると、「もっともである」と天皇もお思いになれれ、改めてお調べなさると、左大臣に対する疑いは確実な何かがあったことでもなかったため、「左大臣源信をお許しになる旨を申し伝えよ」とする宣旨を頂き、藤原良房はお帰りになった。その頃左大臣は、過ちを犯してもいないのにこのような濡れ衣を着せられたことを悲観し、束帯姿で庭に敷いた荒莚の上で天道に向かってお訴えの祈りを申しておられ、そこにお許しを伝える使いの蔵人頭近衛中将の者が馬で駆けつけて来たので、早や罰せられることを伝えに来た使者だと思い、家中の者が泣きわめけば、お許しになるとの仰せを伝え帰って行ったので、今度は嬉し泣きに泣いて大騒ぎとなった。が、左大臣はお許しを頂いたのであるが、「このまま朝廷にお仕えしていればまたいわれのない罪に遭うことにもなるのだ」と云って、まったくもとのように出仕なさらなかった。この放火については、先年の秋ごろ、東の七条に住んでいた右兵衛府の舎人、ある下級役人が役所の仕事を終え夜更けの頃家に帰ろうと応天門の前を通りかかると、人の気配がして囁き声もする。とっさに廊下の脇に身を潜めて目を凝らすと、柱を伝って降りて来る者がいる。怪しく思ってなおよく見ると、その者は伴大納言ではないか。それから子の中庸が降りて来て、従者のとお清という者も降りて来た。「いったい何ごとであのように柱から降りて来たのか」と、その意味がまったく分からず見ていると、三人は降りるやいなや一目散に走り出し、南の朱雀門の方へ走り去るのを見届けると、この舎人も己(おの)れの家の方に帰って行った。が、二条堀川の辺りで、「大内の辺りで火事だ」と朱雀大路の方で人々が騒いでいる。振り返って見ると、火の手は確かに内裏の方向のようだ。走って戻ると、なんと応天門の半分が燃えてしまっている。「さきほどのあの人たちがこの火をつけるために登っていたのにちがいない」と思ったが、人の一身にかかわる大事(おおごと)であれば、舎人はひと言もこのことを誰にも話さなかった。するとそれからまもなく、「あれは左大臣がなさったことだ」とか、「罪を被られれるだろう」と評判が立った。「何ということだ、まったく別の者が犯人なのに、酷いことだ」と思ったが、かといって自ら云い出せるようなことがらでもないので気の毒に思っているうちに、「左大臣が許された」と耳にしたので、そもそも罪がなければ、最後には免れることが出来るものだと思ったのである。このようなことがあって九月を迎えたある日、伴大納言の出納係の幼い子と、かの舎人の子どもがけんかになり、出納の子が喚きだしたので舎人が宥(なだ)めようと家から出ると、丁度出納係も出て来て舎人の目の前で子どもらに寄って二人を引き離し、己(おの)れの子を家に戻してから舎人の子の髪の毛を掴んで地面に引き倒し、殺さんばかりに踏みつけたのだ。それを見て舎人は、「自分の子も相手の子もまだ幼くて、そんな子どものけんかなのにそのままにしておかず、私の子どもだけをあんなにも情け容赦なく踏みつけるのは何て酷いことをするのだ」と腹を立て、「お前は何て情け容赦もなくこんな小さい子に酷いことをするのだ」と云うと、出納係は、「貴様こそ何を云ってる。舎人ふぜいのお前みたいな小役人を俺が殴ったからといってどうってことはない。わが主(あるじ)の大納言殿がいらっしゃる限り、たとえどんな悪事をしたって咎(とが)められることなどない。たわけたことをぬかすな糞野郎」と応えると、舎人も今度は大いに腹を立て、「お前は何を云っている。手前の大納言のご主人様が本気で偉いと思っているのか。お前の主人は俺が黙っているおかげで人並にしていられること知らねえだろう。俺がひと言云えば、お前の主人なぞただですむものか」と云ったので、出納係は腹立ちを堪えたまま家に引っ込んでしまった。この時二人のけんかを見に隣近所から集まった者らは、舎人の話を聞いて、何のことを云っているのだと、ある者は妻子に云って聞かせ、ある者は次々に人に喋り散らすとたちまち評判になり、どこまでも広がってついには天皇のお耳にまで達して、舎人は呼び出され、尋問を受ける。舎人ははじめは何も知らないと突っぱねていたが、このままではお前も罪を被ることになるぞと脅されると、ありのまま放火の件を申し述べたのである。それから大納言も尋問を受け、事が発覚し、流刑を言い渡された。応天門に火をつけ、それを左大臣源信の仕業にして罪を負わせ、主席の大納言である己(おの)れが大臣の座につこうと計略したものが、自らその罪を被ることになってしまい、どれほどくやしい思いをしたことか。が、『三代実録』『伴大納言絵詞』などによれば、応天門が焼けたのは貞観八年(866)閏三月十日で、この年の八月三日に備中権史生大初位下・大宅鷹取が放火の犯人を大納言伴善男とその息子中庸であると訴え出る。応天門から火の手が上がる直前に門から走り去ったのはこの親子とその雑色の紀豊城である、と。その前に火災の後『宇治拾遺物語』の通り、大納言伴善男左大臣源信を失脚させるため放火は源信がなすところと云い、右大臣藤原良相に謀り、良相が藤原基経に信の邸宅を兵で囲ませようとするが、基経が太政大臣藤原良房に告げると良房は信を弁護し大納言伴善男の訴えは不発に終っている。大宅鷹取は己(おの)れの娘が大納言伴善男の僕従生江恒山に殺され己(おの)れも傷を負わされ、大納言伴善男を恨んでいた。清和天皇は参議南淵年名らに大納言伴善男を取り調べさせるが、大納言伴善男は無実を主張する。一方、陰陽寮が応天門の火災の原因を占うと、さる山陵が穢されたことによるものと出、調べれば、樹木の伐採の跡が見つかり陵守に譴責の処分が下る。また一方で、太政大臣藤原良房が摂政に任ぜられる。一度疑いをもたれた左大臣源信は事件後出仕なく邸に籠り、右大臣藤原良相も病気を理由に出仕が覚束なく、その下の地位にあった大納言伴善男が放火の疑いをかけられたままであったからである。そしてついに大納言伴善男の僕従生江恒山と伴清縄らが大宅鷹取父娘殺傷事件の犯人として捕らえられ、尋問のさ中、応天門の放火を自供すると、再び大納言伴善男・中庸父子の放火疑惑が浮上し、尋問の者が「中庸が自白した」と大納言伴善男に偽ると伴善男は罪を認め、九月二十二日遠流の刑が下る。その一方で、左大臣源信と右大臣藤原良相が相次いで急死し、藤原良房は朝廷の全権を掌握することとなり、以後藤原北家の盤石の礎が築かれることになる。放火事件から二年後の貞観十年(868)、伴善男流刑地の伊豆で没す。が、応天門放火事件の「真相」は不明であるとされている。が、ただ一つ明らかなのはその後の藤原一族の繁栄である。かくて、九月ばかりになりぬ。九月の森石打ちて火を創るかな 寺山修司

 「━━しかし私の下宿からは神泉苑も近かつた。神泉苑は当時既に池には水もなく、埃つぽい小庭園に過ぎなかつたが私の好む休みの場所となつた。二条城も私の散歩の範囲にあつたし、二条駅も私の好きな場所であつた。散歩の途次、私は二条駅の木柵に凭(よ)り、単線のレールが鈍く光つてゐるのを眺めながら、花園、嵯峨、保津峡、更に胡麻、和知、安栖里(あせり)、山家などと、頻りに旅が思はれたりした。またある日、春風の中に笛や、鉦の音が聞えてゐるのに誘はれ、その音を頼りに行つてみると、壬生(みぶ)狂言が行はれてゐたりもした。」(「澪標(みをつくし)」外村繁『現代文学大系30 室生犀星・外村繁』筑摩書房1965年)

 「処理水放出の差し止め求め国と東電を提訴」(令和5年9月9日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)